京洛編
第3話 清水寺(きよみず)の娘
心のままに飛び出して無我夢中で歩いてきた。もはや東海道の終わりも近い。少し手前の街道筋から人も着物も垢抜けた様子に見えて春信の心も足も
「着いた」
押し上げた笠の下からはずむ声が出る。
紺地に
旅のあれこれはなんでも面白く思えた。
なににつけ画帖を取り出し、描きながら歩いてきた。富士が見えれば描き、大井川に出ればまた描いた。渡しの鐘だと言われれば物珍しげにそれも描く。
描いたものが役に立つかどうかなど、どうでもよかった。見るものがすべて面白く、景色から茶屋、
そうしてお供の画帖が二冊目になる頃、京の入り口が見えてきたのだった。
足を止めて辺りを見まわすとなにもかもが眩しく見えてまた嬉しくなった。
店が並び始めると心がはずむのは人の常。旅の目的地ともなればここには何があるのかとその気持ちも強くなる。
つい本屋を探してしまうのは春信の癖だ。宿より先に見つけた店先に、誘うように絵本が開いて置かれていた。それに目がすい寄せられる。
「
見てすぐにそれとわかった。やはり祐信の絵が
この絵は初めて見る。ということは一番新しい絵本なのだろう。
あと一冊だ。
店の者に声をかけようとしたところで、横から伸びてきた手に持っていかれた。
「あ……」
こっちが先だと言いかけて腰の二本差しに気がつく。
「
それは自分が言いたかったと春信は身悶えながら声にならない悲鳴をあげた。絵本を手にした侍の声が弾んでいるのが悔しい。
「毎度おおきに。
「馬鹿を申せ、師匠の本を店頭で買わずしてなにが弟子ぞ」
完売したことで評判が上がるだろうと侍は豪快に笑った。つられて番頭も笑い声を上げる。
あっという間に好きな絵師の本が
ため息が出た。胸の空気を全部出しきるような長い長いため息だった。
出版されるのを待っていたのはあの侍も同じ気持ちだったろう。それはわかる。わかるのだが。
相手がお武家では仕方がないと自分の心に言い聞かせ、やはりどうにも諦めきれず春信は番頭に問うた。
「売り切れですか……もうあの本は入らないのですか」
「
「西川祐信がいいんです。江戸への
「そら残念どしたなあ、もう少しお早く
肩を落として本屋を出た。
京での一歩目から
「
ここはひとつ自分もご
坂を登ると崖っぷちに建つ寺が見えてくる。
振り向くと張り出しの舞台からの絶景が目に飛び込んでくる。遠くに京の町並みがことごとく見え、近くに
無心に筆を動かす春信の横を人々が通り過ぎていく。京の風景を描きとめる者など珍しくもないのだろう。
画帖には大坂との境に連なる山々が描かれ、その手前に人々の暮らしが息づいている。見下ろせば
ふと気がつくと見知らぬ娘が手元をのぞき込んでいた。
「あんたはんも絵描きなん?」
画帖から目を上げた娘が
「なんだい、なにか用かい」
歳の頃は
「絵描きなんてやめといたがええよ。
「なんだって?」
とてつもなく理不尽なことを言われているのだが、春信にとってはあながち間違いでもない。それだけに返す言葉が出てこない。
「わたしは絶対に好いた男の人と幸せな暮らしをするんや。観音さんにお願いしたんえ」
「あの、お嬢ちゃん? ちょいと話がわからないんだがね」
むっとした顔で娘が舞台の端に寄った。
言ってしまえば、行きずりに
「もう少しあたしに話をしておくれよ。お嬢ちゃんは胸のうちに何か押し込めてるものがあるんだろ。それを話してはくれないかねえ」
「ちゃんと聞いてくれはる?」
「もちろんさ」
ふりかかったのは観音様のご加護か災難か。娘は美人だが厄介事の気配がする。それをおくびにも出さず春信は笑顔を作った。
「お父はん、わたしに一番弟子を
そこから娘は延々と
要するに婿取りを押しつけられている今の状況が気に入らない。自分の意思が介在しないのは面白くない。そういうことらしい。話の中から大事に育てられてきただろう娘と家族の様子が見えてくる。
「そりゃあ大変だねえ。お嬢ちゃんはそのお弟子さんが好きじゃあないのかい」
「ずうっと一緒やから
そう言って頬をふくらませた娘は続きを始めた。しばらくして春信がその一番弟子を知り合いのように思えてきた頃、ようやく話を終えた娘は大きく息を吐いてから微笑んだ。
「
「お嬢ちゃんの気持ちが晴れたんならよかったよ」
春信は疲れた笑顔を娘に向けた。
同じ絵描きだったから愚痴を言う相手に選ばれた。そういうことだったらしい。清水寺の観音様はご利益より先に試練を与えてくださったようだ。
「お嬢ちゃん、代わりと言っちゃあなんだが、ちょいと教えてほしいことがあるんだよ」
春信は振り分けの荷物を取り上げて肩に負いながら切り出した。
「実は探してる人がいてさ。京に来たばかりだから……」
顔を向けるといるはずの娘がそこにいない。おや、と見回すと娘は
「お嬢ちゃん!? なにしてんだい! 危ないからこっちに戻りな」
「わたし、観音さんに願かけしてん。清水の舞台から飛び降りたら願いが叶うんよ」
「は?」
思わず間抜けな声が出た。
張り出しの
えいっと声をかけた娘の姿がふわりと空に浮いた。
「ちょっと待てえええ!」
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