あなたと同じ景色を
*桜花*
どうしても目で追ってしまう人
私には、気になる人がいる。
話したことすらないけれど、どうしても目で追ってしまう人が。
今年の春、私が高校に入学してすぐのこと。
運動場の隅で一人、高跳びの練習をしている彼を見つけた。
リズミカルな助走から跳ぶ直前の足のバネ、そして高く空を仰ぐジャンプ、そのままマットに落ちるまで、すべての動きが美しく見えた。
放課後になると、彼は毎日、いつもの場所で練習している。
何度バーを落としても、めげることなく練習を続ける姿に、いつしか私も、彼が跳べたら嬉しいし、失敗したら悔しい気持ちになっていた。
たまにマットの上で仰向けになり、ぼんやりと空を見ていることがある。
練習中の真剣な表情と、ぼんやりしている時のギャップで、胸がときめく。
私は、彼から目が離せなくなってしまった。
私も、彼と同じ景色が見たい。
思い切って、陸上部に入ってしまおうか──。
でも、体育の成績が2の私が入ったところで、どうなるというの。
どうすれば、彼に近付けるのだろう。
──そうだ、一番近くで応援できる、観客になろう。
考えた末に、私は園芸部に入った。
運動場の周囲にある花壇の世話をすれば、自然にそこにいられると思って。
安直だと思うでしょう?
でも、私は植物も好きだから、不純な動機だけではないの。
校内にはいくつもの花壇があって、部員で交代しながら担当する。
だけど、彼の練習場所近くの花壇だけは、私が死守した。
この花壇だけは、どうしても私がやりたい。
他の部員にとっては、意味のわからないだろう私のわがままで、ここに『私だけの花壇』ができた。
他の花壇は手早く済ませ、彼が来る前に『私だけの花壇』にスタンバイする。
本当は園芸部の活動は週3日だけれど、この特等席には、毎日通うことにしている。
園芸部のみんなには「そこの花壇、好きすぎるよね」って笑われるけど、好きなのは、お花だけではないから。
毎日通っていると、陸上部の流れがわかってきた。
部員全員で準備運動と走り込みをした後、各々が自分の競技を練習する。
うちの陸上部は短距離か長距離が大半で、高跳びをするのは彼一人。
高跳びのマットは、天気が良ければ外に出したまま。
でも、天気が悪い日には倉庫にしまう。
梅雨に差し掛かる頃には、天気の変化でマットの出し入れが頻回になった。
空を埋め尽くすどんよりと重たい雲が、ポツリポツリと雫を落とす。
「……やべっ」
いつもならマットの移動を他種目の部員が手伝うけれど、今日は校外を走っていて、その場に誰もいなかった。
「手伝います!」
自分から先輩に話しかけるなんて想像もしてなかったのに、体が勝手に動いていた。
「悪い、ありがと」
二人で運ぶには重かったが、本降りになる前になんとか倉庫に移動できた。
「ごめんね。制服、汚れたよね」
園芸部は、特に体操服に着替えたりはしない。
砂まみれのマットを運んだせいで、制服がほこりっぽく汚れていた。
先輩の役に立てるなら、制服が汚れたって構わない。
でも、汚れた身なりを見られるのは、恥ずかしい。
「わっ、本当だ。お見苦しいところをお見せして、すみません!」
慌てて砂を払う私を、先輩がキョトンとした顔で見つめ、そして笑い出した。
「見苦しいとか思うわけないじゃん。手伝ってくれたのに」
先輩がこんなふうに笑う顔を、初めて見た。
なんでこんなに嬉しくて、胸が躍るのだろう。
──やっぱり私、先輩のことが好き。
つい赤面してしまう自分を自覚する。
「あのっ!私、1年A組の高宮
我ながら、変な自己紹介をしてしまったものだと思う。
先輩は、笑顔のまま答える。
「じゃあ、その時は頼むね。でも、制服が汚れるから、無理はしなくていいよ。俺は、2年C組の天野
──知っています。もう、とっくに。
「お任せください、天野先輩!」
梅雨のどんより雲なんて大嫌いだったのに、今の私には、空からの嬉しい贈り物のように思えた。
──しかし、現実は、そう上手くはいかないもので。
雨降りチャンスが巡ってきても、他の陸上部員がいたら手伝うことはできない。
それが、もどかしく、寂しかった。
梅雨が本格化すると、屋外での部活動そのものができなくなった。
素敵な贈り物のように思っていた梅雨雲が、今では、迷惑な押し売りのように感じられる。
「先輩、今どこで練習しているのかな……」
校内のどこにいても、先輩を探してしまう。
学年が違うのだから、会えることなんてほとんどないのに。
そこにいてくれさえすれば、見つけられる自信はあるのにーー。
──梅雨の晴れ間。
やっと先輩に会える!
室内練習にうんざりしていた運動部員たちが、待っていましたと言わんばかりに屋外に散っていく。
長距離、短距離部員も、校外に走り込みに行ってしまった。
今日は、思い切って、差し入れをしてみよう。
自販機で買った、ただのスポーツドリンクだけど。
「天野先輩、お疲れ様です。これ、よかったらどうぞ」
「あ、久しぶりだね。いいの?ありがとう」
今日はジメジメしていて、蒸し暑い。
汗を滲ませ、スポドリを飲む先輩の横顔が、どうしようもなくかっこいい。
「今日も花壇の世話?暑いのに大変だね」
「いえ、好きでやっていることですから」
──先輩のことも、好きです。
「私、体育が全然ダメで。先輩が軽々と跳んでるのを見ると、すごいなって思います」
「ははっ、そんなに凄くはないよ」
先輩は笑いながらも、どこか複雑そうな表情で、空を見上げた。
「俺ね、練習してる割に、なかなか自己新が出なくてさ。行き詰まってるとこなんだ」
先輩が見上げる視線の先には、重苦しい雲が広がっている。
まるで、心を映しているかのように。
運動で努力なんかしたことのない私が「大丈夫です」だなんて、軽々しく言っていいとは思えず、出かかった言葉を飲み込んだ。
その時、鼻先に空から雫が落ちてきた。
「先輩、雨です。片付けないと!」
急に激しく降り出したので、マットを片付けた倉庫で、しばし雨宿りをすることにした。
「はい」
雨に濡れた私に、先輩がタオルを差し出す。
「いえ、私なんかに、もったいないです!」
「何枚かあるから、気にしないで」
「……ありがとうございます」
私は、先輩のタオルで濡れた髪と制服を拭いた。
「……先輩、私、花壇の世話をしている時、いつも先輩が頑張っている姿を見てきました。私は、先輩の努力は実を結ぶと信じています」
これを言うのが、今の私の精いっぱい。
「…ありがとね。なんか、元気出たわ」
くしゃっと笑う先輩の顔を見ると、胸がキュッとなる。
──先輩の力になりたい。
先輩の努力の一かけらにでも、なれたら。
ただの観客で良かったはずなのに、欲張りだなぁ……私。
「……先輩、お手伝いしてもいいって……言ってましたよね?」
それから私は、放課後になると体操服に着替え、『倉庫付近花壇の園芸部員』兼『天野先輩専属の秘密の押しかけマネージャー』になった。
花壇周囲の雑草を抜き、水やりなどの世話をする。
他の陸上部員がいない時には、マット運びやバーの高さ調整も。
「はい、先輩。スポドリどうぞ」
暑いんだから、水分補給も大事。
「……もう、陸上部マネージャーになった方が早くない?」
「いいえ。天野先輩以外のお世話をするつもりはありませんので!……ご迷惑ですか?」
「……いや、別に」
先輩は少し戸惑ったように、でも、どこか照れたように笑った。
先輩が跳べたら嬉しいし、失敗したら悔しい。
一緒に笑って、惜しがってーーそんな毎日は、あっという間に過ぎていく。
いつしか、どんより重たい梅雨雲は、もうどこにもなかった。
先輩がマットに寝転がり、ぼんやりと空を眺めている。
「空、見るの好きなんですか?」
寝転がる先輩を、見下ろした。
「うん。高宮さんも見てみたら?」
先輩が、マットをポンポンと優しく叩く。
「いいんですか?私、陸上部員じゃないですよ?」
「俺専属マネージャーなんでしょ? だったら、いいんじゃない?」
「……それでは、お言葉に甘えて」
先輩の隣に仰向けに寝転がると、少しだけジャリっと砂の感触。
かすかに砂ぼこりの匂いがした。
これが運動部の匂い──
先輩と出会わなければ、一生知らなかったかもしれない。
目の前には、青空が広がっていた。
周りに何もない、ただ青い空と白い雲だけ。
「すごい……空しかない。開放感……」
青い空の下、私たちしかいないみたい。
やっと、先輩と同じ景色を見ることができた気がする。
「俺ね、こうやって空見るのも好きなんだ。季節で違う雲とか、風で流れていく雲を見てるとさ、悩んでたって仕方ないって思えるんだよね……」
「そうですね……」
夏の日差しは強いけれど、マットの弾力が気持ちいい。
「……高宮さん。来月、大会あるんだけど……来る?」
寝転んだマットの上で、先輩と顔を見合わせる。
「いいんですか!? 行きます、絶対行きます!」
嬉しくて、思わずマットから飛び起きた。
「観客席からだと、遠くてよく見えないかもしれないけど……」
「何言ってるんですか。私が先輩を見つけられないわけないです。知らないんですか? 向日葵は、太陽だけを見つめるんですよ?」
得意気に言う私を見て、先輩は笑った。
「ははっ……よし、俺、自己新出すわ」
その笑顔が眩しくて、とても幸せな気持ちになる。
──青い空に白い雲。
花壇に植えた向日葵は、太陽を向いて咲き誇っている。
あなたの向日葵は、あなただけを見つめます。
だから、あなたと同じ景色を、私にも見せてください。
これからも、ずっと。
あなたと同じ景色を *桜花* @Cherry_blossoms3
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