無を描く

異端者

『無を描く』本文

 午後の公園に、子どもたちが遊んでいた。

 遊具を使ったり、走り回ったりしている。

 若く長髪を後ろでまとめた男性――私は、その様子をベンチでぼんやりと見つめた。


「『無』を描いてください」


 それが、依頼された絵の条件だった。

 最初、意味が分からなかった。

「無……ですか?」

「はい。あなたは、依頼すればどんな絵でも描いてくださると聞きました」

 アトリエに現れた依頼主からの使いだと称した女性は、淡々とそう言った。

「確かに、私はご依頼いただいた絵を描きますが……無?」

「そうです。無を描いていただきたいのです」

 陶器のような肌のどこか冷たい印象の女性は、確かにそう告げた。

「それは……どういう……」

「解釈はあなたにお任せします」

 これで終わりと言わんばかりで、取り付く島もなかった。


 無とは……何を描けばいいのだろう?

 目の前では、子どもたちがふざけ合って笑っている。

 こうして、真昼間に公園のベンチに座って見ている私はどう見えるだろうか?

 きっと、知らない人間から見たら暇な無職に見えるだろう。

 しかし、私の頭の中では「無」という題材が延々と回り続けている。

 いっそのこと、何も描かない真っ白なキャンバスを渡すか?

 いや、それで代金を受け取るなど詐欺だ。童話の裸の王様と大差ない。

 それなら、真っ黒に塗りつぶすか……これも、違う気がする。

 黒というのは、確かに「無」を連想させる。だが、それなら私に依頼した意味は?

 そうだ。真っ黒のキャンバスなど、素人でも描ける。わざわざ金を払って、依頼する必要性がない。

 日は少し西に傾きかけていた。

 この時期の日暮れは早い。部屋着のまま出てきたこともあって、日が暮れて寒くなる前に戻るべきだろう。

 しかし、アトリエに戻ったところで、何を描けばいいのか?

 答えは出ない。戻ろうとする足取りは重かった。

 今まで、いろいろなものを描いてきた。風景、静物、人物……どれもが、こうして迷うようなものではなかった。「対象」がはっきりしていた。

 しかし、今回の対象は……形のあるものではなく、抽象的にも表せない。

 怒り、悲しみ、喜び――そういった抽象的なものも描いたことはあったから、形が必須ではない。

 それなら、今回の対象が捉えられないのはなぜなのか?

 無……諸行無常。色即是空。空即是色。禅問答をしている気分になった。

 ひょっとすると、これは画家がする仕事ではないのではないか? 宗教や哲学のたぐいでないのか?

 アトリエに戻ると、何も描かれていないキャンバスに向かった。

 筆は一向に動かなかった。

 やがて日が完全に暮れて、夜が訪れた。

 それでも、照明をつける気にはなれなかった。

 時折車のヘッドライトの光が横切る以外は、明かりのないままに悩み続けた。


 あれから、数日が経った。

 キャンバスには、相変わらず何も描かれていない。

 そんな時、あの女性が訪ねてきた。

「進捗を伺いに参りました」

 彼女は、相変わらず淡々とそう告げた。

 その様子は整った顔立ちと相まって人形のようだ。

 私は、ひょっとして異世界の人形の依頼を受けてしまったのではないか――そんな錯覚が頭をよぎった。

「すみません……まだ、何も……」

 私は力なく言った。

 情けないとは思ったが、正直に話すほかなかった。

「そうですか、あなたも……」

 彼女の顔が少しくもったような気がした。

「あなた『も』?」

 私はその言葉が引っ掛かった。

「はい。同様の依頼を他の方にもしています」

 臆した様子もなく言った。

「他にも『無』を描かせているんですか?」

「はい。望む『無』を本当に描けるか分からない、と」

 私は少し裏切られた気分になった。

 私だけが期待されているのではなかった。私は数ある弾に過ぎなかったのだ……そう思うと、急に卑屈な気分になった。

 その一方で、私はやはり自分は特別だと思いたいのだな、と改めて自覚した。

「依頼主に、直接会わせていただけませんか?」

 私は平静を装うとそう言った。

「なぜですか?」

「依頼主に、直接その意図を聞きたいのです」

 その言葉に、彼女は少し躊躇ためらったように見えた。

「……分かりました。しかし、長時間の面会は難しいと思いますが」

「構いません。少しだけ、聞きたいことがあるだけですから」


 三日後、私は黒塗りの高級車の後部座席に座っていた。

 車は安全運転で進んでいく。

 迎えに伺うから、準備しておくようにとの連絡があって少し後のことだった。

 隣には、あの女性が座っていた。

「先に申し上げましたが、長い時間は話せませんよ」

 釘を刺すように言った。

「それで結構です。ほんの少しで……」

 これから向かうのは、病院だった。

 聞いたことには、依頼主は入院中、それも余命わずかの富豪だった。

 最期に、自分の望むものが見たいと依頼してきたとのことだった。

 それにしても、最期に見たいものが「無」とは……何を望んでのことだろうか?

 車は滑らかな動きでカーブを曲がった。

「もうすぐ、着きます」

 彼女はそう告げた。


 病院は、まだ新しい立派な建物に見えた。もっとも、古い建物をリフォームした可能性もあるが。

 私は彼女と一緒に車を降りると、病院の一室に通された。

 そこは個室の病室で広々としていたが、その多くを占拠するように置かれた医療機器が痛々しく感じた。

 彼女は、ベッドに横になっている老人に私の来訪を告げた。

 老人は、彼女に支えられながらもなんとか上半身を起こした。

「少しの間だけですよ」

 彼女はそう告げて後ろに下がった。

「なぜ『無』を見たいと思ったのか、その理由を教えてください」

 私は挨拶あいさつ前口上まえこうじょうもなしに、いきなりに本題に入った。

 この老人には、時間がない――そう悟ったからだ。

「死んだ後には、何があると思う?」

 老人は意外にもはっきりとした口調で言った。それでも、その様子はどこか虚勢を張っているように見えた。

「そうですね……天国とか地獄とか……」

「違う」

 一瞬の沈黙。

「無だ。死んだ後には、何も残すことはできない……無だよ」

 彼は天井を見上げたが、その目には何も映っていないように見えた。

「しかし、遺族には何か遺すこともできるのでは……」

 私はたじたじになりながら言った。

「確かに、遺産は残せる。しかし、自分自身には何も残せない」

 朧気おぼろげながら、彼の言いたいことが分かってきた。

「……なるほど、だから『無』が見たい、ですか?」

 その瞬間、私の頭の中に描くべきものがよぎった。

「そうだ。死の後は無……ゲホッ、ゲホ!」

 彼が激しくせき込むと、彼女がそばに駆け寄った。

「すみません……これ以上は……」

「いえ、もう十分です。ありがとうございました」

 私は深々と頭を下げた。

 描くべきものは決まった……あとは、間に合うかどうか、だ。


 それから、私はアトリエまで送られるとキャンバスへと向かった。

 イメージは既にある。それを形にできるかだ。

 私は下書きを始めた。……大丈夫だ。ちゃんと覚えている。

 確かな手ごたえがあった。

 無……自分自身が居なくなった風景。


 私が完成を告げると、その数日後に絵を持ってきてほしいとの言葉があった。

 私は完成したキャンバスを布に包んだ。

 以前と同じように迎えが来て、病室に着くと他に三人の男がキャンバスらしき物を手に持っていた。

 私たちは例の女性に同時に病室へと通された。

「絵を、順に見せてください」

 老人が体を起こすのを手伝ってから、彼女は淡々と言った。

 まず、最初の一人がそうした。イーゼルも無いので手持ちだった。

 そのキャンバスは、真っ黒だった。

「無です。何もない闇。これ以上はないでしょう?」

 男は自信ありげにそう言った。

 隣の男が冷ややかな視線を向けた。そんなもの、誰にでも描ける――そう目で言っていた。

「これは……違うな」

 老人は、静かに告げた。

 例の女性が男に退室を告げた。

 少し揉めたが、依頼の報酬は約束通り支払うと言われると引き下がった。

 次は、さっき視線を向けていた男だった。

 その男の絵も、ほとんどが黒だったが一点だけ違うところがあった。

 片隅に炎が燃えていた。それは小さかったが、存在感があった。

「何も無い闇だからこそ、映える炎。無の奥深しさを表しました」

 自信ありげに、男はそう告げた。

 しかし――

「違うな」

 老人はにべもなく切って捨てた。

「は? これ以上の――」

「お引き取りください」

 彼女がそう言って、部屋から追い出した。

 その次は、私の他に残っている男だった。

「皆さん、難しく考えすぎですよ」

 そう言って掲げたのは、真っ白なキャンバスだった。

「無! そう、だから描かなくても良いんです! 何もないからこその無!」

 男はそう言ったが、

「帰れ」

 老人は期待外ればかりに苛立っているようだった。

 男はあっさりと部屋から出された。まあ、軽そうな男だったから、あれで報酬がもらえるならと喜んだかもしれない。

「さて、最後は君か……以前に会ったな」

「はい、以前伺いました」

 私はキャンバスを包んでいた布を解いた。


 そこには、この病室があった。ただ、そこに老人の姿はなかった。無人だった。


「……なぜ、これが無なのかね?」

 老人は尋ねた。

「あなたは、以前におっしゃられましたね……死んだ後には、何も残すことができない、と」

 そこで言葉を区切る。

「だから、あなたにとっての無とは、あなたの居ない世界。居なくなった世界だと思いました……」

 沈黙。

 私は老人の査定を待った。それはとても長い時間のように思えた。

「……素晴らしい」

 老人はぽつりと言った。

「これは、確かに私にとっての『無』だ。他の誰のものでもない」

 老人は満足げに言った。

「これこそが、私の望んでいた光景だ」

 そこまで言うと、老人は前と同じように、いや前以上にせき込みだした。

「ありがとうございました。今日のところはお引き取りください」

 彼女にそれを聞くと、私は絵を置いてその場を後にした。

 終わったのだな――私はアトリエ前まで送られると空を見上げた。

 曇った空からは、雪がぽつりぽつりと降り出していた。

 地表面の温度は低いだろうから、積もりそうだと思った。

 やがて地上は白く染まり、空は黒く染まるだろう。空白と闇の世界。

 それは、無――とも、言えるかもしれない。

 だが、それはあの老人にとっての「無」ではない。


 あの老人が亡くなったと聞かされた。

 あの絵は、老人宅の広間に飾られるそうだ。

 タイトルは『無』――その意味を、どれだけの人が知るだろう。

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