第3話 vsストレス


 深層世界に黒い霧が満ちていく。


 泣いた翌日の心は、昨日より冷たく、昨日より静かだった。



 コルチゾール将軍が口を開く。

 


「まったくお前たちは勘違いしている。俺は“害”ではない。」


 交感神経シンパスが舌打ちする。


「笑わせんなよ。てめぇはストレスホルモン。

 過剰になりゃ主は動けなくなる。」


 将軍はゆっくり首を振った。


「過剰にしたのは誰だ?」


 沈黙が走る。


 パラスが小さな声で言う。「それは……。」


 将軍は続けた。


「お前だろう、シンパス。

 働け、走れ、守れ。自分を後回しにしろ。お前は主にそう言い続けた。」


 シンパスは剣を握り直す。それは怒りではなく、図星を刺された痛みだった。


 将軍は主の影の前に立つ。


「そして、お前もだ。」


 影はおびえたように顔を上げる。

「お、俺……?」


「お前は“責任”という名の神を作った。

 守らなければならない。やらなければならない。迷惑をかけてはいけない。弱音を言ってはいけない。」


 将軍の声は淡々としていた。責めているのではなく、事実を読み上げているだけのようだった。

 彼の軍勢は皆、言葉に耳を傾けた。


「その神を壊さない限り、俺たちは永遠に増殖する。」


 主の影は痛む胸を押さえた。

「……俺は、そんなつもりじゃ。」


「だが結果はそうなっている。」

 コルチゾール将軍はしゃがみ込み、影を見つめた。


「お前が抱えてきた“責任の総量”を、身体のどこが受け止めていると思う?」


 影は答えられなかった。


「すべて……“心臓”だ。」

 


 深層世界が揺れる。



 副交感神経パラスが問う。

「あなたは……私たちの敵ではないと言うのですか?」


「敵ではない。生存のための“古い友人”だ。」


 シンパスが眉をひそめた。

「は?……物は言いようだな。」

 


「太古の時代だ。人間よりさらに昔の、獣や竜の時代にまで遡る。

 飢餓やより強い外敵、凍えるような寒さ。生物達は生き延びるに緊張と警戒が必要だった。……そこで作られたのが、俺、コルチゾールだ。」

 


 シンパスとパラスは息をのむ。



「俺は“生き延びるための警告装置”。あまりにも重い現実を前にした時、身体にこう告げる役目なんだ。」

 


 “これ以上は無理だ”

 


 “限界を超えている”



 “このままでは死ぬ”



 主の影は震えるような寒さに身震いした。


「じゃあ……なんで俺は、死にそうなくらい苦しいのにまだ動いているんだ……?」


 将軍は静かに答えた。

 


「それはお前が、“死ぬほど苦しいという自覚”を許していないからだ。」



 影の胸にひびが入るような音がした。



 迷走神経ネーヴァが歩み出る。


「コルチゾールよ。お前が危険なのは“量”の問題だ。少量なら命を救う。……だが多すぎれば主を壊す。」


「その通りだ。俺は本来、“逃げろ”という合図なんだ。」


 主の影が問う。

「逃げる……?でも俺は逃げられない。家事も、介護も、仕事もだ。誰も俺の代わりがいない……。」


 コルチゾール将軍は冷たい手で影の肩に触れた。


「逃げられないのではない。“逃げてはいけない”とお前自身が決めているだけだ。」


「俺は……。逃げたら全部崩れてしまう!!」


「崩れればいい。」


「は?」


 パラスが静かに言う。

「あなた……当の主に向かって何を言って。」


 将軍は深く、深く息を吐いた。

「崩れるものは、すでに壊れている。」


 赤黒い深層に、沈黙が駆け抜けた。



 シンパスも、パラスも、ネーヴァも、大事な事を突きつけられたような痛みが走る。



 シンパスが初めて、静かな声で問いかけた。

「……じゃあ、強さって何なんだ。俺は主に強くあってほしいと思ってる。」


 コルチゾール将軍は目を見開き、強い語感で答えた。


「強さとは“折れないこと”ではない。“折れたと認めること”だ。」


 主の影の胸はどくんどくん、と波打った。早く、そして強く。


「俺は、折れてもいいのか……?」


 ネーヴァが影の背に手を置いた。


「折れていい。また別の方向を向けばいい。折れなければ、ずっと同じ痛みに晒され続けるだけ。」


 パラスが微笑む。

「休息は……折れたことを認める勇気です。」


 シンパスも剣を下ろし、ぽつりと言った。

「……折れたことを認めるのが強さなら、主はずっと前から強ぇよ。」


  


「あ、あ、ああああああああぁぁぁ!!」

 主の影の、目のない顔からポロポロと涙が零れた。


 


 コルチゾール将軍は手をかざした。彼のストレス軍勢と共に黒の霧が静かに引いていく。


「俺はコルチゾール。ストレスは消えない。消える事はない。だが、増えすぎなければ害にはならない。お前たちが調整するなら、……今日は退く。」


 ネーヴァが頷く。

「協力しよう。ストレス軍勢。主が死なないために。」


 コルチゾール将軍は最後に……。

「忘れるな。お前が苦しむのは、弱いからではない。“生きる責任を一人で抱えているからだ”。

 その責任を……少し手放せ。俺達ストレスを増やさない為に。“生きる為に”。」


 主の影は小さく頷いた。


 そして黒の軍勢は、深層の闇へと静かに引いていった。

 

 深層世界は、ただ静かに脈を打っていた。


 平坦に。

 

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神経論争 Sympathy vs Parasophy 藤寝子 @chelsea2323

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