第1章 おしのの空 第1話 目覚めの朝

 目を覚ましたとき、神代カイはまず、自分が生きていることに驚いた。


 いや、正確には「生きている」と言っていいのかどうかも、わからなかった。

 視界はぼやけ、耳鳴りがして、身体の感覚がどこか遠い。

 だが、確かに自分は“存在している”と感じた。

 それだけで、十分だった。


 やがて、視界が少しずつ明瞭になっていく。

 見上げた天井は、木の梁がむき出しになっており、ところどころに藁が詰められている。

 その隙間から、朝の光が差し込んでいた。

 どこかで鶏が鳴き、風が障子を揺らしている。


 「……どこだ、ここは」


 カイは、ゆっくりと身体を起こそうとした。

 だが、すぐに異変に気づいた。

 手が、小さい。

 腕が細い。

 胸元に視線を落とすと、そこにはわずかに膨らんだ布地があった。


 「……女?」


 声も、いつもの低く冷たい響きではなかった。

 高く、かすれた、少女のような声。

 いや、少女の声そのものだった。


 「……まさか、本当に……」


 あの白い空間。

 あの女——オルガ。

 「あなたに命を教えてあげる」と言っていた。

 まさか、あれが現実だったのか?


 カイは、布団から這い出るようにして立ち上がった。

 足元はふらつき、視界が揺れる。

 身体が思うように動かない。

 病み上がりのような、重さとだるさが全身を包んでいた。


 部屋の隅には、木の桶と布が置かれていた。

 その中の水に顔を映すと、そこには見知らぬ少女の顔があった。


 大きな黒目。日焼けした頬。

 額にかかる前髪は、少し乱れている。

 年の頃は、十四、五といったところか。

 その顔が、自分の意思でまばたきをし、口を開いた。


 「……これが、俺?」


 信じがたい現実が、そこにあった。


 戸の向こうから、足音が聞こえた。

 すり足で近づいてくる、年老いた人間の気配。


 「おしの、起きたかい?」


 戸が開き、皺だらけの顔がのぞいた。

 白髪を布でまとめた、痩せた老婆。

 その目が、カイを見て、ぱっと明るくなった。


 「よかった……熱が下がったようだねぇ。心配したよ」


 「……あなたは?」


 「なに言ってるんだい、おしの。おっかさんだよ。

  ほら、薬草煎じてきたから、飲みなさい」


 差し出された茶碗からは、苦い匂いが立ちのぼっていた。

 カイは戸惑いながらも、それを受け取った。

 手が震える。

 この身体は、明らかに病み上がりだった。


 「おっかさん……?」


 その言葉が、妙に胸に刺さった。

 自分には、母親の記憶がほとんどない。

 幼い頃に亡くなった母の顔すら、もう思い出せない。


 「……ありがとう」


 思わず、そう口にしていた。

 おっかさんは、にっこりと笑った。


 「おまえが元気になってくれて、ほんとによかったよ」


 その笑顔は、あまりにも温かくて、カイは思わず目をそらした。

 こんな感情、いつ以来だろう。

 誰かに心から心配され、優しくされるなんて。


 「……くそ、なんなんだ、これは……」


 カイは、布団の中で拳を握りしめた。

 これは実験じゃない。観察でもない。

 自分が“体験する”側に回ってしまったのだ。


 「オルガ……お前の仕業か……」


 だが、返事はない。

 あの白い空間も、彼女の姿も、今はどこにもなかった。


 代わりに聞こえてくるのは、外で遊ぶ子どもたちの声。

 風に揺れる木々のざわめき。

 遠くで鳴く鶏の声。

 そして、胸の奥に響く、自分の鼓動。


 「……これが、“命”か」


 カイは、天井を見上げた。

 藁と木で編まれた天井の隙間から、陽の光が差し込んでいた。

 その光は、どこか懐かしく、そして新しかった。


 「なら、見せてもらおうじゃないか。

  この世界が、どれほど“本物”なのかを」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る