2人の距離が動いた日
静かな朝と、失われた記憶
ロイドの寝室に運ばれたユキは、翌朝になってようやく微かにまぶたを震わせた。
しかし、ユキの瞳が開いた瞬間、その表情に淡い緊張が走る。
見慣れない天井、広すぎる部屋、完璧に整えられた無機質な空間は、冷ややかに沈黙していた。
身を起こそうとした肩がわずかに揺れ、指先が頼りなくシーツをつまむ。
ここがどこなのか、自分がなぜここにいるのか。
思考が追いつかず、呼吸だけが浅くなる。
その不安を断ち切るように、奥のほうで静かな足音が近づいた。
振り向けば、ロイドがそこにいた。
「目が覚めたようだな。……安心しなさい。ここは私の部屋だ。」
声音はできるだけ柔らかい。
けれど彼の存在そのものが、どうしたって空間を満たしてしまう。
意図せぬ圧が、影のようにまとわりつく。
近づいてくるロイドを見て、ユキの背は自然と強ばった。
ロイドもそれに気づき伸ばしかけた手が、ユキの頬に届く直前で止まる。
数センチの距離で指先が震えた。
「……無理に動かなくていい。体力が戻るまで休め。」
触れもせず、そっと手を引く。
優しさを示そうとするのに、近くにいるだけで逃げ場を奪うような存在感。
ユキには、その静かな気配すら息苦しく感じられた。
その瞬間、控えめなノックが張りつめた空気をほどく。
レイに案内され、白髪の医師が入ってきた。
歳を重ねた医者だけが纏う落ち着きが、部屋にやわらかな温度をもたらす。
ユキへ向けた微笑みには、あたたかい安心が宿っていた。
その穏やかさに触れ、ユキの肩の力がわずかに抜ける。
医師は問診から触診、聴診へと進めていく。
落ち着いた声と無駄のない手つき――熟練の手並みに、ユキの視線が少しずつ落ち着いていく。
診察を終えると、医師はカルテを閉じ、ロイドへ向き直った。
「外傷はありません。ただ、相当なストレスを受けていたようです。精神的なショックが原因の記憶の断絶が見られます。当面は安静が必要ですね。」
ロイドは静かに息を吸った。
「……記憶喪失、か」
「また、軽い栄養失調も確認しました。厳しい環境下にいた可能性があります。まずは食事と休息を。」
医師が退出すると、部屋には再び沈黙が降りた。
ロイドはユキの揺れる瞳を見つめ、胸が軋むのを感じる。
確かめたい――
雪の夜に傘を差し出した少女が、本当に彼女なのか。だが、今の彼女に問いかけることはできなかった。
「……休め。しばらくはここで。」
シーツを整え、毛布をかけ直す手つきは不器用なのに、やけに丁寧だった。
「……ご迷惑を、かけてすみません。」
ユキの声はかすかに震えている。
ロイドは返す言葉を探したが、見つからない。
女性から向けられてきた好意も、思惑も、計算づくの仕草も、散々見てきた。
だというのに――
怯える少女をどう安心させればいいのか、まったくわからない。
「……気にするな。」
それだけではユキの不安が消えるはずもなく、瞳は揺れたままだった。
そしてロイドは仕事に向かった。
しばしば手が止まり、社員たちのざわめきを招く。
女性社員がロイドの相談に乗ろうと近づくも、彼はいつものように距離を置く。
ユキとの距離は近くて遠い。
手を伸ばせば届くのに、心はまだ触れられない――そんな日々が続いていく。
マティーニへ:ロイドの不器用な相談
夕暮れ。
ロイドはレイにも告げず車を出し、街外れのラウンジ「マティーニ」へ向かった。
しっとりとした灯り。低く流れるジャズ。
行き場を失った女性たちに居場所を提供するこの店には、独特のぬくもりがあった。
カウンターに立つスーリンは、ロイドの姿に驚いたように目を丸くした。
「まあ……あなたがこんな時間に来るなんて。どうしたの?」
アリアの旧友であり、ロイドが信頼を寄せる数少ない人物。
アリアは自身の境遇が、大切な友人スーリンに迷惑を及ぼすことを恐れ、意識的に距離を置いていた。
だがアリアの墓前で偶然ロイドと出会ったスーリンは、彼の存在を知ったその日から、アリアの思い出を分かち合い、ゆっくりと信頼を築いていった。
ロイドは黙って座り、指先で一度カウンターを叩いた。
それだけで、スーリンには察しがついた。
「……何かあったのね。」
ロイドは短く息を吐く。
「……どう接すればいいのか、わからない。」
スーリンは微笑み、紅茶を注いで差し出した。
「レイから聞いたわ。女の子を家に置いているんでしょう? あなたが女性で悩むなんて……アリアが聞いたら喜ぶわ。」
ロイドは一息ついて続ける。
「……怯えている。私が近づくと固まる。」
その一言だけで、ロイドの胸にあるもどかしさが伝わった。
「その子のこと、大切に思っているのね。」
ロイドはわずかに目を伏せる。
「……そのつもりだ。」
「でもね、あなたはどうしたって“圧”があるの。特別な存在だから。自覚がなくても、近づかれるだけで息が詰まる子もいるのよ。」
スーリンの声は優しく穏やかだった。
「難しいことをする必要はないわ。不安なときこそ、静かにそばにいてあげるの。無理に聞き出さず、逃げ道をふさがず、ただ安心できる空気をつくってあげる。……女の子ってね、そういう小さな優しさにとても弱いものよ。」
ロイドは静かにまぶたを閉じた。
そんな当たり前のことすら、自分は自然にできなかった事を悟る。
スーリンはそっとロイドの肩に手を置いた。
「ゆっくりでいいのよ。あなたの優しさは、必ず伝わるから。」
Ⅲ. ぎこちない優しさと、はじめての笑み
帰宅したロイドは、まっすぐリビングに向かった。
ユキは膝に本をのせ、小さく座っていた。
「……お帰りなさい。」
遠慮がちで、触れれば消えそうな声。
ロイドはキッチンで静かに作業し、温かいミルクをトレーに乗せて戻る。いつもより一歩だけ距離をあけて、そっと差し出した。
「……眠りやすくなる。飲むといい。あと、何かあればすぐに言いなさい、君には私もレイもいる。」
ユキは驚いたように瞬きをし、それから控えめに微笑んだ。
「……ありがとうございます。」
その笑みは小さくても、確かな光だった。
ロイドの胸の奥に、温かいものがゆっくりと満ちていく。
言葉にしなくても伝わる、静かな温度。
ユキもまた気づいていた。
日々の生活の中で、ロイドが不器用なりに、自分を気遣ってくれていることに。
ただその確信が持てなかっただけだった。
その夜。
眠るユキを見つめながら、ロイドは静かに呟いた。
「……悪くない。」
かすかな声だったが、確かに満たされた響きを帯びていた。
愛の檻 @hanamizukiyume
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。愛の檻の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます