猫医者駿次郎 掌編小説1回読み切り

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第1話

 少女が泣きながら、大磯駿次郎(おおいそ しゅんじろう)の小さな猫診療所に入ってきた。大切なもののように抱きかかえているものは、真っ赤に染まった猫だった。

「猫ちゃんのお医者さんの、ねこしゅんさんですよね」

 少女はしゃくりあげ、声を詰まらせた。

 このご時世に、猫を医者に診せようなどという風潮はなかった。それにもかかわらず、駿次郎は『猫医者』の看板を下げていた。

 大正十二年春、長崎の港を望む松ヶ枝橋近くに、『猫医者 大磯駿次郎』と看板を掲げた。それを誰が言い出したのか、略して「ねこしゅん」と駿次郎は、近隣の人々から呼ばれるようになっていた。

「ええ、猫の病気もケガも治しますよ」

「じゃあ、この猫ちゃんを助けてください」

 少女が両手で差し出した猫は、粗末な布にくるまれて、布まで血だらけだった。大きさから見るに、成猫のようだった。

 驚いた内心を顔に出さず、ねこしゅんは診察台に乗せ、観察すると、二寸(約6.06センチメートル)ほどの傷が三か所確認できた。

「どうしてこうなったとね?」

 咎めるわけでなく、優しく長崎弁で事情を聴いた。

「道端に倒れとったと」

「ふーん」

 腑に落ちなかったが、ねこしゅんはまずは血を止めなくてはならないと考えた。止血をしていると、

「もし死んじゃったら、ねこしゅんさんを恨むけんね」

 と少女が驚くようなことを口にした。

「大丈夫大丈夫」

 と言いながらも、内心は震えており、確たる根拠はなかった。すでにかなりの出血をしており、今残っている血液だけで生命が保てるかは、猫の生命力に頼るしかなかった。

 止血をしながら、傷の縫合にも取り掛かった。見る限り明らかに、刃物で斬られたことは間違いなかった。

 となると人間がやったに違いない。

 そんなことを考えながら、およそ四時間立ったまま、手術で格闘した。

 猫は手術前にした麻酔のせいで眠ったままだった。ねこしゅんは全身の汗を拭いた。そして少女もまた、ずっと四時間そばを離れなかった。

「もう大丈夫だ」

「本当?」

 少女はけげんな顔をしていた。ねこしゅんは、確信を持って笑顔で答えた。少女も釣られるように、笑顔を見せた。

「けど、どうしてこうなったと?」

 改めてのねこしゅんの質問に、少女の笑みは嘘のように引っ込んだ。

「わからない。私が通ったら、猫ちゃんがもうあんなになっとった」

「あれは刃物で斬られた傷だよ。人がやったに違いない」

 少女は暗い表情でしばらく考え込むようにしてから、

「うちのおっかあが言いよったバイ。最近、猫の死骸をよく見かけるって」

 と、おっかなそうに話した。

「それはどのあたりね?」

「大浦のずっと上のほう。この猫ちゃんを見つけた所も、そこの先の出雲町の電停から、少し上に上がったとこ」

 ねこしゅんの頭に、一瞬だけ警察に相談することがよぎった。だが、猫の傷害事件に警察が腰を上げるとは思えなかった。犯人を逮捕するには、警察の力を借りるしかないのはわかっていても、今の警察ではできない相談だろう。

「誰か悪い人がやったと?」

 おずおずと少女が訊いてきた。

「残念だけど、その可能性が一番高いと思うとるよ」

 事件に少女を巻き込みたくない一心から、あまり口にしたくなかったが、そう言わざるを得なかった。

「やったら、犯人捕まえて! こんなひどいことする犯人を捕まえて、ねこしゅんさん!」

 怒りもあらわにせがまれた。

 どうしたものやら困ったが、

「必ずひっ捕らえてみせるけん、心配せんで良かよ」

 と、言わないで他に何と言えばいいだろうか。


 翌日、少女が猫を発見したという場所を見に行った。警察に頼れない以上、自分が探偵にでもならないといけないという気負いを持った。ただ、相棒はいた。

 二宮松之助((にのみやまつのすけ)という、普段は人力車の人夫をしている幼なじみだ。

「猫医者が今度は猫探偵か、おもしろいな、ハハハ……」

「笑っている場合じゃねえよ。こっちは本気の本気なんだぜ」

 ねこしゅんは、度の過ぎる冗談につい、獣医学を学んだ帝国大学のある東京ことばが出た。

「まあ、帝大卒業の学士様じゃったら、簡単に見つかるじゃろう」

 あまりの楽観的な言い方に、事態を深刻に受け止めているとのか、と罵倒してやりたくなった。その気持ちが顔に出たのか、松之助を見ると、

「おいおい、そんなに睨まんで良かたい。ちょっと俺も言いすぎた」

 と慌てたそぶりを見せた。

 この場所は細い石段が続く路地で、乱雑に家屋が密集していた。雑草は石を突き破るように至る所に生えており、誰かが手入れしないと、すぐに草に覆われて通れなくなりそうだった。

 遠くには赤ん坊の泣き声も聞こえ、生活臭の漂う、長崎の下町の一角だった。

「ならいいけど」

 松之助に対して、吐き捨てるように言うと、「実況見分」に入った。

 猫のものと思われる血が土に付着していた。あれからまだ一日しかたっていない。雨も降っていないから、残っているのが当然とも言えた。

 地面に手をついて這うように手掛かりを求めたが、何も見つからなかった。

「どうやらここで襲われて、逃げる体力もなくしたようだ」

「どうしてわかるとね?」

 問われたねこしゅんは地面のある地点を指さした。

「ここに血の飛沫がある。よく見てごらん? 見えるだろう? この飛沫は刃物が猫を斬りつけたときに飛んでできたものだ。それ以外周囲、二丈(約6メートル)ほどを見渡しても、血は全く見られない。つまり、いきなりここでやられたか、それともここまで逃げてきたが襲われて、一気に瀕死の状態にまで傷つけられたというわけよ」

「なるほどねぇ」

 松之助はそれほど感心した様子は見せなかった。それもそのはず、ねこしゅんでさえ、このくらいのことは、探偵でなくても、ド素人でも思い浮かぶであろう推理だと思ったからだ。推理、という言葉を使うのも憚られるほどだ。

「で、どうするとね? 犯人はわかったと?」

「これだけでわかると思うかい?」

 ねこしゅんは、聞くだけ野暮だとはっきり顔に示した。

 石段を登り始めた。

「どこへ行くんだ」

「聞き込みだよ」

 ねこしゅんは一番近い家から、順々に事情を尋ねていった。

「最近この辺で、猫がよく殺されよるって聞いたとですけど、何か知りませんか」

 どこの家でも、その質問から始めた。

「あんた、誰ね?」

 と不審者扱いされれば、戸惑うことなく「猫医者」の職業を名乗った。ケガした猫を治す医者だ。名乗れば、こういう事案の真相を探ろうとしても、特に怪しまれなかった。

 十数件聞いて回るうちに、少女が言っていた、猫がよく殺されているというのは、事実らしいと判明した。

 ほかにも有力な情報が、少しばかり得られた。ある腰の曲がった老婆はこう話した。

「夜中に井戸に行きよったら、こまあか男が息をハアハア吐きながら、うろうろまわりよって、何しよっとじゃろかいって思うた」

 こまあか男、つまり小さな男の不審者を見たというのだ。

 他にも、背中に赤ん坊を背負った女性は、こう言った。

「寝とったら、急に獣の悲鳴が聞こえたけん、びっくりして外を見たら、男が走り去っていったとよ。行ってしまってから、外に出たら、猫が死んどって。ああ、あの男がやったとばいねって、ひどいことするねえ」

 彼女が見た男もやはり、小男だった。

「どんな格好だったか」

 という質問には、老婆も女性も、

「暗くてほとんど見えなかった」

 と同じ答えだった。


「あのあたりの小男を探せば、すぐ見つかるやろ」

 ねこしゅんの診療所で、松之助はいつもの楽観的発言をした。ねこしゅんもそう思っていた。

 三十件以上尋ねまわり、時折、他の猫が死んでいたという場所も観察したため、二人とも足が痛くてしようがなかった。何しろ平坦な土地ではない。入り組んだ石段を上ったり下りたりと、普段ほとんど体を動かさないねこしゅんには、重労働だった。

 毎日人力車を引く松之助でさえ、今日の行動は堪えたようだ。

 陽も沈み、時計は八時を指そうとしていた。

「あとは該当人物を見つけ出すだけだが、この脚ではいかんともしがたい」

 痛む足をさすりながら、ねこしゅんは顔をしかめた。

「ほんとや。あと一歩なんやけど。それに俺、明日は仕事やし。この脚で大丈夫やろうか」

「無理に付いてこんでもよかったとに」

 松之助は恨み節の一つも言いたかったが、自分が好きで同行した以上、文句の言える筋合いはなかった。

「まっちゃん、ここで休んでも寝るとこなかよ。明日のために、もう家に帰らんね。仕事に差し障る」

 ねこしゅんの言葉に、松之助が「ヨッこらせ」と痛みをこらえて立ち上がろうとしたとき、診療所の閉めた雨戸を激しくたたく音がした。

「なんじゃろかい?」

 ねこしゅんが戸口まで行った。

「誰ね? どうしたとね?」

 外からは間髪なく返事が飛んできた。

「ねこしゅんさんかい? あたしだよ、三島だよ」

 すぐ近くに住む三島という四十路の女性だった。付き合いも深く、みそや塩の貸し借りもする仲だ。

 その三島が落ち着きなくしゃべり続けた。

「大浦で、死体が見つかったってよ」

 一瞬、ねこしゅんは「死体」と聞いて猫のそれだと思ってしまった。

「男が死んどるって」

 続けざまにしゃべる三島の発言を聞いて、人間の死体だと、思い至った。

「男?」

 いつの間にか松之助がすぐ横に来て、三島に問いかけた。

 ねこしゅんは、雨戸をあけた。外はいつしか小雨が降っていた。濡れているのも構わず、三島は興奮し切っていた。

「なんね? 事故ね?」

「わからんとよ。今、警察がいっぱい来て調べよる」

 ねこしゅんの問いに三島は、自分が知っていることだけを話した。

「ねこしゅん。行ってみよう」

 松之助が、脚の痛みはどこへやら、ねこしゅんの腕を引いた。

 ねこしゅんと松之助、そして三島の三人は、傘もささずに、現場へ急いだ。出雲町電停から石段を登り、猫が死んでいた場所からすぐ近い家の前まで来ると、警官が立ちはだかり、中へ入れてくれなかった。

 だが、死体ははっきり見えた。夜でしかも小雨模様とはいえ、警察が明かりを煌々とたいていたため、死人の顔つきまで見える有様だった。

「石段から落ちたらしかばい」

 隣のやじ馬の女性が教えてくれた。警官が規制する区域を、ぐるりと野次馬が囲んでいた。場所はやはり家屋の密集した狭い坂になった路地だった。

「おい、ねこしゅん」

 松之助が叫び声をあげた。彼を見ると、死体を指さしていた。

「どうした?」

 ねこしゅんも目を凝らして死体を見つめた。

「あ!」

 思わず声が出た。

 死体の男が刃渡りの長い刃物を握っていたのだ。さらに詳細に観察した。石段から落ちたとみられる男は、濡れる雨の中、そのまま地面に寝かせられていたが、見ただけで体が小さいと判別できた。

 持っている刃物も、ちょうど斬られた猫の傷と合致するほどの刃の太さだった。

「ギャーァァァって、この世の終わりのごとある叫びが聞こえたとよ」

 ねこしゅんの横に立っていた、しわくしゃの顔をした男が、誰にでもなく話した。

「この死んでる男の声だったんだろうが、いくら死の間際といえ、あんな声出せるもんかねぇ」

 腕を組んで独り言のようにつぶやく男を見ながら、ねこしゅんは考えた。

 そして、

「それは猫の声かもしれんですねぇ」

 と、これまた死体に目を向けたまま、独り言のように言った。

「猫の声?」

 松之助が反応した。

 ねこしゅんは、彼に向きなおり、

「天罰が下ったとよ」

 とだけ言って、現場を去った。

 小雨が降る夜道を、ねこしゅんは確信を抱いて自宅へ戻っていった。

 あの死んだ小男が猫殺しの犯人で、今夜も襲おうとして、猫を追い詰めたが、滑ったか何かで自分が死ぬはめになったのだと。

「猫の怨念は怖かとよ」

 猫の命を預かるねこしゅんは、「猫を虐げるとこうなるよ」とばかりに猫の神様が小男の死体をもって、見せしめとした戒めに身を震わせるのだった。


 ―了―



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