ハルキ転生 ~世界のハルキ・ムラカミ、異世界にてゴブリンの頭を完璧なスイングで打球に変えたり世界の果ての灯台守になるも、やれやれ、孤独にはさせてもらえない件。~

メガドラおじ

第1幕

第1章:木綿豆腐と、事務的な女神


 その日、僕は商店街にある昔ながらの豆腐屋で、木綿豆腐を一丁買った。

 絹ごしではなく、木綿だ。

 これからの人生において、崩れにくい確かな手触りが必要になるような予感がしたからだ。

 空は低く、11月の冷たい雨が降っていた。僕は傘を差さず、レインコートのポケットに両手を突っ込んで歩いていた。頭の中では、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』が流れていた。悪くないサウンドトラックだ。


 交差点に差し掛かった時、世界がスローモーションになった。

 横から突っ込んでくるトラックのグリルが、巨大な銀色の壁のように見えた。

 僕は思った。

 「やれやれ、豆腐がぐちゃぐちゃになってしまうな」

 それが、こちらの世界で僕が抱いた最後の感想だった。


 目が覚めると、僕は白い部屋にいた。

 そこは歯科医院の待合室のような静けさと、消毒液の匂いに満ちていた。壁も床も天井も、すべてが完璧な白だった。

 正面にある事務机のようなデスクには、完璧な美女が座っていた。彼女は「女神」というよりは、有能だが少し仕事に疲れている受付係のように見えた。


 「死亡確認」と彼女は事務的に言った。手元のファイルをめくる音だけが響く。「トラック事故です。即死でした。残念でしたね」

 「豆腐は?」と僕は聞いた。

 「全壊です。原型を留めていません」

 「それは残念だ。今夜は湯豆腐にするつもりだったんだ」


 彼女は顔を上げず、分厚いカタログをカウンターに置いた。

 「さて、あなたには『異世界転生』の権利があります。その世界——ナーロッパ大陸——は剣と魔法の世界です。特典として、一つだけ『チート能力』を付与できます」


 彼女は早口で続けた。

 「最強の剣術、無限の魔力、あるいは全種族を魅了するカリスマ。どれにしますか? 最近の人気は『ステータス固定』や『即死魔法』ですね」


 僕はカタログを覗き込んだ。そこには派手なフォントで、安っぽい全能感が羅列されていた。

 僕は首を振った。

 「悪いけれど、パスだ」


 「パス?」彼女は初めて僕の顔を見た。「意味がわかりません。この世界では、力がないと生き残れませんよ? ドラゴンも魔王もいるんです」


 「聞いてほしい」と僕は言った。「努力なしで手に入れた力というのは、高金利の借金みたいなものだ。最初は景気良く使えるかもしれないけれど、利子は確実に膨れ上がって、いつか必ず僕という人間の核(コア)を食いつぶしてしまう。僕はそういうのを、これまでの人生でたくさん見てきたんだ」


 僕はカタログを指先で押し戻した。

 「僕が欲しいのは、他者を圧倒する力じゃない。自分の足で立ち、自分のペースで歩くための道具だ」


 女神はため息をついた。その仕草は、クレーマーの対応に慣れた銀行員そのものだった。  「……具体的には? 何もなしで送るわけにはいきません。規則(ルール)ですから」


 僕は少し考えてから言った。

 「丈夫で、足によく馴染むスニーカーを一足。それと、前の世界で僕が感じていたことの記憶。それだけでいい」


 「スニーカー?」

 「ああ。できればグレーの、目立たないやつがいい。長時間歩いても疲れない、クッション性の高いものが」


 女神は呆れて、書類に乱暴にスタンプを押した。

 「……変わった人ね。いいわ、承認します。転送先はランダムですが、文句は言わないでくださいね」

 「構わないよ」


 白い光が僕を包んだ。

 足元には、新品のニューバランスのような、頼もしい感触があった。

 僕は目を閉じた。豆腐のことは諦めよう。向こうの世界にも、それに代わる何かがあるはずだ。


 次に目を開けたとき、冷たく湿った風が僕の頬を撫でた。

 そこは、雨の降る港町の路地裏だった。

 潮の香りと、腐った魚の匂い。遠くで霧笛が鳴っていた。

 僕は足元を見た。グレーの新品のスニーカーが、濡れた石畳の上で微かに光っていた。


 僕はしゃがみ込み、靴紐をきつく結び直した。

 「さて」と僕は呟いた。「まずは、まともな食事にありつかなくちゃな」


現在のステータス

名前: 僕(The Narrator)


職業: 転生者(チートなし)


現在地: 港町「カフカ(仮)」・路地裏


装備:


女神のスニーカー(新品・防御力+1 / 移動速度+5)


前世の記憶(アイデンティティ)


所持金: ゼロ(女神からの支給金はまだ確認していない)


ミッション: 空腹を満たすこと。



​第2章:漂着したバットと、路地裏の完璧なスイング


 港町は、まるで予算不足の映画セットのように見えた。

 建物はどれも中世ヨーロッパ風を装っているが、細部の作り込みが甘い。窓枠の塗料は剥げ落ち、看板のフォントは統一感に欠けている。

 通りを行き交う人々——人間、犬の耳を持つ者、緑色の肌をした者——の表情には、ある種の「希薄さ」が漂っていた。彼らは自分が何者であるかという問いを持たず、ただプログラムされた通りに歩き、呼吸し、消費しているように見えた。


 「解像度が低いな」と僕は呟いた。

 この世界(ナーロッパ)は、中心にいる「勇者」や「ヒロイン」のためにリソースを使いすぎて、街の端にいる名もなき人々を描写する余力を失っているのかもしれない。

 僕はレインコートの襟を立て、水たまりを避けながら歩いた。

 世界の解像度がどうあれ、僕の空腹はリアルなものだった。まずは換金できるアイテムか、あるいは短期のアルバイトを探す必要がある。


 路地裏に入った時だった。

 腐ったキャベツと、濡れた野良猫の匂いがするゴミ捨て場の横に、奇妙なものが立てかけられていた。

 それは、この世界にあるべきではない形状をしていた。

 剣でも、槍でも、魔法の杖でもない。

 滑らかな曲線を描く、ホワイト・アッシュ材の棒。


 僕は足を止め、それを拾い上げた。

 手になじむ重み。ニスが剥げかけ、飴色に変色した木肌。

 グリップの近くには、焼き印が押されていた。

 『Louisville Slugger(ルイビル・スラッガー)』。

 そしてグリップエンドには、前の持ち主がナイフで刻んだであろう**「1978」**という数字。


 「やれやれ」  僕は思わず口元を緩めた。

 どうやら、時空の裂け目からこぼれ落ちてこの世界に漂着したのは、僕だけではなかったらしい。

 1978年。神宮球場でヤクルトスワローズが初優勝した年だ。

 このバットがどのような経緯でここに来たのかは分からない。しかし、それはまるで古い友人のように、僕の手のひらに吸い付いた。


 「剣よりはずっとマシだ」

 僕は軽く素振りをしてみた。重心のバランスは完璧だった。


 その時、路地の奥から低い唸り声が聞こえた。

 影の中から這い出してきたのは、緑色の肌をした小男だった。

 ゴブリンだ。

 身長は小学生くらいだが、その目は濁った黄色で、手には錆びついたナイフを持っていた。

 彼からは、圧倒的な「貧しさ」の匂いがした。物質的な貧困だけでなく、精神的な欠落の匂いだ。


 「金を出せ」とゴブリンは言った。声は壊れたラジオのノイズに似ていた。「身ぐるみ剥いでやる」


 「金はないよ」と僕は言った。「あるのは、女神からもらったスニーカーと、この古い木の棒だけだ」


 ゴブリンは聞く耳を持たなかった。

 彼は飢えた獣のように飛びかかってきた。その動きは直線的で、何の美学もなかった。

 僕は恐怖を感じなかった。

 世界がスローモーションに見えた。雨粒が空中で静止し、ゴブリンの筋肉の収縮が手に取るようにわかる。


 僕は息を止め、脇を締め、腰を回転させた。

 相手を「殺す」のではない。

 飛んでくる悪質なカーブボールを、センター前にはじき返すイメージだ。


 カァァン!


 路地裏に、乾いた快音が響き渡った。

 それは、濡れた石畳と煉瓦の壁に反響し、一瞬だけ雨音を消し去った。

 バットの芯(スイートスポット)が、ゴブリンの側頭部を完璧に捉えたのだ。


 ゴブリンは物理法則に従って吹き飛び、ゴミ箱の中に頭から突っ込んで動かなくなった。  ピクリともしない。死んではいないだろうが、当分は目を覚まさないはずだ。

 彼はただ、自分が打球になった夢を見ているだけだ。


 僕はバットを下ろし、ハンカチで汚れを拭き取った。

 手には心地よい痺れが残っていた。

 「悪くない」と僕は思った。

 魔法もチートもいらない。しっかりしたフォームと、手入れされたバットがあれば、この理不尽な世界でも、自分の身を守る(あるいは不快なものを遠ざける)ことくらいはできそうだ。


 僕はバットを肩に担ぎ、再び歩き出した。

 ゴブリンには悪いことをしたが、彼もまた、この世界の歪んだシステムが生んだ被害者の一人なのだ。

 次に会うときは、球場で会えればいいのだが。


 雨はまだ降り続いていたが、僕の足取りは少しだけ軽くなっていた。

 まずは腹ごしらえだ。

 運動のあとには、温かいスープが必要だった。


現在のステータス

名前: 僕(The Narrator)


職業: 転生者(バッター)


現在地: 港町カフカ・路地裏


HP: 正常


MP: 0(魔法への関心なし)


装備:


女神のスニーカー


ルイビル・スラッガー(1978年モデル・攻撃力+5 / クリティカル率(精神統一時)100%)


獲得スキル: 【精密打撃】 (敵の急所をボールに見立ててジャストミートする)


討伐数: ゴブリン × 1(気絶・場外ホームラン)


思考: スープの店を探す。できれば静かな音楽がかかっている店を。



第3章:冷めたスープと、騒がしい世界の概略


 ゴブリンをゴミ箱に放置したまま、僕はメインストリートに戻った。

 雨はまだ降り続いていた。スニーカーは優秀で、水たまりを踏んでも靴下まで濡れることはなかったが、レインコートの肩は重く湿っていた。

 僕はポケットの中に手を突っ込んだ。そこには、いつの間にか小さなビロードの巾着袋が入っていた。あの事務的な女神が持たせてくれた「初期装備」なのだろう。  中を確認すると、銀貨が10枚入っていた。多いのか少ないのかは分からないが、少なくとも今夜のスープ代くらいにはなるだろう。


 僕は港の近くにある、古びたレンガ造りの食堂に入った。

 店の名前はなかった。看板には、ただスープの皿とスプーンの絵が描かれているだけだった。観光客や、これから冒険に出かけようとする血気盛んな若者たちは、まず選ばないような店構えだ。それが気に入った。


 店の中は薄暗く、煮込みすぎたキャベツと、湿った犬の毛のような匂いがした。

 客はまばらだった。隅の席で、疲れた顔をした船乗りが二人、エールを飲んでいるだけだ。  僕は窓際の席に座り、肩に担いでいたルイビル・スラッガーをテーブルの横に立てかけた。それはひどく場違いに見えたが、誰も気に留めなかった。


 無愛想な店主がやってきて、無言で水を置いた。

 「スープを」と僕は言った。「それとパンを付けてくれ」


 運ばれてきたスープは、茶色く濁っていた。具材は何かの豆と、繊維質たっぷりの根菜、そして正体不明の小魚だった。

 一口啜る。熱さは十分だったが、味はひどく曖昧だった。塩気が足りず、出汁の深みもない。それは「火曜日と水曜日の間に挟まった、どうしようもない一日」のような味がした。

 だが、文句は言えない。これは現実の味だ。女神のカタログに載っているような、きらびやかなファンタジーの味ではない。


 僕は硬い黒パンをスープに浸しながら、テーブルの隅に放置されていた新聞を手に取った。誰かが読み捨てていったものだ。日付は昨日だった。

 一面には、派手な活字が躍っていた。


 『勇者タナカ、東の砦を奪還! 魔王軍に甚大な被害!』

 『レベル上限解放! 新たなスキルツリーで差をつけろ!』


 勇者。魔王。レベル。

 予想通りの単語が並んでいる。

 世界の概略(アウトライン)は理解できた。この世界——ナーロッパ——は、巨大なRPGのシステムの上で動いている。人々は数値化された能力を競い、勇者と魔王の終わらない戦争に熱狂している。

 それは、巨大なスタジアムで、全員が強制的にプレイヤーとして参加させられているスポーツのようなものだ。


 僕は興味を失いかけ、新聞を閉じようとした。

 その時、紙面の片隅にある、小さな囲み記事が目に入った。


 『王都で爆発的人気! 勇者様考案の“ハンバーガー”とは?』


 そこには、粗い網点のモノクロ写真で、見覚えのある円盤状の食べ物が写っていた。  丸いパンの間に、平らな肉と、不自然に四角いチーズが挟まっている。


 僕は口の中に残っていたスープを飲み込んだ。

 そして、遠い記憶の中にある、あの味を思い出した。

 雨の降る日曜日の午後、駅前のファストフード店で食べた味だ。

 プラスチックみたいなチーズと、ケチャップと、薄っぺらなピクルス。そして、工場でプレスされた肉の脂。

 それは食事というよりは、空腹を黙らせるための燃料補給に近かった。


 「やれやれ」

 僕は小さく呟いた。


 どうやら、この世界にも「効率」という名の幽霊が入り込んでいるらしい。

 勇者が持ち込んだのは、平和だけじゃなかったわけだ。彼はこの剣と魔法の世界に、手軽で、安くて、そして魂の抜け落ちたカロリーを持ち込んだのだ。

 記事によれば、人々は行列を作ってそれを食べているらしい。

 ドラゴンを倒すことよりも、そっちの方がよほど深刻な問題かもしれない。


 僕は新聞を折りたたみ、テーブルの端に戻した。

 目の前のスープは冷めかけていたけれど、少なくともそこには、不器用な店主が豆を煮込んだという確かな時間の痕跡があった。

 僕はそれをありがたく思うことにした。

 今のところ、ハンバーガーは僕には関係のない話だ。王都は遠いし、僕は行列に並ぶのが何より嫌いだから。


 残りのスープを飲み干すと、僕は席を立った。

 まずは拠点が必要だ。

 宿屋は駄目だ。冒険者たちが夜通し宴会騒ぎをしているだろうし、「仲間にならないか?」と声をかけられるリスクもある。僕はバッターボックスに立つつもりはないし、外野席で応援歌を歌うつもりもない。ただ、静かに試合を眺めていたいだけだ。


 僕はカウンターに行き、銀貨を一枚置いた。

 店主はそれを無造作にポケットに入れた。お釣りは来なかった。


 「訊きたいことがあるんだが」と僕は言った。

 店主は面倒くさそうに顔を上げた。

 「なんだ?」

 「この街で、部屋を探している。条件は三つだ。静かなこと。人が来ないこと。そして、海が見えることだ」


 店主は僕の顔と、足元のスニーカー、そして背負ったバットを交互に見た。

 「あんた、冒険者じゃないな?」

 「ただの旅行者だ。長期滞在を予定している」


 店主は少し考え込み、顎で港の倉庫街の方角をしゃくった。

 「倉庫街の裏に、古いビルがある。『羊男』がやっている不動産屋だ。あそこなら、あんたが望むような、誰も寄り付かない物件を扱っているかもしれない」


 「羊男?」

 「ああ。見た目は奇妙だが、悪い奴じゃない。ただ、少し話が通じにくいだけだ」


 礼を言い、僕は店を出た。

 雨は小降りになっていた。

 羊男の不動産屋。悪くない響きだ。少なくとも、勇者組合の斡旋所よりは期待ができそうだった。

 僕はバットを担ぎ直し、教えられた方角へと歩き出した。


現在のステータス

名前: 僕


職業: 転生者(バッター)


現在地: 港町カフカ・メインストリート


HP: 満タン(曖昧なスープによる回復)


所持金: 銀貨9枚


装備: 女神のスニーカー、ルイビル・スラッガー


情報: 世界は騒がしいシステムに支配されている。


次の目的地: 倉庫街の「羊男の不動産屋」。


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