プロローグ 魂の転送装置

 人間の魂は、どこにあるのか。


 脳か? 心臓か? それとも、もっと別の場所か。

 あるいは、そんなものは最初から存在しないのかもしれない。

 だが、もし存在するのだとしたら——それは、どこへ行くのだろうか?


 神代カイは、白衣の袖をまくりながら、無機質なラボの中央に立っていた。

 彼の目の前には、銀色のカプセルが鎮座している。中には、彼自身の肉体が横たわっていた。

 目を閉じ、静かに眠るその姿は、まるで死体のようだった。


 いや、違う。これは“器”だ。

 魂という“中身”を抜き取られた、ただの容れ物にすぎない。


 カイは、端末のモニターに目をやった。そこには、彼の脳波パターンがリアルタイムで映し出されている。

 安定している。転送準備は完了していた。


 彼は深く息を吸い、吐いた。

 この瞬間を、どれほど待ち望んだことか。


 ——魂の転送。

 それは、彼が人生をかけて追い求めた夢だった。


 人間の意識を、肉体から切り離し、デジタルデータとして保存・移動させる。

 それが可能になれば、老いも病も死も、すべて克服できる。

 人類は、ついに“死”という宿命から解き放たれるのだ。


 「神の領域に、手をかけることになるな」


 カイは、誰に言うでもなく呟いた。

 助手もいない。監視員もいない。これは、彼だけの実験だった。

 倫理委員会の承認も得ていない。だが、それがどうしたというのか。

 人類の進化のために、多少の犠牲は仕方がない。

 彼はそう信じていたし、信じることでしか前に進めなかった。


 カイは、幼い頃から“異端”だった。

 同級生と馴染めず、教師の言葉にも従わず、ただひたすらに知識を貪った。

 人間の脳の構造、意識の発生メカニズム、量子脳理論、人工知能、神経科学。

 彼の興味は常に「人間とは何か」「意識とは何か」という問いに向けられていた。


 「人間の本質は、情報だ」


 それが、彼の結論だった。

 肉体はただの媒体。魂とは、情報の集合体。

 ならば、それをデータ化し、保存し、移動できれば——人間は永遠に生きられる。


 彼はその理論を証明するために、あらゆる倫理を踏み越えた。

 動物実験はもちろん、匿名の被験者を使った非公式な実験も行った。

 その過程で、彼の研究室は大学から追放され、世間からは“狂気の科学者”と呼ばれるようになった。


 だが、彼は気にしなかった。

 理解されない天才は、いつの時代もそういうものだ。

 ガリレオも、コペルニクスも、最初は狂人扱いされた。

 だが、歴史は彼らを正しかったと証明した。


 「俺も、そうなる」


 カイは、端末に手をかけた。

 転送装置の最終確認。

 脳波の同期、完了。

 意識の複製、完了。

 仮想空間の構築、完了。

 肉体の生命維持装置、作動中。


 彼は、ふと自分の顔を見下ろした。

 眠るように横たわる自分自身。

 この肉体に、もう未練はない。

 これからは、情報として生きるのだ。

 永遠に、劣化せず、死なず、進化し続ける存在として。


 「さあ、神を超えてみせよう」


 彼は、転送ボタンを押した。


 次の瞬間、視界が白く染まる。




 どれほどの時間が経ったのか、わからなかった。


 意識はある。だが、身体がない。

 目も、耳も、皮膚も、何もない。

 ただ、思考だけが、虚空の中を漂っていた。


 「……ここは、どこだ?」


 声にならない声で、カイは問うた。

 返事はない。ただ、無音の闇が広がっている。


 「失敗……したのか?」


 彼の理論では、意識は仮想空間に転送されるはずだった。

 だが、ここには何もない。構築されたはずの世界も、感覚も、存在しない。

 あるのは、ただ、果てしない“無”だけ。


 「いや、違う……これは、仮想空間じゃない。もっと……根源的な……」


 そのときだった。


 ——カツン。


 何かが、足元に落ちたような音がした。

 足元? いや、そもそも今の自分に“足”などあるのか?

 混乱する意識の中で、再び音が響いた。


 ——カツン、カツン、カツン。


 それは、誰かの足音だった。

 やがて、白い光の中から、ひとりの人物が現れた。


 長い黒髪に、白いワンピース。

 年齢は20代前半くらいだろうか。

 だが、その瞳には、何千年もの時を生きたような深い光が宿っていた。


 「はじめまして、神代カイさん」


 彼女は微笑んだ。

 その声は、どこか懐かしく、そして恐ろしくもあった。


 「あなたは、死にました。正確には、“肉体”がね」


 「……誰だ、お前は」


 「私は、オルガ。魂の案内人よ」


 「魂……? そんなもの、存在するはずが——」


 「でも、今のあなたは、肉体を持たずに存在している。違う?」


 カイは言葉を失った。

 確かに、今の自分には身体がない。

 だが、思考はある。記憶もある。

 ならば、これは——魂なのか?


 「これは……ただの意識の残滓だ。脳の電気信号が、まだ消えていないだけだ……」


 「あなたの理論では、意識は情報の集合体だったわね。

  ならば、今のあなたは、まさにその“情報”そのもの。

  あなたの望んだ通りじゃない」


 「……どうして、俺のことを知っている」


 「あなたの魂は、ずっと私が見ていたから。

  あなたがどんな人生を歩み、どんな選択をしてきたか。

  どれだけ多くの命を、数字としてしか見てこなかったか」


 カイは、言葉を失った。

 この女は、何者だ? 本当に“案内人”なのか?

 それとも、これは自分の脳が作り出した幻覚か?


 「あなたは、まだ“生きる”ことを知らない」


 オルガはそう言って、ゆっくりと近づいてきた。

 その足音は、なぜか現実味を帯びていた。

 無の空間に響く、確かな存在の証。


 「これから、あなたに“命”を教えてあげる。

  何度も、何度も、生まれ変わってもらうわ。

  あなたが本当に“人間”になるまで——」


 「ふざけるな! 俺は科学者だ! こんな非科学的な——」


 「科学も、信仰も、哲学も、すべては“問い”から始まるのよ。

  あなたの問いは、まだ終わっていない。

  あなたは“魂”を探していた。

  ならば、自分の魂で、確かめてみなさい」


 オルガは手を差し出した。

 その指先が、光を帯びている。

 触れたら、何かが変わる。

 そんな予感が、カイの中に走った。


 「これは……強制なのか?」


 「選択よ。あなたが望むなら、ここに留まってもいい。

  ただし、ここには何もない。

  永遠に、問いのない空虚の中で、漂い続けるだけ」


 カイは、しばらく黙っていた。

 彼の中で、科学者としての理性と、未知への恐怖がせめぎ合っていた。

 だが、やがて彼は、ゆっくりと手を伸ばした。


 「……いいだろう。見せてみろ。

  お前の言う“命”とやらを」


 オルガは微笑んだ。


 「ようこそ、輪廻の旅へ」


 その瞬間、彼女の手がカイの意識に触れた。


 世界が、反転する。



 ふと、土の匂いがした。


 湿った空気が、鼻腔をくすぐる。

 遠くで鳥の鳴き声がする。

 風が、頬を撫でた。

 ——風? 頬?


 「……っ!」


 カイは、はっと目を開けた。

 まぶしい光が視界を焼く。

 反射的に手をかざそうとして、違和感に気づいた。


 手が、小さい。

 細くて、白くて、節くれだった指。

 それに、袖口からのぞくのは、白い木綿の着物。

 見慣れた白衣ではない。


 「……なんだ、これは……」


 声が、違う。

 高く、かすれた、少女のような声。

 いや、少女の声そのものだった。


 彼は、いや、彼女は、ゆっくりと身体を起こした。

 藁の敷かれた床。低い天井。木の柱。

 見慣れない空間。見たこともない建築様式。

 そして、開け放たれた障子の向こうに広がる、青空と田園風景。


 「江戸……?」


 カイの脳裏に、ある仮説が浮かんだ。

 これは、仮想空間ではない。

 これは、記録された過去のデータでもない。

 これは——現実だ。


 「転生……したのか、俺が……?」


 混乱と恐怖が、彼の胸を締めつけた。

 科学者としての理性が、悲鳴を上げている。

 だが、同時に、彼の中には奇妙な確信があった。


 これは夢ではない。

 これは、現実だ。

 自分は今、本当に別の存在として“生まれ変わった”のだ。


 「おしの! 起きたかい!」


 突然、戸の向こうから声がした。

 年老いた女性の声。

 戸が開き、皺だらけの顔がのぞいた。


 「よかった……熱が下がったようだねぇ。心配したよ」


 「……あなたは?」


 「なに言ってるんだい、おしの。おっかさんだよ。

  ほら、薬草煎じてきたから、飲みなさい」


 差し出された茶碗からは、苦い匂いが立ちのぼっていた。

 カイは戸惑いながらも、それを受け取った。

 手が震える。

 この身体は、明らかに病み上がりだった。


 「おっかさん……?」


 その言葉が、妙に胸に刺さった。

 自分には、母親の記憶がほとんどない。

 幼い頃に亡くなった母の顔すら、もう思い出せない。


 「……ありがとう」


 思わず、そう口にしていた。

 おっかさんは、にっこりと笑った。


 「おまえが元気になってくれて、ほんとによかったよ」


 その笑顔は、あまりにも温かくて、カイは思わず目をそらした。

 こんな感情、いつ以来だろう。

 誰かに心から心配され、優しくされるなんて。


 「……くそ、なんなんだ、これは……」


 カイは、布団の中で拳を握りしめた。

 これは実験じゃない。観察でもない。

 自分が“体験する”側に回ってしまったのだ。


 「オルガ……お前の仕業か……」


 だが、返事はない。

 あの白い空間も、彼女の姿も、今はどこにもなかった。


 代わりに聞こえてくるのは、外で遊ぶ子どもたちの声。

 風に揺れる木々のざわめき。

 遠くで鳴く鶏の声。

 そして、胸の奥に響く、自分の鼓動。


 「……これが、“命”か」


 カイは、天井を見上げた。

 藁と木で編まれた天井の隙間から、陽の光が差し込んでいた。

 その光は、どこか懐かしく、そして新しかった。


 「なら、見せてもらおうじゃないか。

  この世界が、どれほど“本物”なのかを」


 彼の魂の旅が、今、始まった。

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