第四章:好敵手の先手
王都での情報収集を始めて、数日が過ぎた。
エリザベートの宿の一室は、今や完全に、辺境伯領の秘密作戦本部と化していた。壁に貼られた王都の地図には、無数の書き込みが加えられ、テーブルには、マルタン商会からの報告書と、イザベラからもたらされた社交界の情報が、山のように積まれている。
「…信じられませんな。この数日で、これほどの情報を…」
レオンハルトは、エリザベートが作り上げた、貴族たちの相関図と金の流れを可視化した巨大なチャートを前に、呆然と呟いた。
「これが情報戦の基本よ、レオンハルト。戦う前に、まず敵を知る。味方を知る。そして、戦場となる市場を知るの」
エリザベートは、ペンを置き、凝り固まった肩を回した。
その時、部屋の扉が、控えめにノックされた。
現れたのは、イザベラの侍女だった。彼女は、エリザベートに、恭しく一通の招待状を差し出す。
「イザベラ様から?」
開封すると、中には、彼女の優雅な筆跡で、こう書かれていた。
『親愛なるリーザへ。最高の観劇の席が、手に入りましたわ。今宵、王都で最も熱い舞台の、特等席よ。あなたの『競争相手』が、どんな芝居を打つのか、その目で確かめるといいわ』
添えられていたのは、ヘルナー子爵邸で開かれる、夜会(サロン)への招待状だった。
ヘルナー子爵邸は、伝統的な貴族の邸宅とは明らかに趣が異なっていた。歴史を誇るような重々しさはなく、代わりに、明るく開放的で、実用的な美しさが隅々まで行き届いている。
「見て。壁の絵も、調度品も、全て今、王都で最も評価の高い、若手の芸術家の作品で統一されているわ。旧貴族たちが、血統や歴史を自慢するなら、自分は『未来の文化を育てる』という姿勢で、対抗しているのよ」
イザベラが、エリザベートの耳元で囁く。エリザベートは、イザベラが手配した、見習いパティシエの娘という触れ込みで、その供として潜り込んでいた。
「…徹底している。これは、ただの金任せじゃない。明確なブランディング戦略だわ」
エリザベートの背筋に、ぞくりと軽い戦慄が走った。
「あら、あそこにいるのが、ホルスタイン男爵よ」と、イザベラが顎で示す。「北部戦役の後、領地経営が傾いて、ヘルナー商会の銀行から、多額の融資を受けているわ。今や、クラウディアの忠実な犬の一人ね」
イザベラの解説を聞きながら、エリザベートは、グラスを片手に談笑する貴族たちの、虚飾に満ちた笑顔の裏にある、生々しい金の流れと、力関係を、冷静に分析していた。
やがて、会場の喧騒が、すっと静まる。
広間を見下ろす小さな壇上に、燃えるような真紅のドレスをまとった主催者、クラウディア・フォン・ヘルナーが姿を現したのだ。
「皆様、今宵はお集まりいただき、感謝いたします」
その声は、鈴を振るように可憐でありながら、聞く者の心を掴んで離さない、不思議な力強さを秘めていた。
「我がヘルナー家は、歴史も伝統もない、新参者。ですが、だからこそ、私たちは古い慣習に縛られず、真に価値あるものを、皆様にご提案できると信じております」
スピーチが終わり、銀盆に乗せられた料理が運ばれてくる。
分厚く切り分けられた、極上の牛肉のステーキ。『王家の牛(ロイヤル・ビーフ)』だ。
一口食べた貴族たちが、次々と恍惚の声を上げる。
「なんだ、この舌の上でとろけるような柔らかさは…!」
「肉の旨味が、噛むほどに溢れてくるようだ…!」
(…すごい。プレゼンテーションも、商品のクオリティも、完璧だわ)
エリザベートは、人垣の陰で、冷静にライバルの手腕を分析していた。
ブランドストーリーの構築、ターゲット顧客(新興貴族)の自尊心をくすぐる演出、そして、誰にも文句を言わせない、圧倒的な製品価値の提示。
それは、まるで、教科書に載っているような、完璧なマーケティングの実践例。
(…教科書…?)
その言葉が、引き金だった。エリザベートの脳裏に、遠い記憶が稲妻のように閃く。
夜の大学院のキャンパス。仕事終わりの疲れた身体に鞭打って通い詰めた、社会人向けMBAコース。著名な教授の、厳しいが示唆に富んだ言葉。
『戦略とは、戦いを略すことだ。敵の土俵で戦うな。自分だけの土俵を創り出せ』
あの頃、必死に学んだ知識が、今、時を超えて彼女の思考を動かしていた。パワハラ上司に「頭でっかち」と罵られ、宝の持ち腐れに終わったはずの、あの膨大な知識が。
(そうだ。私の名前は、エリザベートで、そして――長谷川 梓(はせがわ あずさ)だった)
めまいがするほどの、鮮烈な覚醒。
「リーザ?顔色が悪いわよ」
イザベラの心配そうな声に、エリザベートは、はっと我に返った。
「…いいえ、大丈夫ですわ。あまりの素晴らしさに、少し、眩暈がしただけです」
彼女は、そう言って微笑んだ。その心に、確かな光が灯るのを、感じながら。
その夜、大成功に終わったサロンの後。
ヘルナー子爵邸の、クラウディアの私室。
「クラウディア!素晴らしい夜会だったそうじゃないか!」
父親が、上機嫌で部屋に入ってきた。「『王家の牛』の注文が、既に数十件も入っている!今期の利益は、過去最高になるぞ!」
「まあ、クラウディア。それなら、わたくしが欲しがっていた、隣国の新しいデザインのドレス、注文してもよろしくて?」
母親が、甘えるように夫の腕に絡みつく。
彼らは、娘の才覚を褒めるでもなく、その労をねぎらうでもなく、ただ、その成功が生み出す「金」の話だけをしていた。
「…ええ、お父様、お母様。ご自由になさってくださいな」
クラウディアは、完璧な笑顔で、二人を部屋から送り出した。
扉が閉まった瞬間、その笑顔が、すっと消える。
彼女は、テーブルの上に残っていた、手付かずの『王家の牛』を、ただ、無感情に見つめていた。
あれほど熱狂を呼んだ、完璧な一皿。
しかし、今の彼女の目には、それは、ただの冷たい肉の塊にしか見えなかった。
彼女の心を満たすのは、成功の悦びではなく、どこまでも深く、そして冷たい、孤独の味だけだった。
帰りの馬車の中、イザベラが、試すような目でエリザベートに尋ねた。
「それで?感想を聞かせてもらえるかしら、天才マーケターさん。あれほどのものを見せつけられて、あなた、本当に勝てるの?」
エリザベートは、窓の外を流れる王都の夜景を見つめていた。その瞳には、先ほどのサロンで見た、どんな宝石よりも、強く、確かな光が宿っている。
「勝てるかどうか、ではありませんわ、イザベラ様」
彼女は、ゆっくりと振り返ると、不敵な笑みを浮かべた。
「そもそも、同じ土俵で戦うつもりはありませんから。――彼女のビジネスモデルそのものを、時代遅れにして差し上げますわ」
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