第4話 朝から、あいつらと出会うなんて最悪だ

 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、高槻伊吹たかつき/いぶきは重い瞼をこじ開けた。

 自室の枕元でスマホが震え、画面には七時三十二分の数字。

 いつもより三十分も遅い。

 昨日の出来事が、まだ頭の奥でざわめいていた。


 東野紫苑ひがしの/しおん

 自らを“探偵”と名乗る、ちょっと変わったクラスメイトだ。

 紫苑が追い続けているのは、五年前の連続失踪事件。そして、失踪者の一人こそが――紫苑の実の姉だったという事実。


 昨日、喫茶店内で耳にした、あの女子大生の言葉がが胸の奥に突き刺さったまま抜けない。



『紫苑ちゃんの前では、お姉さんの話は絶対にしないでね』



 だから伊吹は、昨日一日中一緒にいた時も、決してその話題には触れなかった。

 夕暮れの街灯の下で小さく手を振られたあの仕草が、今も瞼の裏に焼き付いている。


「……はぁ、まだ眠いな。昨日は結構早くに休んだはずだったんだけどな……」


 欠伸を噛み殺しながら階段を降りると、リビングはもう誰もいない。


 妹の夏希なつきは朝練のため、六時台には家を飛び出していた。

 夏希は高校に入学し、まだ二週間程度の新入部員ではあるのだが、短距離のレギュラーを狙う為に、朝練まで自主的に始めていたのだ。

 妹は昔からスポーツ全般が好きで、体を動かしている時が一番楽しいと言っていた。


「ん?」


 リビングのテーブル上には、布に包まれた弁当箱が一つ。

 夏希は自分の分を作る時、ついでに兄である伊吹の分まで用意してくれる。妹が高校生になってからの習慣であった。

 伊吹は心の中で小さく礼を言った。


「って、ヤバい! もうこんな時間じゃんか!」


 時刻は七時四十分を過ぎた頃合い。

 バスは八時にやって来るのだ。


 伊吹は慌ててトースターにパンを突っ込み、焼けたところにジャムを山盛りに塗ってかじりつく。

 コーヒーを淹れる余裕すらなく、牛乳を一気飲みして歯を磨き、制服に袖を通した。


「バスに、間に合え……ッ‼」


 伊吹は全力疾走で自宅から駆け出す。住宅街近くにあるバス停へと向かい、丁度やってきたバスに勢いよく飛び込んだ。

 間に合ったものの、案の定、バスの中は朝のラッシュでぎゅうぎゅう詰めだった。


 伊吹は吊革に掴まりながら、片手でスマホを開く。

 通学十八分の間、ライトノベルの新刊情報をチェックするのが日課だ。

 学校最寄りの停留所で降り、門に向かう途中、急に腹の虫が鳴った。


「……朝、ほぼ何も食べてないもんな」


 仕方なく、バス停の向かいにあるコンビニに滑り込む事にしたのだ。


 店内は朝のピークを過ぎ、のんびりした空気が漂っていた。

 同じブレザーの人らが数人、店内のフードコートで談笑しながら朝練後のおにぎりを頬張っている。

 レジに向かおうとした瞬間――聞き覚えのある甲高い笑い声が響いたのだ。


 棚の隙間から覗くと、そこにいたのは元カノの八木明香やぎ/めいかと、明香を伊吹から奪った伊藤雅哉いとう/まさや

 朝から最悪だ。


 明香は雅哉の腕にべったり絡みつき、まるで世界に二人しかいないみたいな甘ったるい声で笑っている。


 伊吹は顔をしかめ、棚の陰に身を潜めた。


 あいつらと顔を合わせるなんて冗談じゃない。


 でも、運命は意地悪だった。


「あれ、伊吹? こんなとこで何してんの?」


 セミロングのストレートヘアの髪を揺らし、明香が現れ、彼女の言葉が、ぴたりと伊吹の背中に突き刺さる。

 明香の隣にいる短髪黒髪の雅哉は、何も言わずニヤニヤと伊吹を見下ろしているだけ。見下されている、という感覚が全身を覆った。


 どうしよう――と思った瞬間。足音が近づいてきたのだ。


「おはよう、高槻くん」


 透き通った声。

 振り返ると、そこに立っていたのは東野紫苑だった。

 伊吹の肩がビクッと跳ねる。


「お前、誰だよ」


 雅哉が、怪訝そうに紫苑を睨む。


「高槻くんに用事があるの。ねえ、高槻くん、ちょっと外に出ない?」

「あ、うん……」


 伊吹は頷いた。

 紫苑は伊吹の制服の袖を軽く掴む。そして、二人から離れるように歩き出したのだ。


「おい、お前、勝手に連れて行くなよ!」


 背後からは雅哉の声が聞こえたが、振り返らない。


 二人は背後の存在を気にせず、店の外へ出た。


 朝の陽射しが眩しいアスファルトの上、二人は並んで学校へと向かって歩き始める。


「東野さんは、どうしてコンビニに?」

「たまたま通りかかったらよ。それに高槻くんが困ってたから、声をかけただけ」

「でも、本当に助かった……ありがとう」


 伊吹は大きく息をはいた。


「あの中にいたら、面倒なことになってたでしょ」

「うん。明香と伊藤とは、できるだけ関わりたくないんだ」


 伊吹は自身の素直な感情を口にする。


「それに」


 紫苑は小さく肩をすくめながら言葉を続ける。


「あの二人にはあまり関わらない方がいいわ。捜査の邪魔になるかもしれないし」

「……そうだよね。あの事件と、関係あるかもしれないんだっけ」

「そう。それで――高槻くん、コンビニで何か買うつもりだったの?」

「あー、朝がバタバタしてて、ろくに食べてなくてさ。おにぎりとかを」

「なら、ちょうどいいものがあるわ」


 紫苑は制服のポケットから、板チョコレートを取り出した。

 銀紙に包まれた、小さな甘い救世主。

 無造作に伊吹に差し出す。


「はい。朝ごはんの代わりにどうぞ」

「え、いいの?」

「別に。昨日のお礼ってことで。捜査に協力してくれてるんだし」


 紫苑は視線を逸らしながら、そっと言った。


「……じゃあ、遠慮なく」


 伊吹は銀紙を剥がし、一口かじる。

 ほろ苦いカカオが口の中に広がった。


「……東野さん」

「ん?」

「いや、なんでもない……」


 言おうとした言葉を、伊吹は呑み込んだ。


 ――お姉さんのこと、大丈夫?


 そう聞きたかった。けれど、喫茶店で聞いた忠告が耳に残っている。

 まだ早い。

 紫苑が自分で蓋を開けるまで触れてはいけない。

 伊吹はそう思った。


 二人は並んで通学路を歩く。

 朝の風が、チョコレートの甘い香りを運んでいった。校門が見えてきた頃。


「ねえ、高槻くん」


 紫苑が、ぽつりと呟いた。


「今日、放課後――」


 その先の言葉は、朝のチャイムに掻き消された。

 でも、伊吹にはわかった。

 紫苑が何を言おうとしたのか。

 伊吹は頷く。


 それから伊吹はチョコをもう一口、口に含んだ。

 ほんのり苦い味が、なぜか優しい。朝の空が、どこまでも高く、澄んで見えた。

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