第十六章:危機管理

 王宮の庭園で催される、年に一度の収穫祭。

 それは、王国の豊穣を祝い、神々に感謝を捧げる、最も格式高い祭典の一つだ。瑞々しい果物が山と積まれ、香ばしい焼き菓子の甘い香りが風に乗る。楽団が奏でる陽気な音楽と、着飾った貴族たちの楽しげな笑い声が、絵画のような平和を織りなしていた。


 その中でも、ひときわ大きな人だかりができていたのが、リヒトハーフェン領が出店した、青と白の天幕だった。

「これが、噂の『海鮮御膳』か!」

「なんと美しい盛り付けだ…」

 天幕の前には、貴族から平民まで、身分を問わない長蛇の列ができていた。その一人一人の顔に、エリザベートは、自ら笑顔で料理を手渡していく。その姿は、もはや辺境の令嬢ではなく、自らの手で創り出した新しい文化を、人々に届ける、若き指導者の姿そのものだった。

 祝祭の陽気な音楽と、人々の尽きることのない賞賛の声。その全てが、エリザベートの輝かしい成功を祝福しているかのようだった。


「これは、素晴らしい!」

 特に影響力のある大貴族の一人、美食家として知られるオルデンブルク公爵が、一口食べた寿司を前に、感嘆の声を上げた。

「リヒトハーフェ-ン嬢! 君は、我々に新しい食の地平を見せてくれた! この功績、陛下も必ずやお認めになるだろう!」

 その言葉に、ブースの周囲から、賛同の拍手が沸き起こる。


 ――その、瞬間まで。


「うっ…ぐっ…!」

 突然、オルデンブルク公爵が、苦悶の表情で胸を押さえた。その顔色は見る間に青ざめ、激しく咳き込むと、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。

「「「公爵様!!」」」

 楽団の音楽が止み、祝祭の空気が、一瞬で凍りつく。

 悲鳴。混乱。そして、誰かが叫んだ。

「毒だ! リヒトハーフェンの魚に、毒が!」

 その一言が、パニックの導火線に火をつけた。人々は、蜘蛛の子を散らすように、リヒトハーフェンのブースから距離を取る。王宮の衛兵たちが、抜剣しながら、エリザベートたちを取り囲んだ。


 その混乱の中、まるでその時を待っていたかのように、クラウディア・フォン・ヘルナーが、取り巻きと共に、ゆっくりと前に進み出た。その顔には、悲劇を憂う、完璧な仮面が貼り付けられている。

「まあ、エリザベート様…。なんてことでしょう。やはり、恐れていたことが起きてしまいましたわね。辺境の得体のしれない魚介など、このような神聖な場で提供するには、危険すぎたのではなくて?」

 その声は、心配を装いながらも、明確な断罪の響きを持っていた。群衆が「そうだ、そうだ」と囁き始める。

 衛兵隊長が、厳しい声でエリザベートに告げた。

「リヒトハーフェン嬢!事情を聴かせてもらう!一同、その場を動くな!」


 絶体絶命。

 長谷川梓の亡霊が、脳裏で嘲笑う。『ほら、見たことか。全て、終わるんだ』

 しかし、エリザベートは、その声を、奥歯を噛み締めて、振り払った。

 彼女は、パニックに陥る周囲の貴族や衛兵たちを、凛とした、しかし、決して逆らえない力強さを込めた声で、制した。

「衛兵隊長。もちろん、いかようにでもご協力いたします。ですが、その前に」

「問答無用!」

「この場は、事故現場ではございません。犯罪現場(クライムシーン)です。これ以上の証拠の散逸を防ぐため、このブース一帯の、完全な封鎖を、国王陛下の名において、要請いたします」

「なっ…犯罪だと?」

「はい。断言いたします」

 エリザベートは、国王陛下が座る玉座の方へと向き直ると、深く頭を下げ、一枚の羊皮紙を掲げた。

「陛下。これは、本日、私たちが提供した全ての料理の、品質管理記録です。どの食材が、いつ、誰によって調理され、どのお皿に乗せられたか、その全てを記録してあります。オルデンブルク公爵閣下が口にされたお料理と、全く同じ生産ロットのものを、既に五十名以上のお客様が召し上がっておりますが、どなたもご無事です。従って、原因は食材そのものではない。このお皿にだけ、誰かが、何かを仕掛けたのです」


 その、あまりにも論理的で、揺るぎない自信に満ちた説明に、会場の空気が、わずかに変わった。「無差別な食中毒」から、「個人を狙った毒殺未遂」へと、問題の焦点がシフトしたのだ。国王が、静かに頷き、侍医の派遣を命じる。

 クラウディアの眉が、気づかれぬほど、微かにひそめられた。


 だが、彼女の罠は、それだけではなかった。

 エリザベートが、状況をコントロール下に置こうとした、まさにその時。

 一人の市街衛兵が、血相を変えて、その人垣をかき分けるように、駆け込んできた。

「申し上げます!王宮正門前にて、大規模なデモが発生!」

「なんだと!?」

 衛兵隊長が、怒鳴り返す。

「アルフレッドと名乗る男に率いられた、数百の民衆が!『海鮮男爵は、公爵閣下を毒殺しようとした!』『腐敗貴族エリザベートに、天罰を!』と叫びながら、この会場へと、向かっております!」


 第二の凶報。

 その言葉が、今度こそ、エリザベートの表情を凍りつかせた。

 会場の貴族たちが、再び、猜疑と恐怖の目で、彼女を見る。毒殺未遂と、民衆の暴動。その二つが結びついた時、もはや、どんな論理的な弁明も、意味をなさない。

(――挟撃。これこそが、あなたの、本当の狙いだったのね、クラウディア…!)


 宮廷内での、社会的信用の失墜。

 宮廷外での、民衆からの蜂起。

 二つの、致命的な危機が、同時に、エリザベートに襲いかかる。

 衛兵に囲まれ、身動き一つ取れない。そして、外からは、自分への憎悪を叫ぶ、怒りの津波が、刻一刻と、迫ってくる。

 どうすることも、できない。


 エリザベートの唇から、血の気が引いていく。

 その瞳に、初めて、深い絶望の色が、浮かんだ。

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