ある日の木陰で
明深 昊
一
「なにをしているんですか?」
彼女はその言葉に少し伏せていた顔をあげて私をじっと見つめてきた。黒い瞳に吸い寄せられるように見入っていると、なぜか彼女は小さく笑い声をもらした。
「ここにいてはいけない?」
「あ、いや、そういうわけでは……見ない顔だから」
しどろもどろに答えると、彼女はそう、とだけ呟いて視線を太陽が沈みかけている景色の方へとやってしまった。黒く長い髪で見え隠れする横顔が美しい。 どこか不思議なたたずまいの彼女は、性別が女性ということ以外、年齢すらも見当がつけられなかった。見た目は確かに若いのだが、なぜだかそうと決めつけることができない。
「……そこにいないで座ったらどうなの」
立ち尽くしている私に、視線はそのままで話しかけてくる。 とまどいながら少し離れたところに腰かけると、再び沈黙が訪れた。
名前は、歳は、どこに住んでいるのか。たくさんの質問が頭に浮かんでは口にできぬまま消えていく。彼女はあいかわらずどこかを見つめたまま。
「ああ、そうだわ」
日も完全に暮れようとした時、急に彼女はそう呟いてこちらを振り向いた。
「あなた、明日もここへ来るかしら」
思わず間抜けな声で聞き返してしまったが、すぐにとりつくろう。
「君がいいのなら……」
「あなたがここに来ることを禁ずることができるほど力は持っていないわよ」
それもそうだ。思わず苦笑しながら、じゃあまた明日、と立ち上がった。
次の日も、彼女は同じ場所で木を見上げていた。
「……こんにちは」
ちらりとこちらを見て、すぐ関心を失ったように視線を戻してしまう。また明日も、と言われて少し期待した自分がばからしくなって、肩をすくめて昨日と同じ場所に腰かけた。
「本当に来たのね」
意外にも声をかけてきたのは向こうからで、まあ、とあいまいな言葉を返す。
「その、うれしかったから」
思わずそう伝えると、ふぅんと満更でもなさそうで、またほんの少しだけ期待してしまう。
「君は、なぜここに?」
「休むにはちょうどいい場所だと思ったのよ」
旅をしている、ということだろうか。であれば見ない顔というのも納得がいく。
「この辺りに宿を取っているということか?」
「…………まあ、そんなところ」
「こんなちっぽけな村に旅人なんてめずらしい。みんな歓迎すると思うよ」
大きな町からは山を一つ越えなければならない辺境にある地だ。
外からの客人を忌み嫌うような者はいないだろうし、むしろ話を聞きたがるだろう。
「さあ。私、厄介なお尋ね者かもしれないわよ」
「お尋ね者ならば、このような場所にいないでそそくさと行動しているだろうに」
そう言って、思わず笑ってしまう。彼女はそんな私を横目に木を仰ぎ見た。
「どうかしらね……」
「いつまで滞在するんだ?」
聞くと、これも彼女は言葉を濁した。
「……満足するまでよ」
「そうか。しばらくいるのなら今度町を案内しよう」
「それは結構よ」
即答されて、えっと聞き返してしまう。
「ああ、いえ、お気持ちはありがたいのだけど。来てすぐに一通り回ったから」
「そうか……」
きっと彼女から見れば目に見えて落胆しているように見えたのだろう。くすりと笑って、 それじゃあ、と口を開いた。
「代わりと思って、私がここにいる間毎日ここで話し相手になってくださる? できたら二人きりがいいわ」
浮かべた笑みはどこか作られているようで、それでも彼女からの願ってもない申し出を断れるほど、 彼女へのこの淡い気持ちをないがしろにすることはできなかった。
「もちろん、私でよければいつでも」
「長い髪の美しい女性が最近この辺りに宿をとっていて、少し言葉を交わしたんだ」
友人のソウタに自慢げに彼女のことを話すと、大声で笑い飛ばされた。
「ケイ………お前、だまされているんじゃあないだろうな」
「まさか」
「そんな平たい顔の男に惚れる女があるか」
平たい顔は余計だと反論し、二人でひとしきり笑う。
「まあ、いずれ紹介してくれや。どこに宿取ってるんだ?」
そう聞かれて、わからないと首を横に振る。
「あれだけ美しいんだ、その内うわさになるだろうさ。そうなればわかるだろ」
しかし、一週間が経っても彼女の目撃情報は一つも耳に入ってこなかった。彼女にそれとなく宿のことを聞いてもはぐらかされてしまう。
「ここで会えばいいのだから、教える必要もないでしょう?」
初めて会った時よりもさらに魅力を増しているように見える彼女は、やわらかい笑みを浮かべて肝心な質問をいつものらりくらりとかわしていく。名前も年齢も出身も、今どこに泊まっているのかさえ教えてくれない。
私と彼女の関係はあの木の下でのみ成立していて、木陰から私が出てしまえば彼女は隣にはいない。彼女は絶対にあの木から離れようとはしなかった。
話を聞いたソウタは心配をしているようだったが、たとえ彼女が隠し事をしていたとしてもそれは会わない理由にはならなかった。
不思議なことに、彼女が自分のことを話してくれないことは不満にはならなかったし、話すつもりがないのであればそれで構わない。
ソウタからしてみれば、そう考えている私まで不気味に見えているそうだ。
「用心深いのね。素敵な友人だわ」
「君のことを疑っているのにそんなことを言えるのか?」
「ええ、だって私が怪しいというのは紛れもない事実ですもの」
少しずつではあるが会話が弾むようになってきている。あいかわらず彼女のことはなにもわからないままなのだが、私だけでなく相手も共にいることが苦ではないようだった。
「私はそうは思わない」
「物好きな人ね。でも、おもしろいわ」
話せば話すほど、私は彼女に惚れていく。嫌われてはいないだろうという自覚もある。なにも知らないからそう言えるんじゃないかとソウタに諭されたが、あまり聞く耳を持たなかった。
環境の変化が出てきたのは一ヵ月が経とうとした頃、初夏の時期。
ほぼ毎日通っているから気づきにくかったが、確実に木周辺の草花の元気がなくなってきていた。例年通りならば今頃青々と茂っているはずなのだが、葉の先が枯れていたり、自分の重みに耐えきれず垂れ下がっていたりするものもある。
「なにか虫が病気でも運んできたんだろうか……」
もしこれが病気の類だった場合、農作物に影響が出ないとも限らない。冬を越せるだけの収穫はあるものの、貯蓄ができているわけではない。不作の年にはいつも口減らしが行われたり、そのうえでも飢餓による死者が出たりする。
「田畑になにかあったら、客を置いておけなくなるかもしれない。寒さが厳しくなる前に別の町に移った方がいいかもしれん」
そう言うと、彼女はそうね……と周りの草花とは対照的に立派な枝を伸ばしている木を見上げた。
「そうできればいいのだけど」
歯切れの悪い回答に、首をかしげる。
「なにか問題が?」
「……いえ、そうね。考えてみるわ」
木の周辺の草花は数日で枯れてしまい、その範囲も少しずつ広がっている。すでにあそこから近い田畑の成長は遅れてきていた。 一方で異変の中心にある木は緩やかに、だが確実にその根を伸ばしている。
「この木は影響を受けてないのか……」
「そのようね」
ただでさえ孤立しているように見えていた木は周囲の植物も枯れてしまって、いなくなってしまった仲間を求めて枝を広げているようにも見えた。もし、この木が周囲の栄養を独り占めしていて、そのせいで他の植物に影響が出ているのなら……。
「もしそうだとしたら、どうするの?」
彼女はどこか冷酷に聞こえる声で聞いてきた。
「……どうもこうも私はなにもすることはできない」
きっと、大飢饉が起ころうと私は木を恨むことはできないだろう。
恋というものは奇妙なものだ。彼女と私を引き合わせてくれたというそれだけで、この木に愛着がわいてしまう。
「どこまでもおかしな人ね。でも嫌いじゃないわ」
そう言って、彼女は優しく微笑んだ。
「私、やっぱりここからは離れられないみたい」
「どうして……」
目を伏せて、言葉を選んでいる素振りを見せる。一つ一つの動作が、いちいち美しい。
「少し用があったのだけれど、なかなか終わらなくて。そうね、村を追い出されてしまったらその時に考えるわ」
「そうか。そうしたら私も一緒に村を離れよう」
そう言うと、彼女は目を丸くして、ころころと笑った。
「じゃあ、もしものときはそうしましょうか」
木はあり得ない速度で成長し、すでに村中の農作物はだめになってしまった。
「不気味よ、あの木だけが無事だなんておかしいじゃない」
誰かがそんなことを言った。不安をあおる言葉は、瞬く間に広がっていく。
「伐ってしまえ!」
さらに誰かが恐怖からそんなことを言い始めて、多くの人が賛同する。その光景を、私は呆然と見ている事しかできなかった。考えていたのは、あの木がなくなってしまったとしたら彼女はわたしに会ってくれるのか、そもそもこの場所にまだいてくれるのかといったことだった。
「だが、もしあの木がなにか病気をまき散らしていたとしたら、近づいた我々自身に影響が出ないとも限らない」
的を得た指摘に議論が滞っていると、それを破ったのはソウタだった。
「もしあの木が病気を持っていたとしたらケイは感染しているはずだ。毎日の木の下に行っていたのだから」
その言葉に、一斉に疑惑の目がこちらへ向けられてしまった。
「まて、私は病気になんかなっていない! 見ての通り、なんともないだろう!」
「もしや、ケイがあの木になにか細工でもしたんじゃないだろうな」
ソウタのあり得もしない言いがかりに、背筋がぞっとする。
「私はただ、あの場所で旅をしているという女性と言葉を交わしていただけで……」
「うそをつくな。周辺の村いくつかの宿屋に聞いたがそんな長期間滞在している者はいないと宿主が言っていた。くだらない嘘までついて、なにをしていたんだ」
「え……」
信じられない言葉に、視界が明滅する。噂にならないのは彼女が人前にあまり姿を見せないからだと思っていた。本当はこの村に彼女はそもそもいなかった……?
「じゃ、じゃあ、毎日会っていた彼女は……誰なんだ……?」
そう呟くと、怪物でも見るかのような目で人々がこちらを見てくる。
「病気で気がふれたんじゃないか」
「うつされたらたまったもんじゃないぞ」
「待ってくれ、本当に私はなにもしていない! 木に細工はおろか、病気でもないんだ。信じてはくれないか!」
いくら訴えたところで、飢餓の危機にある中でその元凶であるかもしれないともなれば問答無用で追い出されてもおかしくはない。
私もなにも知らなければ彼らと同じ判断をしていただろう。
少しずつ、居場所がなくなっていく。一番気を許していたはずのソウタは冷たい目で私を告発した。家族も不信感のある表情を浮かべて無言で私を見ている。
追い出されるのは彼女ではない。当然だ。彼女はこの村に存在していないのだから。
明日の朝、村を出よう。
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