第12話 引っ越し

 7月もそろそろ終わる頃、蓮の引っ越しの日がやってきた。10時過ぎにもなると太陽の光が燦燦とアスファルトを照らし、夏特有のじめじめした蒸し暑さが二人を襲った。昨日雨が降ったことも湿度を高める手助けをし、不快な暑さとなっていた。




「おはよ。今日はありがとね。」


「いや、全然いいけど。」


「ニヘヘ。ありがと。」


「荷物は持ってきたけど、家は何処なんだ?」




 智之の家の窓からも眺められる小さな公園にやってきていた二人はあまり活動をしていないのにも関わらず、汗がにじんだ服を若干張り付かせていた。また、服が汗に濡れた影響か蓮の白のTシャツを透かして、ピンクの下着の色が透けて見えている。それを見ないようにしながら、智之は持ってきていた紙袋を掲げた。




「あそこ。」


「対面、だな。」


「ニヘヘ。近い方がいいと思って。」


「……そう、か。」




 蓮が指したそこはちょうど公園をはさみ、真正面に来る位置であった。同時に窓からベランダに出ればお互いの様子が覗き込めるだろう。そのマンションは3階建てであり、白塗りの綺麗な外壁の様子から築10年も経っていないだろう。


 対面のマンションを指した蓮に対して若干ながら言い淀んだ智之の言葉に、蓮は緊張と不安を顔に張り付けた。その不安な様子を隠すことなく、蓮はうるりと潤んだ目で上目遣いがちに智之の方へ向けた。




「嫌、だった?」


「そんなことないぞ。嬉しいぞ。」


「ニヘヘ。すぐ会えるね。」


「あ、ああ。」


「ニヘヘヘヘ。」








 マンションに入ると外観と同じように新築さながらの内装が二人を出迎えた。広さは1DKほどで一人暮らしをするには十分な広さがあった。トイレと風呂が別でシステムキッチンまで着いているのだから、特に贅沢をしようと思わなければ十分であろう。




「いいところじゃないか。」


「ニヘヘ。いつでも来ていいよ。」


「あー、その時はよろしく。」


「うん。ニヘヘ。……そうだっ。」


「ん?」


「冷蔵庫とか届くの明日以降になりそうで。」


「へ、へー。」




 後に続く言葉を予想できたのか智之の顔は引きつる。そんな智之の様子に気が付いているのか、いないのか、蓮は心なしか姿勢を低くし、正面から一歩智之の方へ踏み出した。そして、乞う様な、甘えるような表情を受けべて下から覗きこむようにまた一歩近づく。




「だから、泊めて?」


「前の部屋にあるんだろ?運ぶまではそこで生活できるんじゃないか?」


「うー、冷蔵庫にもの入れておきたくないし、ダメ、かなぁ。」


「飯はどっかに食べに行こう。な?」




 なんとなしに蓮が言いそうなことを予想出来ていた智之は動揺をすることなく、説得の言葉を吐いていく。それに唸りながら言う蓮のとってつけた様な言い訳を華麗に流し、智之は代替案を提示する。ここまで言われてしまえば、蓮もどうすることもできないだろう。




「……うー。分かった。」


「ふぅ、まだ荷物うちにあるから、手分けして運ぼう。」


「うん。」








 その後は特に何かおかしなことはなく、荷物の運搬作業は順調に進んだ。雲もなく晴天の空のちょうど真上に太陽がおり、作業を始める前よりも強く日差しが地面を照らしていた。二人は家の中で服を着替え、智之は膝を手でパンと叩いた。




「さて、一通り運び終わったか。」


「ありがと。」


「親友だからな。」


「ニヘヘ。」


「じゃあ、ここらで解散か?」


「うん。これあげる。」




 二人揃って玄関から外に出て、蓮が家の鍵を閉めた。向かい合って立ち、日光を背にした智之の影に覆われた蓮の手にあったのは銀色に輝く鍵である。それもつい今しがた使用して扉の鍵を閉めていたものだ。




「……鍵?」


「ここの鍵、好きに使って。」


「いや、好きに使ってって言われてもな。」


「何かあった時に助けてもらえるし。」


「まぁ、確かに?って、そう言えば、うちの鍵返してもらってないような。」


「ん?」




 蓮の突拍子もない提案に驚き、智之は慌ててその提案を蹴ろうとする。しかし、蓮の方が一枚上手であったのか、用意していたであろう言葉を口に出した。その言葉に一理あるかと丸め込まれそうになっている智之である。


 病院で渡した鍵を返してもらっていないことにはたと、気が付いた智之は蓮に当然のように疑問を呈する。が。蓮は聞こえなかったかのように小首を傾げ、色のない瞳でじっと智之の瞳を見つめるばかりである。




「だから、鍵だよ。忘れてたけど、返してくれ。」


「ん?」


「……。ダメだぞ。」


「交換。交換ならいいでしょ。」


「ダメに決まってるけど?」




 再度、きっぱりとした口調で催促する智之であるが、そんなことはどこ吹く風かのように小首を傾げたまま、蓮はじーと氷のような蒼い目を向けたままだ。智之はその瞳に怯みそうになる心を抑えて、断言する。


 蓮はどうにもこれでは躱せそうにないのを認めると、まるで等価交換ならよいとでも言うように手に持つ鍵を智之の方へと突き出した。その蓮の様子に智之は半ばツッコミを入れるように拒否する。




「えー、いいじゃん。もしかして、疚しいことでも?」


「疚しいも何も、鍵を交換することの方が疚しくないか?」


「親友なんだし、普通、普通。」


「何を言っても、ダメなものはダメだぞ。」


「やだやだ~。絶対返さないもんっ。」




 疚しいも何も、二人の関係はただの親友である。その関係の中に鍵を渡す云々が疚しいことに繋がるものは一つもなく、当然のように智之は拒否するのである。蓮はその智之の頑固な姿勢に頬を膨らませながら、どうにか自身の意見を押し通そうとする。


 とうとう智之の頑固な姿勢に癇癪を起す子供の用に蓮は感情的に否定して、腕を組んでそっぽを向いた。幼さの残る顔を膨らませて、そっぽを向いている様は完全に子供の様で智之は額に手を当て一つため息を吐いた。




「……はぁ。どうしてこうなったんだか。」


「仕方ないこと、でしょ。」


「それとこれとは話が別のはずだけどなぁ。」


「それに今は持ってないし。」


「本当かぁ?」


「ウン。」




 異常事態が起こっているのは確かであるが、親友に合鍵を渡すなんて言う異常をわざわざ自身から認めるのはおかしなことだろう。仕方ないなんていう言葉は言い訳になるはずもない。あまりの言い分に智之はぼやくことしかできなかった。


 蓮は持っていないと言いながら、財布の入っているポケットを手で上から抑えるのを見るに、明らかにそこに鍵があると宣言しているのだが、智之はもはや何かを言う気力も勢いも削がれており、これまたため息を吐くしかなかった。




「はぁ、また今度返してくれよ。」


「……。」


「返事は?」


「……ニヘヘ。」


「はぁ。」




 智之は後日でも渡す気がないようである蓮に呆れた様子でため息を吐く。処置なしとばかりに顔を左右に振るのも忘れない。それでも蓮が口元を緩めて機嫌よさげにするのを見ると、智之は仕方ないという気になってしまうのは甘いからか、それとも他の理由からか。それは智之には分からなかった。

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