第3話 今日から始まった謎の事件を妹と

 夕暮れの空が茜色に滲み、街灯の明かりが柔らかく混じり合う頃。

 高槻伊吹たかつき/いぶきはバスに揺られながら、窓の外に流れる夜の風景をぼんやりと眺めていた。


 今日という日は、特別だった。

 同じクラスの東野紫苑ひがしの/しおんと、初めてまともに言葉を交わした日だったからだ。


 普段は遠巻きにしか見ていなかった彼女が、突然昼休みに伊吹の前に現れ――あの自信に満ちた微笑みを浮かべながら、まるでのすべての秘密を把握しているかのように語りかけてきた。その笑みが、どこか危険な色を帯びていたのだ。


「……はぁ、本当に、あの子と関わってよかったのだろうか……」


 伊吹は小さく息をはいて、降車ボタンを押す。

 時計は十九時半を少し回っていた。

 いつもの停留所でバスを降りると、ひんやりとした夜気が頬を撫でるように頬を打った。


 伊吹は家までの道のりをゆっくり歩きながら、今日の出来事を頭の中で反芻していた。

 自宅に到着すると玄関の鍵を開け、中に入る。玄関先で靴を脱ごうとしたその時のこと。


「おかえりなさい、お兄ちゃん!」


 リビングの奥から、小さな竜巻のような勢いで飛び出してきたのは、妹の高槻夏希たかつき/なつきだった。


 ショートカットの髪を揺らし、陸上部のジャージの上にエプロンを引っ掛けたままの妹。

 練習帰りらしい汗の匂いと、どこか甘い夕食の香りが混じっている。


「お兄ちゃんもお腹ペコペコでしょ? 早く早く!」


 夏希に手を引かれるまま、伊吹はリビングへと向かう。

 ダイニングテーブルに並ぶのは、こんがり焼けた豚の生姜焼き。玉ねぎがたっぷり絡み、照り照りのタレが照明を反射してキラキラ光っている。脇には湯気を立てる味噌汁と、山盛りの白飯。


 夏希の料理は決して洗練されているとは言えない。味付けは少し濃いめで、盛り付けも大雑把。それでも、それが逆に食欲をそそるのだ。


「おお……」


 思わず声が漏れる。胃袋が正直に鳴った。


「「いただきます!」」


 二人は向かい合うように席に着き、同時に手を合わせ、箸を伸ばす。

 夏希の食べ方はいつも豪快だ。小柄な体からは想像もつかない量を、頬をパンパンに膨らませながら平らじていく。

 生姜焼きをがっつり口に放り込み、ご飯を山ほどよそっては満足げに頬を緩める。


 伊吹も箸を手にするなり、豚肉を頬張った。しょうがの爽やかな辛さと、甘辛いタレのハーモニー。思わず目を細めてしまう。


「……これ、めちゃくちゃ美味いな」

「でしょー! 今日のは特に気合い入れたんだからね!」


 夏希が得意げに胸を張る。その笑顔を見ているうちに、伊吹はふと箸を置いた。

そろそろ、話しておこうと思ったのだ。


「なあ、夏希」

「ん? どうしたのお兄ちゃん?」


 味噌汁をすすっていた夏希が、ぱちくりと目を丸くする。


「今日さ……東野紫苑と話したんだ」


 その名前を聞いた瞬間、夏希の表情が一変した。目がキラキラと輝き、身を乗り出してくる。


「えっ、あの東野紫苑? 学校で超有名な探偵の人でしょ!」

「まあ……そんなところだ」

「すごーい! 私、まだ入学してから一ヶ月も経ってないから詳しくは知らないけど、推理が得意なんだよね! なんか事件とか全部解いちゃうって噂で!」


 興奮気味にまくしたてる夏希。

 普段はスポーツ一筋で汗臭い妹なのに、実はミステリーオタクな一面がある。

 伊吹の部屋に勝手に入ってきて、ミステリー系のライトノベルを漁っていくこともしばしばだ。


 伊吹は苦笑しながら、今日あったことを簡単に説明し始めた。


 昼休みに突然現れた紫苑のこと。五年前、この学園で起きたという“失踪事件”の噂のこと。そして、伊吹の元カノである八木明香のこと。

 夏希はご飯を頬張りながら、真剣な顔で耳を傾けている。


「五年前に、誰かが学校から消えたって話なんだ」

「うわ……それって本当の事件なの?」

「俺も最初は都市伝説かと思ってた。でも紫苑が言うには、かなり信憑性があるらしい」

「えー、怖っ! でもちょっとワクワクするかも……って、あ、いや、怖いよ? めっちゃ怖いけど!」


 夏希は両手を振って慌てて訂正する。でも目は完全に好奇心で輝いていた。


「それでさ、最近部活の子たちが言ってたんだけど……夜の校舎で変な音がするって」

「変な音?」

「うん。ガタガタとか、ドンドンとか……お化けじゃないかなって」


 妹の発言に、伊吹は少し眉を寄せた。


「うーん、でも五年前の件は失踪であって殺されたわけじゃないからな。そのお化けって線は薄いかもな」


 伊吹の発言に、夏希はちょっと残念そうに唇を尖らせる。そしてまた生姜焼きをパクッと口に放り込み、もぐもぐしながら笑顔に戻った。


「それで、お兄ちゃんはその東野さんと一緒に何するの?」

「……実は、八木明香やぎ/めいか伊藤雅哉いとう/まさやってやつを尾行することになって」

「えっ、元カノを尾行⁉ お兄ちゃん大丈夫? 色々なことがあったのに……」


 妹は心配してくれていた。


「仕方ないだろ……状況が状況だし。そこは割り切って関わるつもりだ」


 伊吹は少し視線を逸らしたのだ。


 妹と会話していると、一瞬、あの出来事が脳裏をよぎる。


 今日の昼休み、紫苑と二人きりの時。突然、紫苑と唇を重ねてきたあのキス。

 甘くて、少し冷たくて、それでいて熱を孕んだ感触が、今でも舌の奥に残っている。

 頬が熱くなるのを悟られまいと、伊吹は慌てて味噌汁をすすった。


「お兄ちゃん? 顔赤いよ? 大丈夫? 熱とか?」

「な、なんでもない! 気にしないでくれ」

「ふーん……?」


 夏希が怪訝そうに首を傾げる。

 伊吹は咳払いして、話題を戻した。


「とにかく、夏希も何か変な噂とか聞いたら教えてくれ」

「了解! 私、陸上部だからいろんな学年の子と話すし、情報収集なら任せて!」

「いや、待て。そこまでガッツリ動かなくていい」

「えー、なんでー?」

「下手に嗅ぎ回ると、相手にバレるだろ。こっちの動きが読まれたらまずい」

「そ、そっか。じゃあ、普通に生活してて何か耳に入ったら、お兄ちゃんにこっそりメールするね」

「ああ、それくらいでお願いする」


 話が一段落つくと、夏希は“おかわりー”と元気よく席から立ち上がり、キッチンへ駆けていった。

 伊吹はその後ろ姿を見ながら、静かに息をはく。


 伊吹の心のどこかで紫苑の不敵な笑みと、あのキスの感触が静かに疼いていたのだ。

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