D.iary-10逆行する時間と、決して離さない誓い
セシリアは静かに目の前の少年を見つめていた。 気ままで、優しくて、いつも負けず嫌いな笑みを浮かべていたその瞳には今、無力感と迷い、そして身を切るような空虚だけが宿っている。
そして少年の背後、冷たい白布の下には、彼が数え切れないほど寄り添い、頼り、語りかけてきた人がいる。
セシリアはようやく理解した。 静寂に包まれた第十三紀において、「日記」の深層から湧き上がっていた巨大な感情指数、制御不能に近い精神信号(メンタル・シグナル)……その全てが、ここから発せられていたのだと。 この少年の、この瞬間の絶望から。
セシリアは彼を直視する。本来ならば湖のように静謐であるはずのその瞳は今、少年の砕け散った感情の全てを映し出していた。
そして、彼女は重大かつ遅延の許されない判断を下した。
「ノア」
「もし、貴方が私の手を取ってくれるのなら――」
彼女の手が彼へと差し伸べられ、光の粒子が指先に沿って緩やかに流れる。
「連れて帰ってあげられます」
彼の呼吸が止まる。
セシリアは続ける。
「全てがまだ、起こっていなかったあの日に」
ノアは差し出された手を見つめた。 身体の寒さは消えていたが、心臓の痛みと乱れた呼吸が、これが夢ではないと告げている。
彼は必死にその手を掴んだ――それが、彼に残された最後の救いだった。
予兆もなく涙が溢れ出し、熱を帯びて止まることを知らない。 喉の奥で嗚咽が塊となり、胸を圧迫していた全ての重荷がついに防衛線を決壊させた。
彼は頭を垂れ、その手を握り締めた。まるで世界の全てを握り締めるかのように。 哭き声が、腹の底から炸裂する。 忍び泣きでも、すすり泣きでもない。もう我慢する必要のない――徹底的な、引き裂くような、一切を隠さない慟哭。
これまでの人生の無力と苦痛を、この一瞬で全て吐き出すかのように。
長い時が過ぎ――哭き声はようやく沈静化した。 ノアはゆっくりと顔を上げた。手の甲で涙の痕を拭い、指先はまだ微かに震えているが、呼吸のリズムを取り戻そうと努める。 彼は深く息を吸い、冷たい床に手をついて立ち上がった。
目の前の少女を見た時――そこにはもう、裂けるような絶望も無力もなかった。涙が全てを洗い流していったのだ。
彼の瞳に残ったのは――揺るぎない決意と覚悟だけ。
「セシリア――俺は、行く」
セシリアはノアの目を見た――先ほどまでは深淵のように砕け散っていた黒が、今は決意によって透き通っている。
「……了解(ラジャー)」
光が、極めて微細な形でセシリアの指先から散逸していく。時間そのものが彼女の周囲で微かに震えているようだ。 今回、それは以前とは違う。「慰め」でも「救済」でもなく、真の意味での「招待」だった。
「ノア」
彼女は静かに彼の名を呼んだ。その声はいくつもの世界を越えて響くようだった。
「これより先は……私の手を離さないでください」
次の瞬間――世界が音もなく引き裂かれた。 霊安室、白布、冷気、死――その全てが無数の光の破片となって剥離していく。
時間の流れが何らかの力によって逆巻く。後退、折り畳み、書き換え(リライト)……。
視界が再び焦点を結んだ時、ノアは完全なる虚無の中に立っていた。 空も、大地も、方向さえもない。 存在を確認できるのは、傍らにいるセシリア――そして足元に伸びる、バネのように蜿蜒と続く光の線だけ。
「時間は唯一のものです」
透き通った声が無限の虚空に拡散する。ずっと沈黙していたセシリアが、ついに口を開いた。
「貴方が見ているもの、それが時間と感情によって織り成された糸です」
彼女の視線が、その起伏する軌跡へと静かに落ちる。
「時間はそれに継続と生命を与え、感情は……それに色彩と重みを与えます」
セシリアの説明を聞き、ノアは再びその光線に視線を落とした。 主体は柔らかな白を呈しているが、その上を無数の微細な色彩が跳ね、瞬き、そして急速に沈んでいく。
光線を辿って後ろへと視線を移すと、ノアはすぐに異常が発生している箇所に気付いた。 そこでは色彩が唐突に減少し、何者かによって音もなく抜き取られたかのようになっている。 湾曲の振幅は弱まり、線の厚みも区間ごとに痩せ細っていく。
そして最終的に、それは極度に蒼白な細い糸だけになった――真っ直ぐで、硬直しており、何の起伏もない。 まるで脈打つはずの鼓動が、そこで唐突に一時停止ボタンを押されたかのように。
「あれが――」
「感情の枯渇」
セシリアの声が、何もない時域(クロノスフィア)の中で静かに波紋を広げる。 ノアは呆然と彼女を見つめた――あの、色彩が断絶し、死の痕跡のようになった時間線。まさか、彼女はずっと……あの上で生きてきたのか?
その思考が浮かび、形を成すよりも早く、セシリアの声が再び落ちてきた。軽く、冷静に。
「――墜落(ダイブ)、開始します」
次の瞬間、線は想像を絶する速度で四方へと拡張し、最終的に一面の滑らかで輝く光の平面となった。 光面は視界の果てまで広がり、静かで平坦だが、その内部では無数の躍動する色彩が、潮汐のように逆巻き、星々のように流動している。
ノアがその光面に触れた瞬間――全身が容易く飲み込まれた。 落下、沈没、包括。 世界には方向がなく、光だけが残る。
彼は光の層に支えられて滑り落ちていく。周囲には次々と色彩豊かな光球が浮かび上がり、音のない流れの中を行き交い、旋回し、泳いでいる。
(……海みたいだ……)
その思考が脳裏をよぎった瞬間――。 それらの光団は、彼の考えを聞き届けたかのように変形を始めた。線が輪郭を描き、色塊が集合する。 一匹、また一匹と――大きさも形態も異なり、妖艶な色彩を放つ「魚」たちが光の海を泳ぎ始めた。美しく、奇妙で、まるで生命を持っているかのように。
だが、それに続いたのは、突如として何の予兆もなく襲ってきた――窒息感だった。 まるで本当に深海へ墜落したかのような。
「ノア。想像(イメージ)を停止してください。領域(フィールド)は思考によって変質します」
ノアは肺に残った最後の一口の空気を使って、全身を襲う窒息感に抗った。 海、潮汐、魚――脳内で渦巻いていた全てのイメージが、指令を受けたかのようにゆっくりと退いていく。
彼は思考をゼロに戻し、全ての念を捨て去り、最も原始的な静寂だけを残そうと努めた。胸の圧迫感が徐々に軽減していく。 光の海の中で、あの明るく平坦な光面がゆっくりと平静を取り戻し、待機する湖面のように、音もなく強固になった。
「ふぅ――」
短い窒息感だったが、呼吸の尊さを再認識するには十分だった。 傍らを絶えず光団がすれ違っていく。それらの流れる方向は自分とは完全に逆だ――時間の逆行者たち。
ふと、彼の視線が一つの漆黒の光団を捉えた。馴染みのある冷気が感覚を伝って広がる。
「それが、貴方の感情アンカーです」
セシリアの声はコマンドのように冷静で断定的だった。
「触れてください――それが私たちを導き、時間を回溯させます」
眼前の光団を見て、ノアの手に迷いはなかった。彼は指を伸ばし――その漆黒の光に軽く触れた。 次の瞬間、光団が爆発的に拡散し、彼とセシリアを包み込んだ。 周囲の光景が幻鏡のように目まぐるしく変化する。 大理石の台の傍らでの苦痛、病院での目覚め、映像は絶えず跳躍し、やがて―― ノアは倒れた母と、自分と、疾走してくるあの白い光を見た。 母が必死に自分へと走ってくる瞬間を見た。 セシリアの姿がゆっくりと消散していくのを見た。
「申し訳ありません……」セシリアの声が光と影の中で飲み込まれそうになる。「あの時、私が第十三紀へ戻る選択をしなければ、あるいは、こんなことにはならなかったかもしれません」
「君のせいじゃない、リア。君は俺にやり直す機会(チャンス)をくれたんだ」
少年の手は震えていたが、それでも彼は約束を口にした。
「必ず結末を変えてみせる。今度は、絶対に手を離さない」
セシリアは静かにノアを見つめた。金色の長髪が光と影の中で揺らめいている。 彼女の眼差しは変わらず平穏で、その瞳に映っているのは――少年の揺るぎない瞳だった。
光景は最終的に、時計が正午を指す瞬間に定着した。 この刻、彼らが共に選んだ時間線は、ノアの手に委ねられた。
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