白咲百合香は祈りで人を殺す

不思議乃九

第0話 この夜、百合香は死んだ

 引き金に、指がかかっていた。


 冷たいなんて、とうに感じなくなっていたのに、そのときだけははっきりと分かった。鉄の感触。汗と血で滑りかけた指先。銃口の先で、誰かがひざから崩れ落ちようとしている。


 わたしは、祈っていた。


 言葉にはならない。ミサで習った長い祈祷文でもない。ただ、心臓の鼓動に合わせて、胸の奥でなにかが繰り返しつぶやかれていた。


 ──どうか、赦さないで。


 銃声が、世界をひとつ分だけ軽くする。


 遅れて、頬に血の飛沫がかかった。温度だけが生々しくて、現実感というやつはどこか遠くに置き忘れてきたみたいだ。音は遠い。匂いは近い。床に倒れたその人の顔は、あえて見なかった。


 ここからさきの記憶は、いつも途切れ途切れになる。

 だから、少しだけ巻き戻す。


 この夜、白咲百合香が死ぬ、少し前まで。


  *


 夕方の鐘が鳴る教会は、世界でいちばん嘘くさい音がする場所だと、昔から思っていた。


 「百合香、ミサに遅れるぞ」


 古い聖堂の裏通路で、司祭はいつものように笑っていた。

 わたしは返事をしないまま、濃い灰色の空を見上げていた。空は、もう空ではない。何年か前の“観測断層”のせいで、上空には補強用のメタフレームが蜘蛛の巣みたいに組まれていて、その隙間からかろうじて、昔の青の残滓が覗いている。


 世界は壊れたまま、なんとなく動いている。

 教会も、わたしも、その一部だった。


 あの日以来、教会は変わった。

 ミサの時間が減って、相談室と懺悔室の数だけが増えた。祈りの言葉より、申請書と同意書のほうが増えた。祭壇の裏には、回線の束と、鉄の箱が並んだ。神は、ケーブルを通して祈りを受け取るらしい。


 そして、懺悔室は、“窓口”になった。


 「……今日も、来るかな」


 わたしは、懺悔室の木の扉に軽く指先を触れた。古い木は、人間よりよっぽどよく覚えているから嫌いだ。


 小さい頃、この中に母親と入ったことがある。母は震える声で、途切れ途切れに自分の過ちを告白していた。わたしは、ただ隣で息を殺していた。あの日、たぶん、いくつかの未来がいっせいに死んだ。


 司祭は、あのときと同じ優しい声で、今も懺悔を受けている。

 ただ、ひとつだけ違う。


 ──懺悔は、祈りだけでは終わらなくなった。


 教会の地下。しめった階段を降りた先に、新しい扉がある。

 そこは、“本当の”懺悔室だと皆が呼んでいた。


「百合香、おまえに話がある」


 夕食後、司祭に呼ばれた。祭壇の裏、誰も入らないはずの部屋。電気は点いているのに、なぜか薄暗く見える。


 部屋の中央には、テーブル。その上に、小さな黒い金庫と、タブレット端末。それから──布で覆われた、細長いもの。


 司祭の声はいつもと変わらない。変わらないことが、逆に怖かった。


 「知っているな。ここのところ、懺悔が増えている」


 「……はい」


 「懺悔だけで済む罪ばかりなら、我々も楽なのだがな」


 そう言って、彼はタブレットを操作する。

 画面に、音声ログのリストが並んだ。日付、名前、危険度。見慣れたインターフェース。教会の“聖務庁”が管理する、懺悔データベースだ。


 一番上に、新しい通知が点滅している。


 【新規懺悔:女性/三十代/危険度S】


 司祭は、その行をタップした。

 スピーカーから、壊れたラジオみたいな声が流れ出す。最初は、泣き声だけ。


 『……し、シスター、聞こえていますか……』


 わたしは黙って頷いた。端末に向かって頷いても意味はないのに、それでもそうするしかなかった。喉が、少しだけ痛い。


 『わたしが……わたしが、あの子を……』


 小さな、鈴の音みたいな咳払い。

 それから、言葉にならない声が続いた。意味を持った単語として聞き取れるのは、「娘」「事故」「殺した」「罰」「助けて」。


 司祭は、一度だけ目を閉じた。


 「この女性は、娘を事故で亡くした。自分の過失だと思い込んでいる。検察は不起訴。だが彼女の心は、まだ裁判を続けている」


 「……祈りでは、足りない、と」


 思わず口から出た言葉に、自分でも驚いた。

 司祭はわずかに、口元だけで笑う。


 「そうだ。祈りは慰めにはなるが、現実には触れない。触れられないときもある。だから世界は壊れたし、いまだに修復されない」


 彼の視線が、布に覆われた細長い物体に落ちる。

 布の下から、鈍い金属音がしたような気がした。


 「百合香」


 「……はい」


「おまえは──神を信じるか?」


 あまりに今さらな質問に、返す言葉をなくした。

 信じている、と即答できれば、わたしはここにいない。信じていない、と言い切れれば、もっと楽だった。


 結局、口から出たのは、情けないほど曖昧な答えだけだった。


 「……分かりません」


 司祭は頷いた。怒りも嘆きも、そこにはなかった。ただ、長い疲労の色だけ。


 「それでいい。神を簡単に信じる人間より、簡単に信じない人間のほうが、まだましだ」


 彼は布を取った。


 そこにあったのは、銃だった。


 黒い、無駄のない形をしたハンドガン。テレビやニュースでしか見たことのない、本物の重さを持った“道具”。


 わたしは反射的に、一歩後ずさる。


 「なにを……」


 「これが、現代の“赦し”だよ」


 司祭は、冗談みたいな口調で言った。でも、目は笑っていない。


 「百合香。おまえに頼みたいことがある」


 その瞬間、世界の音のピントが合った気がした。

 遠くで鐘が鳴っている。外を走るホバーカーの音。隣の部屋で誰かが皿を重ねる音。全部が同じ距離に揃う。


 「……頼み?」


 「娘を殺したと彼女が思っている男がいる。実際には、法の上では“無罪”だ。証拠が足りなかった。だが、彼女の心には、はっきりと顔が焼きついている」


 司祭は銃を持ち上げ、わたしの前に差し出す。

 わたしの手は、膝のあたりで固まったまま動かない。


 「教会は、神に仕える。だが同時に、人にも仕えねばならない。心は法律の外側にある。時に、その外側を行かねばならない」


 「それは……殺せ、ということですか」


 自分の口から出た言葉とは思えなかった。

 司祭は「殺す」とは言わなかった。言わないまま、わたしに銃を差し出している。この行為の中身を言語化してしまったのは、ほかならぬ自分だ。


 「そう言うこともできる。あるいは、こういう言い方もある」


 司祭は少しだけ目線を落とし、祈祷のときと同じ静けさで告げる。


 「──迷子の魂を、回収してくれ、と」


 その言葉は、なぜだか、とても優しく聞こえた。

 だから余計に、残酷だった。


 わたしは、一度目を閉じた。

 暗闇の中で、昔のいくつかの光景が交互に点滅した。


 ミサで聞いた、「汝、裁くなかれ」という言葉。

 母の震える背中。

 娘を失ったという、知らない誰かの泣き声。

 ニュースの中の、笑っている加害者の顔。


 どれも本物で、どれも作り物みたいだった。

 わたしは、ゆっくりと目を開けて、銃に手を伸ばす。


 金属は、驚くほど重かった。

 でも、その重さには、安心するところもあった。体の外にある罪の重さを、目に見える形で持てることが。


 「……これで、本当に“赦し”になるんですか」


 問いは、半分は司祭に、半分は神に向けられていた。

 答えたのは、年老いた人間のほうだった。


 「分からん。だが、祈るだけよりは、まだなにかを変えられる気がする」


 司祭の目の奥には、わたしには測れない長さの後悔が溜まっていた。その重さのごく一部だけ、今、銃と一緒に手渡された気がした。


 わたしはうなずいた。


 「やります」


 その言葉を言った瞬間、胸の奥でなにかがひとつ、静かに音を立てて壊れた。

 悲鳴でも泣き声でもない。もっと乾いた、ガラスの破片が積もるような音。


 その夜のことを、わたしは神に隠し続けることになる。


  *


 ターゲットの男は、廃ビル街の一角にある、違法カジノの奥にいた。

 聖務庁の目からも、教会の目からも、かろうじて外れた場所。世界の修繕から取りこぼされた、穴のような街区。


 夜の風は、排気と電気と焦げた油の匂いが混ざっている。

 ヘッドセット越しに、聖務庁のオペレーターの声が聞こえた。


 《白咲さん、ターゲット確認。個体識別、顔照合とも一致》


 「了解しました」


 自分の声が、少しだけ他人のものみたいに聞こえる。

袖の中で、銃の位置を確かめる。足音を殺して階段を上る。


 扉を、一度ノックした。


 「どなた?」


 だるそうな男の声。

 わたしは答えない。かわりに、扉の蝶番を撃ち抜く。


 破片が飛び散り、男の悲鳴とともに扉が内側へ倒れる。

 薄暗い部屋。カーペット。酒瓶。モニター。沈むソファ。その上で、ターゲットが慌てて立ち上がろうとしていた。


 銃口を向ける。


 その瞬間まで、わたしの心は、不思議なくらい静かだった。

 怒りも、憎しみも、正義感も、ない。ただ、“仕事”という言葉だけが空白を埋めていた。


 男の目が、わたしを見た。

 そこに映ったのは、白い修道服を着た若い女。銃を構えた、場違いな聖職者。


 「なんだよ……冗談だろ……シスター?」


 男は笑おうとした。笑い損ねた。

 わたしは、ゆっくりと一歩踏み出す。


 「あなたに懺悔のご予定はありますか?」


 「はあ? な、なに言って──」


 言葉より、手が速かった。

 彼はソファの下に隠していた銃に手を伸ばす。


 世界が音を変える。


 わたしは、そこでようやく、恐怖を自覚した。

 この人が引き金を引けば、わたしが死ぬ可能性がある。わたしが先に撃てば、この人が死ぬ。


 簡単な二択。残酷な二択。


 「……」


 祈りの言葉が喉まで来て、そこで止まる。

 かわりに、指が動いた。


 引き金に、指がかかっていた。


 冷たいなんて、とうに感じなくなっていたのに、そのときだけははっきりと分かった。鉄の感触。汗と血で滑りかけた指先。銃口の先で、ターゲットの男がひざから崩れ落ちようとしている。


 わたしは、祈った。


 ──どうか、赦さないで。


 銃声が、世界をひとつ分だけ軽くする。

 男が床に倒れた。血が、カーペットに広がる。赤いシミは、まるでどこか別の国の国境線みたいに、だんだんと形を歪ませていく。


 わたしは、その境界の手前で立ち尽くしていた。


 手が震えている。足は動かない。心臓だけが、やけに規則正しく動いている。


 《白咲さん、ターゲット沈黙確認。お疲れさまです》


 耳元の声は、ひどく事務的だった。

 わたしは返事をしない。代わりに、膝から崩れ落ちる。


 床に手をついた。

 血に触れた指先が、じわりと湿る。体温はもう失われつつあるのに、その湿り気だけは生々しい。


 「……吐きそう」


 誰にも聞こえない声で、そう呟いた。

 でも、吐かなかった。涙も出なかった。


 胸の奥が、妙に軽い。


 “ひとつの重さ”を、外に出したからかもしれない。

 あるいは、“人間としてのなにか”をひとつ失ったからかもしれない。


 どちらにせよ、この瞬間に戻りたいと思うことは、たぶんもう二度とない。


  *


 教会に戻ると、夜のミサはとっくに終わっていた。

 祭壇の明かりだけが、まだぼんやりと灯っている。


 司祭は、わたしの顔を見て、何も聞かなかった。

 かわりに、胸元のロザリオに視線をやった。


 「血がついているな」


 「……取れませんでした」


 洗面所で何度もこすったのに、赤黒い染みは金属から落ちてくれなかった。


 司祭は、少しだけ目を伏せてから言った。


 「そのままでいい」


 「汚いですよ」


「汚れを知らない聖職者ほど、神にとって厄介なものはない」


 どこかの神学者の受け売りみたいな台詞だった。

 でも、その目は、本気だった。


 「百合香。おまえは今夜、なにをした?」


 「……人を、殺しました」


 その言葉を口にしたとき、不思議と喉は震えなかった。

 もう、さっきの震えを使い切ってしまったのだろう。


 司祭は首を振る。


 「そうではない。もっと、正確な言葉があるはずだ」


 わたしは、しばらく考えた。

 教会で習った言葉。街角で聞いた罵倒。ニュースで流れる専門用語。全部を頭の中で混ぜ合わせて、その中から、いちばんしっくり来るものを探す。


 やがて、ひとつだけ残った。


 「……迷子の魂を、ひとつ、止めました」


 司祭は、ようやく笑った。

 その笑いは、悲しみと安堵と諦めが混ざり合った、どうしようもなく人間くさい音だった。


 「ようこそ、こちら側へ」


 彼はそう言って、わたしの肩に手を置いた。

 まるで洗礼のときみたいに。


 この夜、白咲百合香は死んだ。

 そして、“リリィ”が生まれた。


 そのことを、わたしはきっと、一生、神に隠し続ける。


  *


 世界は、相変わらず壊れたまま、なんとなく動いている。


 ただひとつ違うのは──

 その壊れた世界の中で、「白咲百合香」という名前が、もう滅多に呼ばれなくなったことだ。


 《リリィ、侵入ルートB、クリア。心拍数、平常。いつも通りだね》


 耳元で、小さく笑う女の声がする。

 聖務庁のオペレーター。コードネームだけが共有される、顔も知らない誰か。わたしよりも、この街の血の流れに詳しい人間。


 「通信、良好。雑音、少し」


 ささやき声で返す。

 足元には、砕けたガラスと、さっき倒した男の銃が転がっていた。


 場所は、再開発途中で放棄された複合ビルセラフィタ・ブロック

 上層は教会系のシェルター。中層は空洞。

 そして、下層には、法の目が届かない連中の巣ができる。


 今夜のターゲットは、その巣の中心、《オルフェウス会》の幹部。

 懺悔データベースの危険度評価は、SS。


 《ターゲット、最奥フロアのラウンジに滞在中。護衛四名、武装。ドローンの反応もあり。リリィ、どうする?》


 「正面から行く」


 《……了解。やっぱりそう言うと思った》


 オペレーターが、少しだけ楽しそうに息を漏らす。


 廊下の先で、誰かが怒鳴った。

 足音。複数。金属の靴底が、古い床材を乱暴に打つ。


 わたしは、コートの内側から「ネメシス」を抜いた。


 黒い金属の、無駄のない線。

 あの夜、司祭の前で初めて触れた感触は、もうとっくに指が覚えている。


 「沈黙こそが、祈り」


 小さく呟く。自分に言い聞かせるみたいに。


 世界の音が、少しだけ遠くなる。

 足音だけが、くっきりと輪郭を増す。


 角を曲がった瞬間、視界に三人。


 数える。

 距離、五メートル。

 右手、ショットガン。中央、サブマシンガン。左、ハンドガン。

 床、滑りやすい。天井、低い。壁、古い配線むき出し。


 それだけ把握すれば足りる。


 引き金に、指がかかっていた。


 最初に人を殺した夜と同じ言葉が、脳裏をよぎる。

 けれど、あのときのような震えは来ない。


 ネメシスが吠える。


 一発目で右を沈める。

 リコイルの反動を利用して半歩回転しながら、二発目を中央の肩口に叩き込む。

 三発目は、まだ銃すら抜ききれていない左の手首を撃ち抜いた。


 悲鳴が、遅れて狭い廊下を満たす。


 《三ダウン確認。……ちょっと、やりすぎだよ、リリィ》


 「うるさい」


 そう返しながら、なおも呻いている男の側に近づく。

 彼の手元から転がり落ちた拳銃を、靴の先で壁のほうへ弾いておく。


 「助けてくれ……頼むよ、シスター……」


 震える声。

 わたしは、銃口を一瞬だけ男の額に当て、それから下ろした。


 「懺悔なら、上の階で受け付けてる」


 それだけ言って、男をまたぐ。

 振り返らない。振り返れば、きっとなにかが揺らぐから。


  *


 ラウンジは、思ったよりも明るかった。

 壊れかけたシャンデリア。チープなネオン。電子タバコの白い煙と、本物のタバコの焦げた匂いが混ざった空気。


 大型モニターには、無音でニュースが流れている。

 テロップには「社会不安の高まり」「治安維持のための新法案」といった文字が、どうでもよさそうにスクロールしていた。


 その中央。

 深くソファに沈み込んで、足を組んでいる男。


 瘦せた顔。無精ひげ。高価そうなジャケット。

 ただのチンピラに見えなくもない。でも、その目だけが違う。


 獲物を選ぶ側の目。


 オルフェウス会幹部──山城(やましろ)。


 《ターゲット視認。顔照合一致。護衛二名、背後のカウンター側に熱源反応。リリィ?》


 「聞こえてる」


 わたしは、ゆっくりとラウンジに足を踏み入れた。


 ヒールの音が、場違いなほど静かに響く。

 山城の視線が、ネオン越しにこちらをなぞった。


 「……教会のお嬢ちゃんじゃねえか。ここ、『禁煙』の張り紙でもあったか?」


 無造作な笑い声。

 指先でタバコを弾き、灰皿に落とす。動作に揺れはない。


 わたしは答えない。

 かわりに、一歩前へ出る。


 護衛の男が、背後で身構える気配。

 銃を握る音。空気の重心が、少しだけ下がる。


 「おれ、あれこれ見たんだけどよ」


 山城は、テーブルの上に投影されているホログラム画面を叩いた。

 そこには、聖務庁が流している「懺悔キャンペーン」の広告が、音なしで流れている。


 『罪を、ひとりで抱え込まないでください──』


 やたらと綺麗なシスターの映像。

 優しい笑顔。

 完璧な照明。


 「……最近の教会は、商売がうまいな。罪をポイントみてえに集めて、どこで換金してるんだ?」


 「ここよ」


 ようやく、口を開く。

 ネメシスを、コートの内側から抜いた。


 世界の空気が、そこで変わる。


 護衛の二人が同時に動いた。

 ひとりは腰のホルスターに。もうひとりは背中側に隠していたショットガンへ。


 遅い。


 わたしの体は、もうとっくに次の位置に移動している。


 右足を半歩引き、腰を落とす。

 視界の端で、シャンデリアのひび割れを確認。

 天井と床の距離。ソファの高さ。テーブルの角の位置。

 すべてが、ひとつの図形みたいに頭の中で組み上がる。


 引き金を絞る。


 最初の弾は、ショットガンの銃床。

 二発目は、ホルスターに伸びた手首。

 砕けた木と金属片が宙に舞う。


 悲鳴。

 テーブルがひっくり返る。

 床を滑るグラス。琥珀色の液体が飛沫になって散る。


 わたしは、そのすべての中を、静かに歩く。


 山城だけが、まだ座ったままだった。

 さっきまでの笑いは、きれいに消えている。


 「……マジかよ。噂通りだな、白百合会の“リリィ”さんよ」


 「噂なんて、興味ない」


 「こっちはあるんだよ。

  白い修道服着て、人の頭を花火みたいに咲かせる女がいる、ってな」


 軽口の裏に、わずかな怒りと恐怖が混じる。

 そのどちらも、わたしの仕事には関係がない。


 ネメシスの銃口を、ゆっくりと山城に向けた。


 彼の背後のモニターには、さっきと同じニュースが映っている。

 「治安維持のための新法案」。

 画面の隅には、教会の紋章。


 なにが治安で、どこまでが維持なのか。

 そんなことは、もう考えないようにして久しい。


 「最後に、懺悔を受け付ける時間はあります」


 そう告げると、山城は鼻で笑った。


 「懺悔? バカ言えよ、シスター。おれの罪を数えてたら朝になる」


 「朝までは付き合えない」


 「だろうな。あんたらのやり方は、もっと手っ取り早い」


 山城は、わずかに肩をすくめた。

 その動きと同時に、テーブルの裏側──死角の位置──から、小さな銃口がこちらを向いた。


 テーブルに仕込まれたリトラクタブル・ピストル。

 トリガーは、今、山城の膝のあたりで軽く引かれているはず。


 咄嗟に、視界のフレームが変わる。


 銃口。

 距離、二メートル。

 弾道、胸部。

 回避。難しい。

 ならば、上書きする。


 「あの夜」と同じ、二択。


 彼が先か、わたしが先か。


 祈りは、また喉のところで止まった。


 かわりに、言葉が出た。


 「──この銃の名を、向こう《あの世》でも憶えておいて」


 自分でも意外なほど落ち着いた声だった。


 山城の眉が、わずかに動く。


 「……は?」


 「“ネメシス”」


 引き金を、絞る。


 銃声が、ネオンの光を一瞬だけ白く塗りつぶす。


 山城の膝のあたりで、隠し銃の発射機構が火を吹くより、ほんの一瞬だけ早く。


 弾丸がテーブルを貫き、下に仕込まれていた銃本体を粉砕する。

 飛び散った破片と一緒に、山城の手がはじけるように跳ねた。


 悲鳴。

 もう一発。

 今度は、迷わない。


 ネメシスの弾は、彼の胸の真ん中に吸い込まれていった。


  *


 引き金に、指がかかっていた。


 冷たさも、重さも、もう何度も繰り返した感覚のはずなのに──

 その瞬間だけは、いつも最初の夜に連れ戻される。


 排気ガスと焦げた油の匂いが、血の匂いに上書きされる。

 ネオンの明滅が、あの廃ビルの薄暗い照明に変わる。

 床に広がる血だまりが、あのときのカーペットのシミと重なっていく。


 ──この夜、白咲百合香は死んだ。


 心のどこかで、誰かが同じフレーズを繰り返す。


 世界が、またひとつ分だけ軽くなる。

 山城の体が、ソファにもたれかかるように崩れた。


 《ターゲット、沈黙確認。ナイスショット、リリィ》


 耳元で、オペレーターの声が弾む。

 わたしは、ゆっくりと息を吐いた。


 「……依頼人には?」


 《プロトコル通り。“裁きは下った”ってさ。向こう、泣いてたよ。安堵か、後悔かは知らないけど》


 「そう」


 それ以上、言葉が続かなかった。


 ネオンの下で、わたしはネメシスの銃口をゆっくりと下ろす。

 銃身には、うっすらと血がついていた。

 ロザリオについたあの夜の血と同じように、きっとこれも簡単には落ちない。


 「沈黙こそが、祈り」


 もう一度、誰にも聞こえない声で呟く。


 この都市のどこかで、わたしの知らない誰かが、

 今日も懺悔室の小さな窓を叩いている。


 迷子の魂は、尽きることがない。


 そして今夜もまた、

 “リリィ”がひとつ、それを止めた。


 ──そのことを、わたしはやっぱり、神には言わないままでいる。

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