幕間:午前二時の亡霊
午前二時。 世界から音が消える、最も深く、冷たい時間。
私は、執務机の上に積み上げられた書類の山を、もう一度だけ確認した。 食材のロット管理表、スタッフの配置図、緊急時の避難経路、そして、万が一の事態に備えた法的対抗措置の草案。 完璧だ。どこにも隙はない。 明日の収穫祭、クラウディアがどんな手を使ってこようとも、この防壁(ディフェンス)を破ることはできない。論理的に、確率的に、私の勝利は確定している。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、ペンを置く。 カタリ、と乾いた音が、静寂に包まれた部屋に過剰に響いた。
その音が、スイッチだった。 張り詰めていた糸が緩んだ瞬間、背後の闇から、ぬらりとした「何か」が這い寄ってくる気配を感じた。
(――ああ、まただ)
視界が、ぐらりと歪む。 豪華なリヒトハーフェン邸の執務室の風景が、ノイズ混じりの映像のように明滅し、別の風景と二重写しになる。
無機質な白い天井。 鼻を突く消毒液の臭い。 そして、耳元で怒鳴り続ける、男の声。
『お前なんて、代わりはいくらでもいるんだよ』 『またミスか? 給料泥棒が』 『数字も読めないのか、無能』
かつての上司の怒声が、鼓膜を直接殴りつけてくる。 胃の奥から、強烈な酸っぱいものが込み上げてくる。私は口元を押さえ、洗面台へとよろめいた。 吐くものなどない。夕食など喉を通らなかったからだ。 それでも、身体は何かを拒絶するように、痙攣を繰り返す。
「……ぅ、っ……はぁ、はぁ……」
鏡の中の自分を見る。 そこに映っているのは、自信に満ちた「海鮮男爵」ではない。 顔面蒼白で、脂汗を浮かべ、瞳孔が開いた、怯える小動物のような少女だ。
(怖い)
思考の防波堤が決壊し、黒い感情が雪崩れ込んでくる。
もし、明日失敗したら? もし、私の読みが外れて、また全てを失ったら? あの時と同じように。誰にも認められず、誰にも愛されず、ゴミのように捨てられて終わるのか?
(私は、本当に償えているの?)
脳裏に、アルフレッドの顔が浮かぶ。 私が無実の罪を着せ、人生を狂わせた少年。 今、私は領地を豊かにし、多くの人を救っているつもりでいる。けれど、それは本当に「善意」なのか? ただ、自分が生き残るために、MBAという武器を使って、綺麗事を並べているだけではないのか? 私の本質は、結局、あの頃の――自分の保身のために他人を蹴落とした、醜い悪役令嬢のままなのではないか?
「……いや……いやぁ……」
震えが止まらない。 指先が氷のように冷たい。 心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。過呼吸の発作だ。 誰もいない。 レオンハルトも、セバスチャンも、イザベラ様もいない。 この闇の中で、私はたった一人だ。
『ほら見ろ、お前はいつだって一人だ』
長谷川梓の亡霊が、鏡の向こうで嘲笑う。 逃げ出したい。 布団を被って、耳を塞いで、朝が来なければいいと願っていた、あの独身アパートの夜のように。
――ガツン!
鈍い痛みが走り、私は我に返った。 無意識のうちに、自分の額を、鏡に叩きつけていたのだ。 冷たいガラスの感触。じんじんと熱を持つ額の痛み。 それが、私を現実に引き戻した。
「……私は」
私は、洗面台の蛇口を捻り、氷のように冷たい水を顔に叩きつけた。 一度。二度。三度。 化粧が落ち、素顔が露わになる。 濡れた顔を上げ、もう一度、鏡を睨みつける。
まだ、震えている。 顔色は死人のようだ。 けれど、瞳の奥の光だけは、消えていない。
「私は、エリザベート・フォン・リヒトハーフェン」
呪文のように、自分の名を呟く。 長谷川梓ではない。負け犬ではない。 数千の領民の命を背負い、国を相手に喧嘩を売ろうとしている、誇り高き悪役令嬢だ。
「……恐怖(リスク)は、制御(コントロール)できる」
震える手で、タオルを握りしめ、顔を拭う。 そして、鏡に向かって、口角を無理やり持ち上げた。 引きつった、不格好な笑み。 それでも、泣き顔よりはマシだ。
「さあ、笑いなさい、エリザベート。明日は、あなたが主役の舞台なのだから」
私は、仮面を被り直す。 鋼鉄の理屈と、虚勢で塗り固めた、最強の仮面を。
午前三時。 亡霊は、鏡の奥へと消えた。 私は執務机に戻り、再びペンを執った。 夜明けまで、あと三時間。 戦いの準備は、まだ終わっていない。
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