少年と夏

有部 根号

少年と夏

少年の前には蝉がいた。草木に囲まれた一本の木についた蝉。少年は網をもって構えていた。慎重に一歩ずつ近づく。少年は時おりこの山に来ていた。小学校の裏にある山。自分以外にも虫取に来たり、おいかけっこに来たりしている子供はいる。ただ、今少年の周りには誰もいなかった。この蝉だけだ。少年は何度も虫取をしている。蝉も取っている。だが、この蝉が何蝉かと言う知識はない。ミンミン蝉かもしれないしアブラゼミかもしれない。ミンミンとは聞こえるが、この蝉から発せられているかは分からない。四方八方から声はする。

「ふぅ、、」

一息つく。汗がまつげにかかり、それを慎重に腕で拭う。少年は今までにない緊張感を感じていた。なんせその蝉は大きいのだ。前に捕まえたものの、二倍はある。体は茶色と黒の間で、半透明の羽は微かに揺れて太陽を反射している。反射した光はまれに少年の目を刺激し、あの蝉は自分を攻撃しているのか?と思わせる。ゆっくりとゆっくりと近づく。周りでは蝉が鳴き、地面では緑のバッタが跳ねている。それでも少年の耳は冴えていた。一歩一歩、足を踏み出すときの落ち葉を踏む音が明確に聞こえた。ミシミシと、地面が鳴る。首から掛けている虫かごが擦れて、首がヒリヒリする。こんなことなら勝負を始める前に置いとくべきだったと後悔した。だが、もうどうしようもない。変に動いて刺激するわけにはいかないのだ。こんな大物、もう出会えないかもしれない。そのとき、風がびゅおっと吹いた。心臓が浮く。蝉が逃げるのではと汗が伝う。けれども蝉はじっとしていた。ずっしりたたずんでいた。「あと少し…」そう感じる。蝉まであと一メートルほど。網と腕の長さを考えれば、その瞬間はすぐだ。唾をゆっくりと飲み込む。自分の些細な動きで逃げてしまうんじゃないかという不安が、少年を慎重にする。そんなことで逃げるような蝉ではないのに。そんな弱い蝉ではない。近づくことでその事に気づいた。木にしがみつくその腕は、自分が網を握る手と何が違うのだろう?いや、同じだ。どちらも力強く、じっと握っている。「あっくんなら…」そんなことを考える。あっくんとは、クラスの大男だ。体が大きいだけあって、度胸もある。こないだは蜂を網で捕まえていた。蝉ぐらいなら、素手でひょいと捕まえる。あっくんには憧れもあったが、悔しさもあった。この蝉は、あの蜂より大きい。あの蝉より力強い。薄い羽が刃物のようにとがっている。下手すれば網を切って逃げるかもしれない。あの顎もこの網を噛みちぎるには十分だ。そんなわけはない。どうしていいきれる?あの蝉は強い。蝉まであと50センチほど。届く。けれど、失敗できない。蝉は目線の高さに止まっていた。この高さへ網を振り下ろすのは、やや難しい。けどできる。クラスのみんなに自慢するのだ。お母さんに自慢するのだ。あっくんより大きいのを捕まえた。いや、誰よりも大きく強いのを。みかちゃんにもかっこいいと言われるかもしれない。

「ふぅ、」

一息ついたあと、じっくりと網を近づける。腕に止まった蚊に気づかないほど、神経は蝉に向いている。網があと数センチで蝉に触れるだろうといったところで、勢いよく振った。

「あっ」

声が漏れる。感触はあった。網の縁に蝉が当たる感触。蝉はすんでのところで飛び出した。驚いて一歩退く。空を切って飛んでいる。体が急に冷える。こんなにシャツが濡れていたと今気づいた。蝉は少年の頭の上を回っている。飛んでるところを捕まえる?無理だ。止まってたのすら…

「あっ」

再び声が漏れる。今度は喜びを含んだ音だ。蝉はもう一度同じ木に止まった。かかってこいと言わんばかりに。しかし先程より、少し上に止まった。少年を見下ろすように。

「ごくり」

と、唾を飲む。少年の目は輝いていた。黒く、蝉を映して。下唇を噛むと、汗がしょっぱい。前髪が目を塞ぐ。髪を切っておけばよかった。少年は空いてる左手で、髪をよける。あいにく汗のおかげで髪は額にくっついた。一歩踏み出すと、距離は十分だった。次は外さない。外すわけにはいかない。今度こそ…今度こそ?少年は目を瞑る。どうして蝉はもう一度この木に止まったのだろう。また網が振り下ろされるだけなのに。こいつは思ってるより賢くないのかもしれない。自分が狙われてるとよく分かってないのかもしれない。それとも逆か?自分が分かっていないのか?少年は目を開ける。蝉はじっとたたずんでいる。羽を揺らし、声を出して。少年は、蝉は分かっていてこの木に止まったのではと感じた。今度失敗すれば、自分の敗けだ。勝たなければならない。蝉はこんなにも堂々としているのだ。だからこそ覚悟を決めなければならない。

「いくよ」

そう呟いた。いや、声には出てないのかもしれない。それでも強くそう言った。あっくんとか、みかちゃんとか、お母さんとか、そんなのは関係ない。ただ自分のために勝たなければならない。右手に力を込める。網を振り下ろす。風を切って、今度は確実に蝉をおおう。

「ふう、」

息をつく。ゆっくりと近づき、網の方へ左手を動かす。そして網の上から蝉をつかんだ。あとはかごに入れるだけ…

「あっ」

蝉は死んでいた。もとより一週間の命。その一週間目だったのだろう。もしくはさっき網の縁を当てたのが、大きなダメージになっていたのかもしれない。こうなっては意味がない。勝負には勝ったが、何も得られない。死んだ蝉を捕まえたって、誰も褒めちゃくれない。けれど少年は体が軽かった。さっきまでの重りをしょって戦っていた感覚とは違う。蝉をそっと、木の下の地面に置いた。墓を作ろうかとも考えたがやめた。どう作るかも知らないし、何よりこのまま、自然のまま置いてあげたいと思った。こいつは生涯の好敵手なのだ。大きな蝉。死んでなお、太陽の光を強く反射している。どうして蝉は最後の命を僕との勝負に使ったのだろう。少年はその場を離れた。ゆっくりと、汗を拭いながら草むらの方へ歩いていった。家に帰らなければならない。まだ宿題が残っているから。

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少年と夏 有部 根号 @aruberoot1879

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