10時40分

京野 薫

京香

 あ、ミルクあげなきゃ。


 私はそんな言葉と共に目を覚ますと、すぐにソファから身体を起こした。

 慌てて隣の部屋のベビーベッドを見て、京香ちゃんがじっと眠っている事に安堵する。


 そして直後に疼くような自己嫌悪に視線を落とす。


 生後半年の可愛い娘、京香きょうか

 本当はちょっとの間も目を離してはいけないのに、何やってんだか……

 唇をキュッと引き結んで、人差し指の爪の甘皮をむしる。


 あの子のママは私しか居ないのに。

 ちゃんとしないと……


 そう思いながら時計を見る。

 午前10時40分。

 良かった……20分程度か。

 あの子にはミルクをあげたばかり。

 まだ余裕ある。

 自分の胸をそっと触って、母乳が出る事を確認する。


 母乳に拘りたかった。

 夫のあきら


「ミルクも適度に使えよ、そればっかじゃキツイだろ」


 と言ってたけどネットにはメリットはたくさん書かれている。

 それにアチコチ飛んだら却って飲まなくなる。


 優しい夫ではあるけど、育児への理解は期待薄かな……


 あの子が寝てる間に早いけど、お昼ざっと済ませようかな。

 起きたらもう戦場だ。

鈴木由紀子すずきゆきこ」から「お母さん」になる。


 カップ麺でも……

 ホントはゆっくりパスタでも作りたい。

 でもそんな暇はないんだよね。


 そう思いながらキッチンに向かった私は、足を止めた。


 ……あれ?


 呆然とシンクを見つめる。


 そこには一人の少女が居た。

 4,5歳かな?

 まるでシンデレラみたいな長い髪と白いドレスを着ている。

 京香の育児部屋に置いてある「シンデレラ」みたいなドレス。


 なんで……こんな子が?


「あの……どこから来たの?」


 自分の声が震えてるのが分かる。

 何て言うか……変だ、あの子。

 うまくいえないけど……


 白いドレスの子はシンクをじっと見ていたが、そっと私を見る。

 私はゾッとして後ずさりする。


 ……え?


 その子はまるで蝋人形みたいに真っ白な肌。

 そして黒く美しく……無機質な目。

 でも、一番はそんな事じゃなかった。


 会った事なんてない。

 それは間違いない。

 こんな絵本の中から抜け出てみたいな可愛い子、一度会ったら忘れない。

 でも……なんで?


 


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


 私は脳内がフリーズしたみたいに、言葉が出なかった。


 帰ってもらわなきゃ。

 この子の両親が探しに来たら、人さらいと思われる。

 そしたら京香を誰が守るの?

 ご近所に変な噂が立ったら?

 引越し?

 嫌だ。

 京香に負担が掛かる。


 その言葉が呼び水になったかのように、言葉がズルッと出た。


「お家……どこ?」


 精一杯引きつった笑顔を作る。

 どうしよ、彰に相談しようか……

 でも、彼もお仕事忙しい。


 すると白いドレスの少女は、私を見ると口を開けた。

 私は思わずヒュッ、と息が漏れた。

 少女の口から、ミルクみたいな白い液体が零れたのだ。


 ……なに? それ? うちミルクなんて置いてない。


 パニックになった私はスマホを取り出して、彰のラインの画面を出した。

 でも……でも、指が震えて上手くタップできない。


 やっとかけられた! と思ったら……全然出てくれない。

 ずっと鳴らしてるのに、反応が無い。

 何とか「たすけて。へんなこがいる」と打ったけど、未読スルー状態。

 お仕事忙しいんだよね……でもさ……


「ねえ……かえろ?」


 すがるように言う。

 お願い。

 でないと京香が起きちゃう。

 そしたらお昼ご飯も食べれないよ。


 すると、その子は口からミルクを垂れ流しながら、私に駆け寄ると……消えた。


「……え?」


 私は呆然と突っ立っていた。

 消えた?


 へ?


 どうしよう、でも……私は頭おかしくなってない。

 京香を守らなきゃなのに、おかしくなってる暇なんて無いんだよ。


 私は頭を振ると、急いでカップ麺を食べて京香の所に行く。

 相変わらず静かに寝ている。

 本当にこの子は大人しくて育てやすい子だ。

 ネットとかじゃ


「泣き続けてて頭おかしくなる」

「背中スイッチどうにかして!」

「自分の時間も取れない。頭変になりそう」


 とか書かれてるけど、この子と私には関係ない。

 結局愛情の問題なんだよ。

 伝わるように……愛情をシャワーみたいに……


「ね、京香」


 そう言いながら私は片側の服をはだけると、京香を抱きかかえて乳首を京香の口に含ませる。

 でも、お腹一杯なのか調子が悪いのか、手で乳房を押さえておっぱいを出してあげても、口から母乳が溢れる。


「まだお腹一杯なんだね。もうちょっとしたらまたおっぱいあげるね」


 ふと時計を見るとまだ10時40分。

 ああ……私のおバカ。

 全然時間立ってないじゃん。


 やっぱ疲れてるのかな……

 今夜、彰に相談してたまにお義母さんに手伝ってもらおうかな。


 京香を見ると、私に向かって笑っているように見える。


「京香。ママだよ」


 私も優しく微笑む。

 大丈夫。

 私は最高のママになるから。


 そう思いながら、京香を寝かせて改めてリビングに戻る。

 スマホを開いて、趣味の小説の投稿サイトを見て、自分のマイページを出す。


 そこに書かれた自分の近況日記の最新の書き込み。


「私、頑張りました」


 を見て、顔がほころぶ。

 この日。

 京香の夜鳴きが酷くて、一晩中必死に抱っこして夜中に外を歩いた。

 その甲斐あって京香が大人しく寝てくれたのだ。


 育児は気持ちなんだ……


 その時。


 浴室からシャワーの音が聞こえた。


 瞬間、息と……世界が止まった。

 誰も……いないよ? いま。


 でも間違いなくシャワーが出ている。

 勝手になんて……でない。


 どうしよう。

 私は泣きそうになりながらまた彰に電話するけど、やっぱり鳴りっぱなし。


 逃げなきゃ。

 京香を……一緒に。


 だめだ。

 一緒だとあの子を巻き込む。

 私が……どうにか。


 私はキッチンから包丁を取り出すと、ゆっくりと浴室に向かう。


 大丈夫だよね……

 私、ずっといい子だった。

 学校でも職場でも、彼女としても妻としても……

 勉強も仕事もデートもセックスも、全部キチンと予習して出来た。


 私は死んじゃうモブじゃない。


 足が震える。

 足が進まない。


 でも……「嫌な事は先に済ませちゃいたい」

 そうすればゆっくり出来る。

 きちんとする余裕を持てるんだ。


 そしてそっと覗き込んだ私は「ヒッ」と声が出て、その場に倒れそうになった。


 そこには顔がグチャグチャに潰れた女性が、シャワーで何かの固まりを洗っていたのだ。


 私は悲鳴を上げると玄関に駆け出してドアを開けようとするけど、開かない。


「鍵……開けたよね? 何で? ……なんで!」


 ……閉じ込め……られた。


 何で?

 私モブじゃない!

 こんなのおかしい!

 キチンと育児もこなしてる!


 慌てて京香の部屋に向かう。


 なんでだろうか。

 壁のアチコチがペースト状の食べ物のようにベチャっとなっている。


 甘ったるい匂い。

 手にべたつく感触。


「何なの……これ」


 そして京香の部屋に行こうとすると、そこには……なぜか顔の潰れた女性が立っていた。

 さっきの何かの変な固まりを持って。


 私は悲鳴を上げると二階の夫婦の部屋に駆け上がった。

 何度も階段で脛をぶつける。


 助けて……助けて!

 もはや京香の事は頭に無かった。


 やだ、やだ。

 怖いよ。私、頑張ってるよ。

 いいママだよ。いい奥さんだよ。

 悪い事してない!

 ずっと……小さい頃から。


 そして泣き叫びながら夫婦の部屋に入ろうとすると、部屋の前に……彰が立っていた。


「彰……」


 私は泣きながら彰に抱きつこうとしたが……彰の頭部は上半分が潰れていて、まるで逆三角形のようになっていた。

 その逆三角形は私を優しく見つめている。

 そして……言う。


 でも……上手く聞こえない。

 何だろう?

 聞いた事ある言葉の気がするけど思い出せない。


 私は顔をふると、目の前の彰を階段に突き落とした。

 そして夫婦の部屋に入る。


 ドアに一杯色々とたてかけた。

 バリケードだ。


 私は泣きながらホッとすると、笑いながらクローゼットを開ける。

 着替えなきゃ。

 京香をお散歩に連れて行こう。

 赤ちゃんを日光に当てるのはセロトニンの分泌に効果がある。

 それに健康な身体作りにも役立つし、私自身の母乳の分泌にも効果あるんだ。

 気分転換できれば、よりよい育児も出来るよ。

 そうすれば笑顔も増えるし、そしたら彰も私を女としてみてくれる。

 そしたら沢山愛してくれるし、そしたらあの子に弟か妹を見せて上げられる。

 それから……


 色々頑張って考えながらクローゼットを開けると、ドサッと倒れてきた。

 あれ?

 彰のゴルフクラブかな?


 そのを脇にどけると、私は服を着替えた。

 そして、ホッとすると下に降りようと部屋を出る。

 すると、そこにさっきの白いドレスの女の子が立っていた。


 私はその子をじっと見て微笑む。

 さっきはわかんなかった。

 でも、今は分かった。


 私は微笑むとその子に手を伸ばした。

 ドレスの子は微笑むと私の手を取る。

 さっきよりも綺麗に見える。


「一緒にお出かけしよう。京香と三人で」


 するとSFのバーチャルな姿のようにぼやけて、私の手を引く。

 ドレスの子はキラキラ輝く。


「うん。ママは最高に頑張ってるよ。京香が保証する」

 

 だよね。

 京香が言ってくれるなら間違いないんだ。

 やった。


 そして二人で下に降りると、ベッドに寝ている京香を抱き上げる。

 女の子と手を握っているせいで、弾みで京香の片手がダラン、と落ちる。

 いけないいけない。


 私はぴょん、と飛び跳ねると京香の腕がひょい、っと元に戻る。

 これでも泣かない。

 本当にいい子。

 


 私は三人で外に出ようとしたけど、出れなかったのを思い出した。

 時計を見る。

 10時40分のまま。


「あ、そうだ。ドア……開かないんだ」


 するとドレスの子はニコニコと微笑み、首をふる。

 そして言った。


「ママ、もうすぐ開くよ。一緒に行こう。ゴメンなさいしようね」


 ……へ?


 すると突然ドアが開いた。

 勢い良く。


「……あれ? お義母さん」


 そこには顔を真っ青にしたお義母さんが立っていた。


「あなた……どうしたの? 何が……あったの? なに、あのライン! どういう事! って……え?」


 お義母さんは私が抱いている京香を奪い取るように抱き上げると、喉が破れるかと思うような悲鳴を上げた。


「どうしたんですか、お義母さん? ……なにか、ありました?」


 すると、お義母さんの後ろに止まっているパトカーから二人の警官が降りてきた。

 そして、その人たちはお義母さんを見る。


「こちらの方でいいですね?」


「孫が……やっぱりだ! やっぱり!」


 そう言うとお義母さんは泣きながら叫ぶように言う。


「人殺し! 息子と……孫を!」


「えっと……何の事ですか? 私……って言うか聞いてください、私、ずっとここから出られなくて……」


 二人の警官は顔を見合わせると


「こちらの方から通報を受けたラインの文章と画像からあなたを二件の殺人容疑の参考人とさせて頂きます。……礼状は出ているので、失礼します」


 そう言って警官の一人が二階に上がる。

 やがて降りてきた警官は言う。


「二階の寝室で夫、鈴木彰の遺体発見。容疑を殺人に切り替える」


 そして二人は何か言いながら私の手に手錠をかける。


「あの……すいません。私、京香にミルクあげないと」


 そう言いながら連れて行かれる私の耳に聞こえるお義母さんの叫び声。

 おうちを振り返ると、さっきまでの変な事が嘘のように静まり返っている。


「あの……ドレスの子、居ました? 顔の潰れた女の人とかペーストの壁とか」


「それは無かった」


 警官は冷静に言うと、もう一人の警官がスマホで何処かに電話する。


「容疑者確保。取調べの後、精神鑑定の必要あり。育児ノイローゼによる殺人ときわめて強い幻覚症状あり」


 ふうん、そうなんだ。


 そして……


 ああ、綺麗な青空。

 空ってこんなに綺麗だったんだ……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

10時40分 京野 薫 @kkyono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画