第2話 コルチゾール軍勢ストレス論争



 男は、浅い眠りから目を覚ました。

 夜は中途覚醒が多く、ここ1年、熟睡などできた試しがない。

 


 深呼吸を一つ。

 2秒吸い込み、8秒かけてゆっくり吐き出す。胸の膨らみがゆっくり落ちていく様が少しだけ心地よかった。

  

 昨日よりは少しだけ軽い。だが、体の奥にはまだじんわりと重い影が残る。


 男はまた一日を始めるため、静かに立ち上がった。


 その時。


 深層世界の底で、黒い何かがうごめく気がした。




 ──心の、奥の、さらに奥底。



 

 昨日閉じたはずの胸の奥あたりが、微かに痛み出した。

 ゆっくりと、黒い何かが広がり始める。

 


 重く沈む気配に男の不安が波を打つ。今日のタスクを考えただけで、足がすくむ。

 男はソファに勢いよく沈んでいった。

 


 それは“存在するだけで疲労を増幅させる”。


 いわゆる、“ストレス”。

 


 深層世界に、影のような兵が這い上がってくる。何人だ?10、20、いや、その数は50にも及んだ。



 頭巾をかぶり、鎖のような腕。黒い霧をまとい、

息を吐くたびに周囲が重く沈む。赤黒い世界が、黒一色に染まり始める。


 その中心に、一人の指揮官が立っていた。

 


 コルチゾール将軍ラスト•ストレス

 


 骸骨のような細身の真っ白な身体に、深い黒の外套を羽織っている。目は濁り、死んだ魚のようだ。乾いた砂のように低い声。


「また会ったな。シンパス。くっくっく。

 ……昨夜、男の涙が落ちた。何か言い争いをしていたようだが?

 それでお前らは和解したつもりなのか。」


「えぇ。迷走神経ネーヴァの仲裁で。我々のバランスによって男は生きている。」

 パラスは淡々と答えた。


 コルチゾール将軍は暗い笑みを浮かべる。

「甘いな。やはり貴様ら神経は糖質より甘い。涙は安堵でも浄化でもないのだ。

 “ストレスの証拠”だ。」


 

 背後の黒の軍勢が、一斉に足を踏みならした。

 赤黒い床は揺れ、パラスとシンパスは片膝を付いた。



 シンパスが剣を抜く。その剣先と動きは、昨日より鋭かった。


「てめぇ、ラスト•ストレス。

 ……どの面下げて出てきやがった。てめぇらのような邪魔者が主に影響を与えてやがる。お前らが増えれば増えるほど、この心臓のみならず、臓器連中の動きを鈍らせる。」


 コルチゾール将軍は薄く笑った。


「お前が最も呼び寄せたんだぞ、シンパス。

 過緊張は我々にとって最高の呼び水だからな。」


 シンパスのこめかみに青筋が浮く。


「黙れ。俺は主を守るためにやってるんだ。

 てめぇらみたいな“破壊するだけの軍勢”と一緒にすんじゃねぇ。」


 黒の軍勢が一斉に笑い声をあげた。乾いた、空っぽの笑いがとどろいた。


「……守る?

 守るために走らせ、守るために戦わせ、ついでに主を追い詰めてきたのはどこの誰だ?お前じゃないのか?交感神経シンパス。」


 シンパスの目が光る。

 


 ……だめだ。一歩でも踏み出せば戦争になる。



 パラスが杖を突き、二人の間に薄い光の膜を張る。


「やめなさい、シンパス。

 彼らは“戦いそのものが目的”の軍勢です。」


 コルチゾール将軍は肩をすくめる。


「違うな。我々の目的は“増殖”にある。主のストレスが増えれば、俺たちはさらに強くなる。

 ……昨日の涙は最高の栄養だった。」


 パラスは静かに言った。


「あなたたちは、増え続ければ主を殺す事になりますよ。」


「殺しはしない。」

 将軍は不気味に、そして穏やかに微笑んだ。

「……動けなくなる程度には追い込むがな。」

 


 それは精神的な死とほとんど同義だ。



 昨日に引き続き、男の“心臓の影”が現れた。昨日よりも黒の色が濃い。

 涙の跡が影の胸に染みついていた。


「……来るな……。

 もう十分……重いんだ……。」


 コルチゾール将軍は影の前に歩み寄り、顔を覗き込んだ。


「お前は優しいな。だからこそ、俺たちは増えるというのに。」


 黒い指が影の頬に触れた。

 影の体がびくりと痙攣する。

 


「責任。義務。罪悪感。後悔。孤独。」

 


 ロードはひとつひとつを数えるように、影のぼんやりとした輪郭をなぞった。


「それらは全部……栄養だ。」


 影が苦しげに胸を押さえる。


 


「やめろ……。もう……やめてくれ……。」

 



 深層が震え、灰色の風が吹く。


 迷走神経ネーヴァが現れた。


「……またか。

 やっかいなものが起きたな。」


 コルチゾール将軍の薄笑い。


「調整者よ。お前がどれだけ整えようと、俺たちは消えない。主の生活がある限り。」


 ネーヴァは黙って影に寄り添う。


「コルチゾールを完全に消すことはできない。

 だが、広がりすぎれば身体が壊れる。なぁ、今日の量は……危険域なんだ。」


 コルチゾール将軍の目が細くなる。


「危険?

 主は今日も、家事も介護も仕事も背負って起き上がった。その時点で、俺の勝ちのようだ。」


 シンパスは剣を構えた。


 パラスは杖を握りしめた。


 そしてネーヴァが息を整えた。


 黒の軍勢が一斉にうねりを上げた。


 深層世界は今まさに


 黒の侵略戦争に突入しようとしていた。

 

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