「願いの函 ―たとえばきみが消えたら―」
白滝ねこ
第1話 青い瞳の少女
「これ、受け取ってください!」
朝の通学路。
信号の前で立ち止まった俺に、見知らぬ女子が息を切らしながら差し出してきたのは——
ラブレターではなく、青黒く光る小さな箱だった。
「えっと……俺?」
「は、はい!」
ほんのりと頬を赤らめた彼女は、両手で包むようにしてその箱を押しつけてきた。
制服からして、この辺の学校の子じゃなさそうだ。
腰まで届くビロードのような黒髪が印象的で、触れたら壊れてしまいそうな、儚げな子だった。
カラコンだろうか。箱と同じ深い青色をした瞳が、わずかに揺らいだ気がした。
「え……えーと、これは……?」
戸惑う俺に、彼女は小さく、何かをつぶやく。
その唇の動きが微かに震えて見えた。
次の瞬間には、風に背を押されるように走り去っていった。
風の音にかき消されて、言葉の意味は聞き取れなかった。
残されたのは、手のひらで淡く光る箱だけ。
「……なんだこれ」
表面は金属っぽいのに、体温みたいに温かい。軽いのに、妙に存在感がある。
「まさか……爆弾とかじゃないよな?」
その冗談に、この胸騒ぎをかき消す力はなかった。
——昼休み。
窓際の席に腰かけたまま、俺は机の上の箱をぼんやりと眺めていた。
見れば見るほど奇妙な箱だ。
朝から何度も手に取ってみたが、どうやっても開かない。
蓋も継ぎ目も見当たらない。まるで一枚の鉱石を削り出して作ったようだった。
「お、なにそれ?」
声の主は、隣の席の達也。
軽口ばかり叩くが、顔は広くて要領がいい。
「なんか知らない女子に渡された」
「女子に? 朝っぱらから? お前、ついにモテ期到来か」
「……いや、そんな感じじゃなかった」
自分でも何を言っているのか分からない。
けれど、あのとき感じた違和感だけは、確かに胸の奥に残っていた。
あの白ガラスのように滑らかで、透き通った肌。
まるで人形みたいで、あの少女の存在そのものが、どこか作り物めいて見えた。
「開けてみたのか?」
「開かないんだよ。叩いても、引っ張ってもダメ。仕掛けがあるのかも」
達也はスマホを取り出し、軽く指を動かす。
「こういうのはな、ネットを駆使すればいいんだよ」
「……そんな都合よくあるかな」
半ば呆れながらも、俺はその言葉に少し救われた。朝からずっと、現実感がなかったのだ。
数秒後、達也の目が止まる。
「おい、これじゃね?」
それは、都市伝説とか心霊ネタをまとめたサイトだった。
《願いの函》
『伝承によると、箱を開いて願いを唱えると、その願いは必ず叶うという。』
「……なんだこれ、まるで漫画の設定じゃないか」
「でもさ、本当に願いが叶うなら──お前、何を願う?」
自然に、ある女子に目がいく。
七条詩織。
校内でも有名な美人だ。
三つ編みをハーフアップにした髪型がよく似合っていて、見るもの全てを虜にしそうな人懐っこい笑顔が印象的な女の子。
入学以来、ずっと片想いしてきた相手でもある。
「これはこれは、随分と笑いを取るのが上手でらっしゃる。まさか七条狙いとは」
目ざとく俺の視線に気づいた達也がニヤリと笑う。
「まあ確かに七条はカワイイけど……」
「けど、なに?」
「気が多いというウワサもある。二年のとき、付き合ってた彼氏をあっさり捨てて、バスケ部の先輩に乗り換えた……なんて話もちらほら」
「それは聞いたことあるけど、七条に嫉妬した女子が流したって話もあるらしいし……」
尻すぼみになっていく声が、我ながら情けない。
「ま、それを差し引いても君にはちょっと、いや、かなり高望みじゃないんですかねえ」
わかってる。不釣り合いな相手だってことは。
叶うわけがない。
それこそ、この《願いの函》とやらが本物でもない限り。
再びスマホに目を戻した達也が鼻で笑う。
「あとこの箱、ナノ単位の完全な立方体だってよ」
「……なにそれ?」
「理論上、存在しない形のはず。普通はどこか一辺でも狂うんだけど……」
言いかけて、達也の顔から薄ら笑いが消える。
指先で光の角度を変えながら、「理屈に合わねえな」と呟いた。
「ちゃんと調べてみてえから、これ、借りてもいいか?」
箱の表面に反射する光が、ほんの一瞬、俺の顔を見返したように思えた。
「あー、いや、自分でもちょっと調べてみたいから」
誰にもこの箱を渡してはならない——
そんな声が、胸の奥でかすかに息づいていた。
その日の夜。
ベッドに寝転びながら、俺は上の空でスマホを眺めていた。
机の上に置いたあの箱が、間接照明の光を受けて、鈍く光っている。
箱を開けるヒントが見つかるかもしれないと、都市伝説を扱ったサイトをいくつか覗いてみたが、特に目新しい情報は見つからなかった。
SNSには、どこか他人事の噂ばかりが流れていた。
『これ、受け取ってください!』
今朝の、あの少女の姿が目に焼きついている。
彼女が去り際につぶやいた言葉。その言葉が、なにかとても大切なことのように思えて、心がざわつく。
ふいに、SNSのトレンドワードの中で、ある記事が目に入った。
『市内の水路で、身元不明の少女の遺体が発見される。
唯一の所持品は、本人と思われる古い写真』
「……嘘だろ」
ビロードのような黒髪。
深い青色の瞳。
紛れもなく、あの箱をくれた女の子だった。
「死んだ……? は? え?」
あまりの現実味のなさに、思考が追いつかない。
少女は死んだ。
俺に箱を渡したその日に。
とても偶然とは思えない。
なにかとんでもないことに巻き込まれたのではないか。そんな疑念が、俺の中で産声をあげる。
そもそも何故、彼女は俺にこの箱をくれたのか。
仮にこの《願いの函》が本物だったとしたら———
欲しがる奴はきっと多いはず。
「まさか……殺された?」
つぶやいた声が、思っていたよりも掠れていた。
慌てて関連したニュースを検索するが、『死因は不明』としか書かれていなかった。警察の発表も、自殺と他殺の両方で捜査を進めているとだけ。
視線の端で、机の上の箱が淡く光った。
朝よりも、光が深い。
黒に近い青が、少女の瞳の色をしたその箱が、呼吸に合わせるように脈打っていた。
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