第零旅途(ゼロ・トリップ) ―第十三紀の天使と、「さよなら」の先へ向かう終焉日常―

@Kimorisensei

D.iary-1灰色のペンダントと、未来から来た神様

正午の平凡な陽射しの中で、ノアは目を覚ました。


耳の奥に残っているのは、昨夜の鐘の音だけ。 灰色のペンダントが、カーテン越しの薄明かりに染まり、柔らかな白を帯びている。 見逃した夜明けに別れを告げる気にもなれず、脳裏にこびりついた曖昧な夢が、彼に語りかけていた。 彼と彼女が交わした、黄昏時の未完の約束を。


「……セシリア」


天井へと伸ばした自分の腕を見つめ、ノアは呟く。


「いい歳して白昼夢かよ。情けねえ……どうせ、目が覚めれば忘れるのにな


内心で自嘲しつつも、ここ最近では一番マシな夢だったことを考慮し、彼はその事実を甘んじて受け入れた。 あわよくば夢の続きが見られないかと、再び瞼を閉じてみる。


――残念ながら、願いは叶わない。 夢の続きはおろか、口ずさんだはずの名前さえ忘却の彼方だ。


「十二時よ、起きなさい。土曜日だからって課題を後回しにしないの。ダラダラしない」


ドアのノックよりも早い「起床アラーム」。 我が家特有のリマインド方式だ。


(朝飯の催促ならともかく、課題をやれって起こし方はどうなんだ……)


いささか感傷的な思考が脳裏をよぎるが、十年以上続くこの「挨拶」を、ノアは黙って「心の秘密ノート百選」に書き加えるに留めた。 軽く鼻を鳴らし、さっきまでの夢を枕に振り払って、洗面所へと足を向ける。


いつものように漫然と歯を磨いていたノアは、鏡の中に異変を見つけた。 首にかけた灰色の菱形ペンダントが、微かに白く発光しているのだ。


「え――? 母さん、このペンダント何? 買ってくれたの?」


「寝ぼけてるの? ペンダントなんて買った覚えないわよ。早くしないと朝ご飯冷めるわよ」


母の反応に、ノアは密かに溜息をつく。 課題だろうが朝食だろうが、神聖なる睡眠事業には敵わないというのに。


適当に返事をしつつ、彼は疑念の眼差しでペンダントを見つめた。 試しに三回擦ってみたが、青い肌の魔人が出てくることはなかった。 召喚失敗を確認し、ノアは完全に諦めて食卓へと向かう。


朝食を流し込みながらも、疑問は晴れない。


「ていうか母さん、本当にこのペンダント、母さんがくれたんじゃないの?」


食器を片付けながら、母は素っ気なく答える。


「だったら見せてみなさいよ。彼女でもできるようにって、ペンダントの一つくらい買ってあげてもいいけど」


「ここに掛かってるだろ……」


言いかけた瞬間、ノアは鋭敏に察知した。 母には、ペンダントが見えていない。


数多のラノベや漫画で培った経験則が脳内を駆け巡り、彼の瞳の奥に興奮が宿る。


(まさか、これは……?)


「課題やってくる」


その一言を残し、ノアは風のように自室へ戻った。


「私の教育の成果かしら?」


風の中に残された母は、食器を片付けながら密かに思う。 もしノアがその微笑みを知れば、多少の罪悪感を抱いたかもしれない――彼が自室に戻った理由が、課題などでは断じてないことを思えば。


部屋に戻ったノアは、ペンダントの全方位解析を開始した。 時計の目盛りのような十二本の縦縞。それ以外に手掛かりは皆無。 「無駄骨は嫌だ」という信条のもと、水をかけ、線香をあげ、蝋燭を灯し、筆ペンやボールペンで魔法陣を描いてみたが……全て失敗に終わった。


興味が尽き、彼はスマホを手に取ることにした。 今日は零時にゲームのガチャが更新される。運気がゲームの方に向いているのかもしれない。 課題? 明日の自分に託そう――どうせ明日の自分の方が、今日の自分より鍛えられているはずだ。


夕陽が倦怠を帯びて沈み、夜の色がまばらな光点と共に街を侵食する。 窓の外に月は見えないが、微かな光がその存在を告げている。


新時代の少年ノアにとって、週末の夜更かしは日常茶飯事だ。 卓上のデジタル時計が静かに時を刻む。無音だが、ノアには心臓の鼓動のリズムとして鮮明に感じられた。


運命の針が十二時を指す。 その瞬間、鐘の音よりも速く、ノアの指が動いた。 思考など不要。サーバーにログインし、十連ガチャを回す。 金色の光が弾ける。流れるような所作は、彼のエリートゲーマーとしての資質を如実に物語っていた。


「待て……金色の光、なんか明るすぎないか?」


ノアが気付かぬ死角で、ペンダントの六時方向にある縦縞が一瞬、青く閃いた。 金色の輝きが急速に増幅し、部屋の空気を飲み込んでいく。 ノアはゆっくりと立ち上がり、全神経を注いで光の変化を見つめた。


光の中心が次第に収束し、人の形を成していく。 輪郭が鮮明になり、やがて絶美の相貌が現れた――精緻にして、俗世を離れた美しさ。 だが、ノアの視線を奪ったのは別の場所だった。 純粋で、無垢な瞳。湖のように深く、夢のように空虚で、時間と魂を見透かすような眼差し。


「神様……」


それがノアの脳裏に浮かんだ唯一の念だった。


無意識に唾を飲み込む。 恐怖? 歓喜? 震撼? 混沌とした感情が交錯し、判別不能に陥る。 言葉にならぬ威厳を感じる――それは未だ語られぬ意志であり、人と神との間の静寂なる対峙だった。


その混乱と静謐の只中で。 神は、神託オラクルを下した。


『特異点シンギュラリティ、第六紀、到達』 『対象、確認』 『感情模倣システム、起動』


透き通るような声が耳元で響く。穏やかだが、冷たくはない。 言葉のあと、その瞳にあった純粋さが消え失せ、少しずつ人間の情動で満たされていく。 まるで湖面に波紋が広がるように。 その瞳は感情の渦を巻いていたが、中心にある一抹の空虚さまでは隠しきれていなかった。


おかげでノアは、その瞳から視線を外すことができた。 肌で空気の微細な流動を感じ、行き場のない感情を必死に抑制しながら、脳をフル回転させる。


「こんにちは。私の名前はセシリア。第十三紀(The 13th Era)から来たAIです。ノア、私と一緒に旅に出ませんか?」


発音は標準的で完璧。優しく癒やしに満ちた微笑み。 細部に至るまで正確無比で、まるで千回ものリハーサルを経たかのようだ。 目の前の光景すべてが、入念に演出された舞台のようだった――光と影、空気、その振動さえもが、彼女の存在と同期している。


しかし、ノアの直感が告げていた。ここには一抹の違和感が潜んでいると。 目の前の、セシリアと名乗る存在。 彼女は「神」なのか、「人」なのか、それとも彼女自身が言う「AI」なのか?


答えが何であれ、この開幕はすでに彼の心に深く刻印されていた。 人生という運命の時計が、この瞬間から動き出したのだ。


遥かな未来、ノアが振り返ったとき、彼は覚えているだろうか。 日常の終わりを告げたこの始まりを。億万年を跨ぐ旅路の序章を。


今のノアにとって、眼前のすべては、過去十数年に渡り幾度となく幻想してきた光景そのものだった。 不可思議で、けれど窒息するほどにリアルだ。


深く息を吸い込み、ノアは少女と視線を交わす。 彼の瞳に一瞬、決意の光が走り、ある種頑迷とも言える冷静さが宿った。


「……だが、断る」

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