ブローニュの館と無愛想な旦那様
馬車の揺れに誘われ、気付いたらウトウトと眠っていたようだ。
外を見ると、一面の葡萄畑が広がっている。
ああ、ここが夢にまで見たブルゴーニュ……じゃなかった、ブローニュ領。
私は夕陽に照らされてオレンジに染まった木々を、飽きることなく眺めていた。
こんな長閑な土地でワインの不正が行われている…?
いやいや、まだそうと決まった訳でもない。
まずはこの土地に馴染むことが一番だ。私が心を開けば、自然に見えてくるものもあるだろう。
馬車が最後の丘を越えると、木々の向こうにヴィーニュ家の屋敷が見えてきた。
蜂蜜色の石で造られた壁は夕日を浴びて温かく輝き、何より目を引くのは、急勾配の屋根を彩る赤い瓦。遠くから見える屋敷の風景は、まるで一枚の芸術品のようだった。
けれど、屋敷の門をくぐる頃には、その印象は少しずつ変わっていった。壁のところどころには深い緑の蔦が絡みつき、見事なはずの庭園は人手が足りないのか、野生の草花が好き勝手に花を咲かせている。
御者は何も言わないが、その視線はボーモン家と比べて寂れた外観に落胆している様子だ。
でも、私は御者とは逆。実はこの景色に胸を高鳴らせていた。
寂れている?雑草が生い茂る庭?
違うわ、これは「草生栽培」って方法じゃない?
たしか、下草を生やすことで土壌の乾燥を防ぎ、微生物を多様化させるって聞いたことがある。あえてその栽培方法を選んでいるとしたら、なんて進んでいるのだろう!
ひんやりと澄んだ空気と、大地の香り。
私にはわかる。この荒れた庭も、痩せた土地も、全てが極上のワインを生み出すために用意された舞台。
この土地で、私の第二の人生が始まるんだ。
程なくして、馬車が止まる。
私は御者に促され、この地に降り立った。
「遠いところを、ようこそおいでくださいました」
恭しく挨拶をして出迎えてくれたのは執事の男性だった。歳の頃は20代後半だろうか。黒髪で痩身、口元に笑みを浮かべてはいるが、目が笑っていない。私という人物を見極めてやろうという、挑戦的な空気を纏っていた。
「当家の執務全般を取り仕切っております、クロード・ルシャールと申します」
「よろしくお願いします、クロード」
サッと視線を走らせると、屋敷内は質素ではあるが、手入れが行き届いていた。使用人は多くはなさそうだが、彼の采配が良いのだろうか。
「メイドはこちらの3名です。まず、メイド長のマルグリッド」
クロードの後ろに控えていたメイドたちのうちから、やや年嵩の女性が一歩進み出た。
「マルグリッド・ランジュです」
古参のメイドという風格だ。にこりともしないが、それがかえって彼女のプロフェッショナルさを感じさせた。
「となりにいるのが、コレット」
次に紹介されたのはふくよかな四十絡みの女性だった。
「奥様、これからよろしくお願いします」
気の良さそうな、明るくておしゃべり好きな女性って感じだ。
「そして最後に、奥方様の身の回りのお世話係を務めさせていただく、ロゼットです」
痩せぎすで赤毛の少女が、一歩進み出て頭を下げた。
「ロゼット・ブランシェと申します。精一杯努めますので、よろしくお願いします」
やや緊張した顔には、そばかすが浮いている。深々とお辞儀をすると、こちらを見てそっと微笑んでくれた。彼女とは直感的にうまくやれそうな気がした。
「他に庭師と料理長がおりますので、後ほどご挨拶させます。では皆持ち場に戻るように。ロゼットは奥方様をお部屋に案内してください。なお、奥方様」
「はい?」
「婚姻の手続きはすでに済んでおりますが、正式な挙式と領民へのお披露目は、三ヶ月後の収穫祭の日に執り行う手はずでございます。それまでは、この館では“奥方様”としてお迎えしつつも、細かな習慣やしきたりは追ってご説明いたします」
「ありがとう、助かるわ」
クロードは慇懃無礼にこう付け加えた。
「田舎暮らしは不便も多いかと存じます。『本当に挙式まで滞在されるかは分かりませんが』ごゆっくりどうぞ」
(あら、早速嫌味? 私がすぐに音を上げて帰ると思ってるのね)
私はニッコリと笑い返した。
「ええ、『死ぬまで』ゆっくりさせてもらうわ」
クロードは私の発言にイラッとしたのか、返事もせずに片眉をあげると、その場を立ち去ろうとした。
「待って」
「……まだ何か?」
不快そうに振り向いたクロードに、私は言った。
「旦那様……シルヴァン様はどちらにいらっしゃるのでしょうか」
そう。肝心の夫となる人がこの場にいないのはおかしい。歓迎されていないにしても、説明はあって然るべきだ。
「ああ、それなら」
とクロードが言いかけるや否や、先ほど私が入ってきた扉がバタンと開き、その瞬間にふわりと風が舞い込んだ。
汗と土と、ほのかに青臭い、若い葡萄の木のような香り。
(収穫前の葡萄畑の空気そのものだわ)
私がそう感じるやいなや、
「遅れて、すまない」
決して大きくはないが、よく通る声が私の耳に飛び込んできた。
風と共に入ってきた人物は、やや日焼けした肌に、日々の労働を想像させるがっしりとした体躯。焦茶の髪はやや癖っ毛で、前髪が長く瞳が隠れている。
「シルヴァン・ヴィーニュだ」
「はじめまして、この度ボーモン家より嫁いで参りました、セリエ・ボーモンと申します」
「……」
私の挨拶も虚しく、彼は会釈をするやいなや、再び扉の外に出ていってしまった。
「ちょ、ちょっと、旦那様!」
ロゼットが慌てて追いかけようとするのを私は制止した。
「いいのよ、ロゼット。また晩餐の時にゆっくりお話しさせてもらうわ」
「奥様がお気を悪くされていないのなら、良いのですが…」
ロゼットは主君の無礼を申し訳なさそうにしている。
だが、女嫌いと聞いていた夫だ。私からしたら想定内だ。
それに、彼の手は畑を愛する人の手だった。乾いた白っぽい土が指にこびりついていたのを、私は見逃さない。少なくとも、彼は敵ではない。私の直感がそう告げている。
それに比べると……
私とシルヴァンの邂逅をニヤニヤと眺めていたクロードは、私と目が合いそうになったかと思うと、すっと踵を返していってしまった。
ふーん、面白そうじゃないの。
ここで始まる生活は、想像していた以上のものになりそうだ――そう思うと、胸の高鳴りはもう抑えようがなかった。
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