深淵の庭師は、今日も神獣を煮込む 〜庭の「雑草(魔神)」が邪魔なので剪定バサミで駆除したら、聖騎士に神と崇められました〜【短編版】

いぬがみとうま

第一章 極上の豚肉は、災厄の味がする

 森の朝は、いつだって淹れたてのハーブティーのように澄んでいる。

 木漏れ日がレースのカーテンのように揺れ、小鳥のさえずりがBGMとして流れる。僕、ジルはこの時間が何よりも好きだった。

 庭のトマトに水をやり、大きく伸びをし、肺いっぱいに清浄な空気を吸い込む。


「んー、最高のスローライフ日和だ」


 ――ズズズ、と大地が鳴動しさえしなければ。


 僕の視線の先、丁寧に手入れをしたハーブ園の向こうから、それは現れた。

 体高は五メートルほどだろうか。全身が鋼のような剛毛で覆われ、ねじれた二本の角が天を突き刺している。鼻息だけで周囲の草花を枯死させるその巨体は、図鑑で見た『カトブレパス』とかいう害獣に似ていた。

 一般的にはSランク指定の災害級魔獣らしいが、僕にとっては関係ない。


「コラ。そこは昨日、ミントの種を植えたばかりなんだぞ」


 僕はため息交じりに、腰に下げた園芸用のハサミを手に取った。

 ホームセンター(異世界転移前の記憶にあるものとは随分違うが)で買った、ごく普通の剪定バサミだ。


「ブモオオオオオオッ!!」


 害獣が突進してくる。その蹄が地面を削り、紫色の猛毒のブレスが僕の顔面へと迫る。

 やれやれ、これだから野生動物は。

 僕は慌てず騒がず、ハサミを開いた。狙うのは肉体ではない。その存在が持つ「害意」と「勢い」の概念だ。


「——『剪定』」


 パチン、と乾いた音が森に響く。

 ただそれだけ。

 それだけで、突進の運動エネルギーはゼロになり、猛毒のブレスは朝霧のように霧散し、巨体は音もなく地面に崩れ落ちた。

 綺麗に急所を断たれた猪(のようなもの)は、すでに極上の食材へと変わっていた。


「よしよし。今日はポトフにしようと思っていたんだ。いい出汁が出そうだ」


 僕は重さ数トンはあるその巨体を、小脇に抱えて家へと運んだ。

 スローライフには、体力が必須なのだ。


 §


 台所には、幸せな音が満ちていた。

 コトコト、コトコト。

 薪ストーブの上、愛用の鋳物ホーロー鍋の中で、スープが黄金色に輝いている。


 主役はもちろん、先ほどの猪肉だ。

 分厚くカットしたバラ肉は、表面を強火で焼き付けて旨味を閉じ込めてから、たっぷりの香味野菜と共に煮込んである。

 丁寧に、徹底的にアクをすくう。この工程こそが、野趣溢れる獣肉を洗練された料理へと昇華させる儀式だ。


 鍋の蓋を開けるたび、立ち昇る湯気が顔を撫でる。

 濃厚な脂の甘い香り。ローリエとタイムの爽やかな芳香。そして、肉の繊維がほぐれていく豊潤な匂い。

 それらが渾然一体となって、鼻腔をくすぐり、胃袋を鷲掴みにする。


「うん、いい感じに煮崩れてきた」


 お玉でスープをひと掬い。

 口に含むと、凝縮された旨味の爆弾が弾けた。それでいて後味は透き通るように軽い。

 完璧だ。仕上げに岩塩を少々。


 その時だった。

 ドサッ、と玄関の方で重い音がしたのは。


「おや、お客さんかな?」


 こんな人里離れた森の奥――世間では『深淵の魔境』なんて呼ばれているらしいが――に客とは珍しい。

 エプロンで手を拭きながら玄関へ向かうと、そこには一人の女性が倒れ伏していた。


 銀色の長髪は泥に汚れ、白銀の甲冑は砕け散り、あちこちから血が滲んでいる。

 ひどい怪我だ。まるで、森中の棘のある植物に突っ込んでしまったかのような。


「……う、ぅ……」


 彼女がうっすらと目を開けた。

 その瞳は美しい紫水晶アメジストの色をしていたが、焦点が合っていない。瘴気に当てられたのだろうか。顔色が土気色だ。


「大丈夫ですか? ひどい顔色だ」

「こ、こは……地獄、か……? 魔王の、気配が……」

「いいえ、ここは僕ん家です。魔王なんて物騒なものはいませんよ」


 僕は彼女を軽々と抱き上げ(甲冑を着ているはずなのに、羽毛布団のように軽かった)、居間のソファへと寝かせた。

 とりあえず、何か温かいものを胃に入れたほうがいい。

 僕はキッチンから、出来立てのポトフを深皿によそって持ってきた。


「さあ、まずはこれを。滋養強壮にいい特製スープです」


 湯気を立てる皿を差し出す。

 彼女は震える手でそれを受け取ろうとし、中身を見て、目を見開いた。


「こ、これは……『カトブレパス』の肉……!? 猛毒の、死肉を……私に、食えと……?」


 おや、さすが騎士様。食材に詳しい。

 でも「死肉」は失礼だな。ちゃんと下処理したのに。


「毒抜きは完璧ですから安心してください。さあ、冷めないうちに」


 僕はニコニコと微笑んだ。

 彼女は絶望に染まった顔で、震えるスプーンを口元へ運ぶ。

 まるで処刑台に向かう囚人のような悲壮感だ。

 そして、覚悟を決めたように一口、スープを啜った。


 その瞬間。

 彼女の目が、カッと見開かれた。


「…………っ!?」


 スプーンがカチャンと皿に当たる。

 強張っていた彼女の肩の力が、嘘のように抜けていく。


「な、なにこれ……」


 彼女は二口目を運んだ。今度は急ぐように。

 口の中で、ホロホロになるまで煮込まれた肉が解けていく。噛む必要すらない。舌の上で脂身が甘くとろけ、赤身からは濃厚な肉汁が溢れ出す。

 野菜の甘みが溶け込んだスープが、荒れた食道を優しく撫で下ろし、冷え切った内臓を芯から温めていく。


「おいしい……っ! 嘘、こんな……温かい……」


 彼女の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

 それと同時だった。彼女の体を蝕んでいたドス黒いあざのようなものが、スウッと消えていく。

 僕の『剪定』スキルは、料理にも適用される。

 素材から「雑味」や「毒」だけでなく、「呪い」や「病魔」といった不要な概念さえも切り落とし、栄養素だけを最適化して摂取させる。

 まあ、理屈なんてのはどうでもいい。


「おかわり、ありますからね」


 僕が鍋を指差すと、彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔で力強く頷いた。

 どうやら気に入ってもらえたようだ。

 やっぱり、料理は人を幸せにする。


 僕は満足げに頷いたが、彼女――聖騎士セレンが、僕のことを「猛毒の魔獣を無毒化して煮込む魔神」という恐怖の対象として見ていることには、まだ気づいていなかった。

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