D.iary21煉獄の荒野と、希望の灯火

ノアは果てしない塵(ちり)の中を、よろめきながら歩いていた。


​セシリアの名前を叫ぶたびに、その声は荒涼とした世界に飲み込まれていく。


​返ってくるのは、火山の深淵で唸りを上げるマグマの音だけ。


​濃密な灰の霧が、すべての方向感覚を奪っていく。

​自分がまだ同じ場所を回っているのかどうかさえ、もう判別できない。


​喉の渇きと灼けるような痛みが、限界に近づいていた。


​セシリアの加護は災害を防いでくれるけれど、最も原始的な『現実』までは防げない。


​喉が渇く。腹が減る。そして、疲労する。


​ここはシミュレーションではない。幻影でもない。

​命を奪う、正真正銘の『現実』だ。


​ノアは足を止め、粗い石で削られたように痛む胸を押さえた。


​こめかみを強く押し、こみ上げるパニックを必死に抑え込む。


​「落ち着け……落ち着くんだ、僕」


​その声はあまりに弱々しく、塵の風にかき消されそうになる。


​「大声を出しても体力を浪費するだけだ……セシリアなら……彼女ならきっと、何か手がかりを残してくれているはずだ」


​自分にそう言い聞かせ、周囲をシステム的に観察しようと試みる。


​足元は、見渡す限りの黒い岩盤。起伏は無秩序で、境界線は見えない。


​周囲の塵は濃霧のように層を成し、視界は絶望的なまでに悪い。


​今は昼間のはずなのに、世界は影の下に埋葬されているようだ。


​参照物なし。


​方向感覚なし。


​『安全』を保証するランドマークなし。


​これは『困難』ではない――『詰み(チェックメイト)』だ。


​セシリアの守りが残っていたとしても、この世界では延命措置にしかならない。


​ここは荒れ果てた原始の地球。火山が咆哮し、硫黄が充満する時代。


​紛れもない――煉獄だ。

​その時――。

​――ヒュンッ!


​拳大の黒曜石が霧を裂いて飛来し、少年の肩をかすめていった。


​衝撃は緩和されたはずなのに、生々しい物理的な感触が残る。


​心臓が早鐘を打ち、呼吸が一瞬止まった。


​この世界は、ただ危険なだけではない。


​『生きている』のだ。いつでも彼を殺せるという悪意を持って。


​「ダメだ……まずは遮蔽物(カバー)を見つけないと、挽肉にされる」


​限られた視界の中で、必死に隠れ場所を探す。


​黒曜石の礫(つぶて)が絶え間なく降り注ぐ。


​本能で避け続けるが、いくつかは避けきれずに体を打った。


​激痛はない――セシリアの守りが衝撃を相殺してくれている。


​だが、残存する衝撃だけでも、胸郭をハンマーで叩かれたかのように五臓六腑が軋んだ。


​ようやく、灰色の霧の奥に一つの輪郭を捉えた。

​高さ二十メートルほどの石山だ。


​「あそこなら……防げるはずだ!」


​そう判断して一歩を踏み出した、その刹那――。

​――ドォォォォン!!!


​タイヤほどの大きさの巨岩が、地面すれすれを滑空し、ノアの目の前を横切った。


​巻き起こった風圧(ウィンド・シア)だけで、頬が切れそうになる。


​『死』が、半歩先を通り過ぎていった。


​喉が引きつり、唾を飲み込むことさえ難しい。


​「い、いくらなんでも……風速がおかしいだろ……」


​冷静さを保とうとしても、恐怖が指先から侵食してくる。震えが止まらない。


​巨岩が飛んできた方向へと顔を向ける。


​そして――彼は息を呑んだ。


​「あれは……なんだ?」


​灰の霧の奥から、天と地を繋ぐ黒い巨壁が迫ってくる。


​砂礫、砕石、塵埃。それらすべてが先端で狂ったように渦巻き、まるで巨神がかき回す荒波のようだ。


​それは地獄のような暴風が生み出した――陸上の津波(ツナミ)。


​思考が凍りついた。


​恐怖が溶鉄のように背骨を伝い、足が地面に縫い付けられる。


​死を宣告する黒い天災が、ただ自分を飲み込もうとするのを見つめることしかできない。


​鼓動が早くなる。呼吸が浅くなる。


​ダメだ。

​ダメだ――。

​動け!

​動くんだ、僕!


​「――クソッ!」


​罵倒を吐き出し、無理やり恐怖の呪縛を断ち切る。

​体力の温存、生存戦略、方向判断――そんなものはもうどうでもいい。


​残されたのは、原始的な逃走本能だけ。


​走った。灼熱した黒い岩盤を蹴り、無我夢中で。

​「ハァッ――……ハァッ――……!」


​石山の裏側へと滑り込んだ、その瞬間。

​――ズドォォォォン!!!


​巨岩と山体が正面衝突した轟音が、雷霆のように炸裂した。


​続いて二発、三発、四発――。


​まるで隕石の雨だ。だがその一粒一粒が、骨を砕き、大地を引き裂く質量を持っている。


​数十メートルの岩壁を隔てても、衝撃が地面を伝い、胸郭を揺さぶる。


​固体伝播音。速く、重く、容赦がない。


​その一つ一つが告げている。あと半歩遅れていれば、ただの肉片になっていたと。


​ノアは目を閉じ、両手で耳を塞いだ。


​見なければ、聞こえなければ――危険は存在しない。


​子供の頃、ジェットコースターやお化け屋敷でやっていた、現実逃避の愚かな儀式。


​だがここでは、そんな気休めは紙切れのように脆い。


​耳を塞いでも、振動は腕を、胸を、骨を貫通してくる。


​背後の山が削られていく。鈍い破壊音が、背後で荒い息を吐く獣のように響く。


​暗闇の中、意識が混濁し始める。


​ふと、優しい輪郭が脳裏をよぎった――母さん。

​「……母さんに、会いたいな」


​世界に聞かれるのを恐れるように、彼は小さな声でそう呟いた。


​どれくらいの時間が経ったのか。少年には一世紀にも感じられた。


​轟音がまばらになり、やがて完全に消え失せた。

​残ったのは、石山の裏側で唸る重苦しい風の音だけ。


​恐る恐る、石山の影から出る。


​嵐は咆哮しながら遠ざかり、風が大量の塵を持ち去っていた。


​数分もすれば、また灰のような塵が積もり、視界を奪うだろう。


​だが少なくとも『今』だけは、この地獄のような世界を見渡すことができる。


​その時――彼は見た。


​暗赤色と灰黄色が混ざり合う荒涼とした天地の彼方に、淡い金色の光が、星火のように瞬いているのを。


​この無限の灰暗(グレー)の中で、その光は世界を刺し貫くように輝いていた。


​「自然現象じゃない……」


​心臓が高鳴る。


​「あれはきっと――セシリアが残したシグナルだ!」


​希望が炎のように燃え上がった。光源の正体を確認する間もなく、ノアは駆け出していた。


​だが、一歩目を踏み出した瞬間、大地が猛然と震えた。


​ズズズズズ……ドォォン!


​激しい揺れが足裏から骨へと伝わる。大陸そのものが彼を振り落そうとしているようだ。


​よろめき、起伏のある地表に何度も膝をつく。


​膝が砕けそうに痛むが、構っていられない。


​転ぶたびに、すぐに起き上がった。


​彼は闇に追われる逃亡者であり、救済を求める求道者だった。


​怖かった。


​また塵が舞い上がり、光を飲み込んでしまうのが怖い。


​次の瞬間には嵐が戻ってきて、唯一の道標を消してしまうのが怖い。


​この荒野で迷子になり、二度と彼女の元へ辿り着けなくなるのが――あの揺らめく希望を見失うのが、どうしようもなく怖かった。


​ついに。


​揺れる大地と舞い散る塵を抜け、ノアはその光の『正体』を見た。


​――それは、黒曜石を削り出して作られた、ランタンだった。


​漆黒の石体は精緻に透かし彫りされ、シンプルでありながら優雅な紋様が、星の軌道のように交差している。


​その内部で、淡い金色の光が明滅していた。


​炎ではない。だが、見間違うはずのない『温度』を放っている。


​それは、この荒涼とした孤星における――僕だけの、小さな灯台だった。

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