岩盤みみず

@gagi

岩盤みみず

 昨夜は窓に雨粒の触れる音の中で眠りについた。


 翌朝に起きてカーテンを開けると雨はやんでいた。


 私は仕方がないからランニングウェアの上にウィンドブレーカーを着て、シューズを履いて家を出た。


 

 私は中学で陸上部に入った頃から、朝に近所の公園を走るようにしている。


 雨が降っていたり私の体調が悪い時はやらないけど、それ以外の日はなるべく毎朝。


 空には秋と冬との空白の期間に現れる、どんよりとした厚い雲がのっぺりと広がっていた。


 公園を囲う桜並木はすっかり紅の葉を落としきってしまっている。痛々しい裸体を曇天の下に晒して、雪の衣を纏う準備を済ませていた。


 城郭跡地公園のお堀。水は枯れてしまって、暖かな季節には見られなかった水底が露出している。


 私は堀の外周の路を走る。シューズの裏で黒く湿ったアスファルトを蹴り、鈍重な足を無理やり地面から引き剥がす。


 沈着する怠さを払うように腕を振って、一定のテンポで息を吸って、吸って、吐く。


 冬が混じり始めた外気は鼻腔で温めても冷たいままで、私の喉や肺へと貼り付く。


 冷たい公園の大気中には濡れた落ち葉の匂いがあった。また、降雨の前後に感じられる石のような、土のような香り。いわゆる雨の匂いも漂っていた。





 その匂いを嗅いだ後だったから、このような話題になったのだと思う。


「雨の匂いっていうのは『ペトリコール』って名前なんだって。植物の油? だったりバクテリアの代謝物? だったり、カビとか排ガスが素材というか、原因みたい」


 なんだかあまり風情のない正体だね。と同じクラスの小林が言った。


 机に突っ伏した私はちらりと顔を持ち上げて、横に座る彼女を見た。


 小林は昼食にと買ってきたであろうコロッケパンをもそもそと咀嚼していた。まだ朝のショートホームルームさえ始まっていないのに。


 私は「カビとか排ガスにしては、嫌な臭いじゃないけどね」と返事をして再び顔を伏せた。



 高2の後半になってから、授業の難易度がぐんと上がったように感じる。


 これは私の知能ゆえの感覚だろうか。授業についていくために要する予習復習の時間というのが、私の一日における割合を増して、徐々に徐々にと他の部分を圧迫しつつある。


 部活だって手を抜けない。私が引退をしてしまうまでの猶予は一年を切った。中学から今まで多くの時間を費やしてきた活動だ。たとえサンクコスト効果に惑わされているのだとしても、最後には何かしらの結果を残したい。諦めたくない。


 上記の要因から私の生活に占める睡眠の割合というのが他の要素に押される形で、少しずつ減退していた。

 

 ほんの少しの寝不足が蓄積して、それは頭骨内部でもやを形成した。


 頭がぼんやりとして、論理の構築がうまく働かない。


 授業を聞いてても内容をよく飲み込めなくて、さらに予習復習に時間がかかる。悪循環ってやつに陥っている。


 私は少しでも仮眠を取ろうとして授業の合間などの空き時間には、こうして机に突っ伏すことが多くなった。



「ちがうよ。雨の匂いの正体はカビや排ガスなんかじゃない。あれはのにおいなんだ」


 私と小林の雑談に誰かが割り込んできた。男子の声だ。誰の声か、ぱっと思い当たらない。


「岩盤みみず?」と小林が聞き返す。


「そう。岩盤みみず。普段は地下深くの硬い岩のなかにいる、みみずだ。雨が降ると彼らは餌を食べに、地表のアスファルトまで上がってくるんだ」


「聞いたことがないけどなぁ。岩盤みみずなんて。だいたい、アスファルトを食べちゃうみみずなんていたら、道路がぐにゃぐにゃになっちゃうじゃん」


「その心配はない。彼らは雨が降るとアスファルトの中に潜り込む。けれど食べたりはしない。アスファルトの内部を透過するように身をくねらせて進むんだ。そして、アスファルトにたっぷりと浸み込んでいる彼らの餌を食べる。雨によって頭上の人間たちが失せて、水によってふやけて食べやすくなった餌をね」


「ふうん」と小林が言った。その声色から男子の話に興味が無くなったことが伝わる。


 私は机に伏せてぼんやりと、二人の会話を聞いていた。


 アスファルトに浸み込んでいる、『岩盤みみずの餌』とは何なのだろうと思った。 





 日曜日。今日は学校も部活も休みだった。


 スマホのアラームが鳴る前に目を覚ました私はベッドの中で、ぱらぱらと外壁や窓ガラスが叩かれる音を聞いた。


 カーテンを開ければ空は黒々とした雲に覆われて、そこからは大きな雨粒たちが流れるように降下してくる。


 窓から見える範囲の街路は全て、空から注がれる雨によって濡れていた。ガラスを通して外気の冷たさが皮膚の表面に伝わる。


 雨が降っているなら仕方がない。今日は走るのはやめよう。


 私はどこか安堵の気持ちを感じてしまいながら、カーテンを再び閉めた。



 私は寝巻のまま部屋を出て、顔を洗った。


 母が作ってくれた根菜と水菜の暖かなスープ、それからロールパンを二つ食べて、歯を磨いた。そうして再び自室へ引き取った。


 勉強をしようと思って教科書を開いた。


 けれども寝起きにも関わらず脳みそは呆けて、内容が全く入ってこない。


 目に映る活字たちは網膜に乗ったとたんに滑り落ちて、文章として私に伝わってこない。


 なんだか嫌になってしまった。


 私は机の上に教科書を開いたまま、ベッドに横たわった。そして羽毛布団に包まった。


 

 瞼を閉じて己の体温の温もりを感じながら、私は誰かが話していた『岩盤みみず』のことを想像した。


 硬いアスファルトに打ち付ける雨粒。その微かな振動が地中奥深くまで染みわたり、『岩盤みみず』たちを誘い出す。


 細長いピンク色の肉塊。可愛らしさと醜さをない交ぜにしたそれらが、上へ上へと身をくねらせる。

 

 一匹、また一匹と岩盤みみずがアスファルトへ潜り込むたびに、ペトリコールが辺りに漂い、落ち葉のにおいと混ざり合う。


 黒く濡れたアスファルト。雨によって往来が絶えた路の下を、無数の岩盤みみずたちが這っている。決してアスファルトを物理的に浸食することなく、内部を透過するように進む。


 そうして彼らは路に浸み込んでいるを摂食するのだ。



 ふと、鼻の粘膜に匂いが触れた。気がした。それは石のような、土のようなにおい。


 室内では平生、感じられることのない外のにおいだ。


 窓でも開けたままだっただろうか。そう思いカーテンを捲って見てみても、窓は閉まっている。


 どこかからの隙間風だろうか。しかし体表の感覚を澄ませても、空気の流れは感じられない。


 そうしているうちに、確かに感じたはずの匂いはすっかり失せてしまった。





 日曜日の雨は終日、降り続いた。


 そして月曜日の朝には止み、役割を果たした黒い雨雲たちも流れて行った。


 頭上には寒々しい高く澄んだ青空が広がっている。冬の空だ。


 雨が無く体調不良も無ければ毎朝走るのが、私の決まりだ。


 ランニングウェアの上にウィンドブレーカーを着て、シューズを履いて家を出る。



 一定のテンポで息を吸って、吸って、吐く。靴裏で地面を蹴って、弾むように駆けていく。昨日は十二分に睡眠を取ったからか、体が軽い。


 城郭跡地公園のお堀。それを囲う舗装路。


 路のアスファルトは黒く湿り、窪みには所々小さな水溜まりが出来ていた。


 公園の大気には濡れた落ち葉の匂いが漂っている。


 そして石のような土のような雨の匂い、あるいは『岩盤みみず』のにおいも混じっていた。



 もしも岩盤みみず、というのが実在していたとして、このペトリコールが地表近くまで這いあがってきた彼らの証しだとするならば。


 岩盤みみず達は私が今まさに走っているこの路からを食べたわけだ。


 この黒く湿った路からはが失われているはずなのだ。


 けれども私の目には濡れているところを除いて、普段との違いは無いように見える。


 

 路の中央に大きな水たまりが出来ていた。


 私は勢いをつけてそれを飛び越えた。


 その時にちらりと、水たまりのちょうど真ん中。


 細長くピンク色の、みみずの死骸が見えた気がした。

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