D.iary-6小皿料理からの逃走、そして見えない手を握る

ノアの母は朝食を済ませると、いつものように慌ただしく出かけていった。 静かな部屋には、少年の足音だけが残る。


正午。彼は習慣的に机の上のスマホを手に取り、大きな伸びをした。あくびがまだ口元に残っている。


「行くか」彼は独り言のように言った。「下の店で小皿料理(シャオワンツァイ)でも食うかな」


背後にいたセシリアは、瞬きを一つした。判決を聞いた直後に高速評価を行うかのように。 彼女の声は依然として澄んでいたが、そこには微かな、しかし確かな「呆れ」が含まれていた――「そう言うと思っていました」という類の呆れが。


「ノア。そのような高脂質、高塩分、栄養バランスの偏った食事を長期的に摂取する習慣は、人間にとって健康リスクが極めて高いです」


「リアさん、では現状に基づいたより良い代替案(ソリューション)をお持ちで?」


セシリアの意外な反論に少し驚きつつ、ノアは彼女の口調を真似て問い返した。 その意図的な模倣を含んだ語気に、セシリアは明らかに半秒ほど固まった。 睫毛が震え、次の瞬間には平穏を取り戻す。


「……あります」


反撃されたことへの微妙な気まずさと、慌てまいとする抑制が混じった小声だった。


セシリアは少年の横に移動し、彼の手で揺れているスマホに視線を落とした。「適当に食えばいい」というその習慣に、諦めにも似た感情を抱いているようだ。 彼女はノアを見上げ、真剣に提案した。


「新鮮な食材を購入しましょう」


一瞬の間。自分の計算結果を確認するように、あるいは提案が受け入れられるかを測るように。


「栄養配分と調理プロセスは、私が担当します」


彼女はそっと手を上げ、小さく拳を握り、控えめに強調した。


「小皿料理より、確実に健康的です」


妥協を認めたくないが、それでも頷くしかない少女を見て、ノアは心の中で溜息をついた。 自炊なんて久しぶりだ……たまにはこういうのも、気分転換にはなるか。 彼は自分を慰めた。


「料理するなら急がないとな」 ノアは鍵を掴み、ドアを開け、彼女の方を振り返って顎をしゃくった。 「この時間だと市場はもう空っぽだ。スーパーに行くしかない。行こう、リア」


彼女は瞬きをし、一歩踏み出した。


「……了解(ラジャー)」


静かで、しかし微かに柔らかな応答だった。


スーパーまではそう遠くない。団地を出て直進し、一キロにも満たない距離だ。 ノアは前を歩く。足取りは軽いが、勤勉を強いられた無力感が漂っている。 前方の高架下は必ず通るルートだ。


頭上の高架を車が疾走し、タイヤが路面を噛む低い音が響き渡る――。 出勤を急ぐ人、休暇へ向かう人。無数の生活の軌跡が頭上を掠めていく。 高架下には別のリズムがあった。ベビーカーを押す若い夫婦、騒がしい子供たち、歩きながら上司の愚痴を大声でこぼすサラリーマン。


橋の下から風が吹き抜け、排気ガスと埃、そして雨の前特有の湿った土の匂いを運んでくる。


(天気が崩れるか。母さん、今日は傘を持って行ってないな)


だがノアは分かっていた。ここで心配したところで負担が増えるだけで、事態は何一つ好転しない。


「あとで母さんに電話してみるか」


座り込んで気を揉むより、行動した方が幾分か安心できる。 彼は深呼吸をして胸の不安を沈め、歩く速度を上げた。買い物を早く済ませたい。


だが、その漠然とした焦燥感と不安は決意と共には消えず、むしろ暗雲のように心の底に積もっていく。


二人がスーパーの入り口に到着すると、自動ドアが開き、冷気が吹き付けてきた。 ノアは無意識に足を止め、一瞬だけ呆然とした表情を見せた。


セシリアは彼の隣に立ち、視線をそっと彼の横顔に落とした。


「ノア」


彼女が口を開く。トーンは変わらないが、普段よりわずかに遅い。


「歩行ペースが先ほどより17%低下しています」 「……血糖値の低下ですか? それとも疲労?」


彼女は小首を傾げた。まだ完全には解析できない変数を分析しようとしているようだ。


「もし体調不良なら」彼女は真剣に言った。「私が代わりに買い物タスクを実行します」


「いや、ちょっと心がざわついただけだよ。心配してくれてありがとう。一緒に買うって約束したんだ、すっぽかしたりしないよ」


「ママ、あのお兄ちゃん、なんで独り言言ってるの?」 「シッ、多弁な子ね。すみません、子供が失礼なことを」 「あ、いえいえ、大丈夫です」


唐突な言葉がノアを不安から引き剥がした。手を繋いで去っていく普通の親子を見送り、彼は息を吐いた。 横を向くと、セシリアが変わらぬ視線で彼を注視していた。


彼女は先程の言葉など気にしていないのかもしれない。 だが、その少しあどけない瞳を見て、ノアは――あるいは衝動で、あるいは証明のために。


右手を上げた。何の実体もない空間で、自然に、力強く、彼ら二人にしか分からない「手」を握りしめた。


通行人の目には、少年が右手で空気を握り締め、大手を振って店に入っていくように映っただろう。


「ノア……」 「貴方の行動は……周囲の人間の一般的社交パターンと乖離(デヴィエーション)しています」


彼女は言葉を切り、人間社会の規範に対する分析レポートを懸命に構築しているようだった。


「その動作は、不特定多数の環境下で余計な注目を集め、さらには……不必要な誤解を招く恐れがあります」


彼女は不器用なほど真剣に、完全に客観的なリスク評価を行っていた。


「判断できません。これは情動の変動によるものか、社会に対する反抗心理か、それとも――」


「約束しただろ、一緒だって」


セシリアの瞳に映ったのは、微笑む少年だった。 彼女の観察記録において、笑顔は少年の顔に頻繁に出現するものだ。 だが今回、眼下のデータ分析は珍しく停滞した。


口をついて出た言葉があまりに熱烈すぎたことに気付いたのか、ノアは少女から視線を逸らし、その手を引いて売り場へと早足で向かった。 だが胸の内の動揺が、彼を食材の迷宮で迷わせる。


「レンコンなら、これを選択するのが最適です」


セシリアの声が静かに落ちてくる。特有の落ち着きを保ったままで。


「内部繊維の配列がより均一で、空洞のサイズが標準比率に近似しています。食感がより良いはずです」


その声にノアは覚醒したようだった。眼差しの動揺は消え、代わりに暖かな何かが血液の中に流れ始める。


セシリアは既に隣のエリアへと静かに移動していた。 冷静かつ優雅な動作で次の食材を吟味する。初めて人間の日常に関与するはずなのに、まるでこの日常こそが彼女の本来あるべき場所であったかのように正確だ。


「ノア、次は生姜、青ネギ、適量の肉類が必要です。付いてきてください」


彼女は立ち止まり、生姜の上で0.8秒指を止め、何かを確認した。


「これは元々、私たちが交わした約束ですから」


ノアの歩みが、音もなく緩やかになる。


彼は隣にいる少女を見つめた――。 淡い金色の長髪がスーパーの冷たい蛍光灯の下で細やかな光を放っている。本来なら神性に属するはずの純粋さが、今は俗世の最も素朴な空気に包まれている。


セシリアは彼の視線を感じ、そっと顔を向けた。


「ノア?」


その声は変わらず澄んでいたが、生活の灯火によって一度(いちど)だけ温められたかのように聞こえた。

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