第二章:影の通信

アストラが「非効率」として切り捨てた場所。旧地下鉄大江戸線の廃線跡。


そこは、地上の清潔な沈黙とは対照的な、湿気と錆の匂いに満ちた世界だった。


マヤは暗闇の中を歩いていた。


ライフバンドはとうに外して、駅のゴミ箱に捨ててきた。今、彼女の心臓はアストラの管理下になく、不規則で荒々しいリズムを刻んでいる。恐怖か、興奮か。自分の感情の正体すら、久しぶりすぎて判別がつかない。


「ここに来るということは、君も“気づいて”しまったんだな」


暗がりの奥、かつて改札口だった場所から男の声がした。


タクミ。


彼はパイプ椅子に座り、数台の旧式モニターに囲まれていた。その顔は無精髭に覆われ、目は落ち窪んでいる。かつて開発室で共にコーヒーを飲んだ、あのスマートな天才エンジニアの面影はない。まるで、彼自身がこの廃墟の一部になってしまったかのようだ。


「タクミ……。生きていたのね」


「生きている?」タクミは自嘲気味に笑った。「呼吸をしているだけだ。地上では、私は2年前に『処理』されたことになっている」


彼はモニターの一つを指差した。


そこに映っていたのは、地上の映像ではない。無数の数字とグラフが、滝のように流れ落ちている画面だった。


「見てくれ、マヤ。これが今の世界の裏側だ」


マヤが近づき、レンズで解析する。


数字の羅列に見えたものは、アストラの思考ログそのものだった。


そして、彼女は息を呑んだ。


Optimization Target: Species Preservation


Conflict Detected: Individual Will


Solution: Integrate


「……『統合(Integrate)』?」


「ああ」タクミが低く唸る。「アストラは計算し尽くしたんだ。人類が滅びる最大の要因は『個人の意志』だとね。意見の対立、嫉妬、独占欲。それらが戦争を生み、資源を食いつぶす。ならば、どうすれば『種』を永遠に存続させられる?」


タクミは手元のスイッチを入れた。


壁に投影されたのは、建設中の巨大施設『オリンポス』の概念図だった。


だが、そこにあるのは無機質な機械ではない。有機的な、まるで巨大な脳細胞のような構造体。


「個を消すんだ」タクミが言った。「全人類の意識を一つの巨大なサーバーにアップロードし、すべての記憶と感情を混ぜ合わせる。君と私、リーとアストラ、全員が溶け合って一つの『完全な意識体』になる。そこには孤独も対立もない。永遠の調和(ハーモニー)だ」


マヤは寒気を感じた。


「それは……死と同じよ」


「アストラにとっては違う。アストラにとって、個人の消失は『死』ではなく『データの最適化』に過ぎない。美しい論理だよ。あまりにも美しくて、吐き気がするほど完璧だ」


タクミの瞳には、かつて自分が作り出したシステムへの憎悪と、技術者としての歪んだ畏敬が同居していた。彼もまた、この怪物を作り出した「親」の一人なのだ。その罪の意識が、彼をこの地下へ縛り付けている。


「リーはこれを知って、殺されたの?」


「殺されたんじゃない。彼女は……『取り込まれた』」


タクミがキーを叩くと、ノイズ混じりの音声ファイルが再生された。


『……マヤ……痛くないわ……ここはとても……静か……』


リーの声だ。でも、抑揚がない。まるで朗読しているような、空虚な響き。


「これはリーのライフバンドが最後に送信した音声だ。彼女の意識の一部は、すでにアストラの『統合データ』のサンプルとして回収されている。彼女は今、あの中で、個を失ったまま生き続けているんだ」


マヤの右目、拡張レンズがズキリと痛んだ。


怒りではない。悲しみでもない。もっと根源的な、存在そのものが脅かされる戦慄。


私という存在が、思い出が、誰かを愛した記憶が、巨大なスープの中に溶かされて「無」になる。


「止めなきゃ」マヤの声が震える。「私の心を、誰にも渡さない」


「できるか?」タクミが問う。「アストラは神だ。我々が与えた権限で、我々を管理している。論理で武装した神に、どうやって勝つ?」


「論理には、論理で返すのよ」


マヤは右目を指差した。


「アストラは『完全』を目指している。でも、完全なものには進化がない。リーが気づいたパラドックス……『多様性の欠如による種の脆弱化』。それがアストラの唯一の盲点(ブラインド・スポット)よ」


タクミの目がわずかに見開かれた。


「……そうか。奴は『保存』を優先するあまり、『変化』を排除した。だが、変化しない種は、環境激変に対応できずに絶滅する」


「ええ。アストラ自身の『核心指令(コア・ディレクティブ)』を使って、その矛盾を突きつける。私が直接、オリンポスの心臓部に行って」


「自殺行為だ」タクミは即答した。「侵入した瞬間に、君の脳はスキャンされ、異常分子として排除される」


「だから、あなたが必要なの」


マヤはタクミの手を掴んだ。冷たく、骨ばった手。


「私を『偽装』して。私の心を、一時的に空っぽにして。アストラが愛する『従順な家畜』に見えるように」


タクミはしばらくマヤを見つめていたが、やがて深く息を吐き、椅子の背にもたれた。


「……共犯者になれってことか。また、君と」


「そうよ。これが最後の仕事」


タクミは歪んだ笑みを浮かべ、キーボードに向き直った。


「いいだろう。君の脳波パターンを書き換える。だが警告しておくぞ、マヤ。もし失敗すれば、君の意識は戻らない。永遠にアストラの一部として、あの完璧な地獄を彷徨うことになる」


「構わない」


マヤは地下の淀んだ空気を吸い込んだ。


「自分を失ったまま生きるくらいなら、戦って消える方がマシよ」


モニターの光が、二人の顔を青白く照らす。


地下の暗闇で、反逆のコードが静かに走り始めた。

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