第二章 沈黙の拉致

 深夜の丸の内は、墓場のように静まり返っていた。

 無機質なガラス張りのビル群が、月明かりを反射して冷たく光る。神宮寺沙織は、配車アプリで手配したハイヤーの到着を待っていた。

 本来ならば地下駐車場から直接乗車するのだが、今日は深夜の道路工事の影響で、大通りまで出る必要があったのだ。

(不手際ね……)

 心の中で小さく毒づく。

 高級なイタリア製のハイヒールが、アスファルトの上で微かな埃を噛む感覚さえ不愉快だった。こんな吹き曝しの路上に立つこと自体、自分という存在には似つかわしくない。

 彼女は腕時計に目を落とした。到着まであと三分。

 その時だった。

 世界から、音が消えた。

 風の音も、遠くを走る車の走行音も、自身の呼吸音さえも、唐突に断ち切られたように消失した。

 完全なる無音。真空の中に放り出されたような違和感に、沙織は眉をひそめた。耳鳴りだろうか? 連日の激務で疲れているのかもしれない。明日は休暇を取り、かかりつけ医に診せよう。そう論理的に判断し、こめかみを指で押さえようとした瞬間――。

 ――キイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!

「がッ……!?」

 音ではない。それは「振動」だった。

 耳から聞こえるのではなく、脳の芯、延髄のあたりから直接発生したような、形容しがたい高周波の濁流。

 まるで無数の虫が頭蓋骨の内側を食い荒らしながら這い回るような、あるいは錆びついた金属ドリルで脳漿を掻き混ぜられているような、生理的な不快感の極致。

 鼓膜は破れていない。だが、三半規管がデタラメに揺さぶられ、上下左右の感覚が瞬時に融解した。

 地面が液状化したかのような錯覚。

 視界がぐにゃりと歪み、高層ビルが飴細工のように溶解して彼女に覆いかぶさる。

「な、なに……あ、ぐ……ッ」

 声が出ない。喉の筋肉が痙攣し、空気を押し出すことさえままならない。

 沙織の膝が、何の前触れもなく折れた。

 制御を失った肉体は、操り糸を切られた人形のように崩れ落ちる。

 べちゃり、と嫌な音がした。

 彼女の美しい頬が、薄汚れたアスファルトに押し付けられる。

 路面のざらついた感触。誰が吐き捨てたかもわからないガムの黒いシミ。排気ガスの煤けた臭い。

(汚い……!)

 痛みよりも先に、脳裏を走ったのは強烈な潔癖心だった。

 私の肌が。特注のスーツが。こんな不衛生な場所に触れている。

 すぐに立ち上がらなければ。ハンカチで拭わなければ。消毒しなければ。

 しかし、指先一つ動かせない。脳からの指令が、あのおぞましい「音」にかき消され、筋肉に届かないのだ。

 視界の端に、ワンボックスカーが滑り込んでくるのが見えた。

 エンジン音はしない。いや、聞こえていないだけか。

 スライドドアが開き、影が降りてくる。一つではない。二つ、三つ。

 逆光で顔は見えない。だが、彼らの異様なシルエットだけはハッキリと認識できた。

 全身を覆う白い防護服。顔には無機質なガスマスク。まるで有害物質を処理する清掃業者のような出で立ちだ。

(何なの……貴方たちは……)

 沙織は必死に視線を動かし、彼らを威圧しようとした。

 私は内閣府の審議官だ。私に指一本でも触れてみなさい。国家権力が貴方たちを抹殺するわよ。

 だが、ガスマスクの奥にある瞳は、沙織を人間として見ていなかった。

 彼らにとって、そこに転がっているのは「神宮寺沙織」という高貴な人格ではなく、単なる「回収対象物」に過ぎないのだ。

 一人の男が屈み込み、ゴム手袋をはめた手を伸ばしてきた。

 その黄色いゴムの質感が、視界いっぱいに広がる。

(やめて)

 沙織の瞳が見開かれる。

(触らないで。汚い。その安っぽいゴムで、私の肌に触れるな!)

 抵抗も虚しく、ゴム手袋は無遠慮に沙織の脇の下と膝裏に差し込まれた。

 まるで粗大ゴミでも扱うような手つき。

 デパートで高級ブランド品を扱う店員の方が、よほど丁寧だろう。男たちは事務的に、しかし容赦のない力で沙織の身体を宙に持ち上げた。

 重力から解放された浮遊感と共に、さらなる屈辱が襲う。

 男の腕が、胸に、腰に、直接当たっている。防護服越しの硬い感触。他人の体温。生理的な拒絶反応で胃液が逆流しそうになるが、それすらも吐き出せない。

「ターゲット、確保」

 ガスマスクの拡声機能を通した、機械的な声が響いた。

「No.001。バイタル安定。適合率、計測不能レベル」

「よし、積み込め。時間は惜しい」

 会話に感情は一切ない。

 沙織は口の中で、音にならない絶叫を上げた。

 私はモノじゃない! 私は神宮寺沙織よ! 放しなさい! 無礼者!

 だが、彼女の抗議は誰にも届かない。

 ワンボックスカーの暗い荷室へと放り込まれ、冷たい床に転がされる。世界が暗転する直前、彼女が見たのは、閉ざされていくドアの隙間から見える、皮肉なほど美しい月だけだった。

     ***

 どのくらいの時間が経過したのか。

 意識が泥沼の底から浮上するように、ゆっくりと覚醒していく。

 最初に感じたのは、揺れだった。

 ゴト、ゴト、という規則的な振動。車の走行音。

 次に襲ってきたのは、強烈な臭気だ。

 ガソリンの油臭さと、病院の消毒液を煮詰めたようなツンとする刺激臭。それに混じって、獣のような、あるいは古くなった鉄のような匂いが鼻孔をつく。

(ここは……どこ?)

 目を開けようとしたが、視界は閉ざされていた。目隠しをされている。

 身じろぎしようとして、自分が完全に拘束されていることに気づく。手首と足首が、結束バンドのようなものできつく締め上げられ、冷たい金属の床に固定されているのだ。

「うぅ……んっ……」

 自分の声ではない。

 すぐ近く、おそらく数メートル以内の場所から、女の呻き声が聞こえた。

「いや……やめて……誰か……」

 恐怖に震える、弱々しい声。

 沙織の心臓が早鐘を打つ。私だけではない? 他にも?

 さらに別の方向からは、奇妙な音が聞こえてきた。

「あは……あはは……きらきら……きれい……」

 若い女の声だ。だが、その調子は明らかに異常だった。呂律が回っておらず、状況にそぐわない弛緩した笑い声を含んでいる。

 恐怖で泣く女と、薬物で壊れたように笑う女。

 ここは地獄への搬送車だ。

 沙織の背筋を、氷のような悪寒が駆け上がった。

(誘拐……身代金目的? いいえ、それならこんな扱いはしないはず)

 沙織は必死に理性を総動員して状況を分析しようとした。

 だが、あの男たちの手つき、この異様な同乗者たち、そして脳を直接焼くようなあの音響兵器。

 これは通常の犯罪ではない。もっと組織的で、悪質で、常軌を逸した何かに巻き込まれたのだ。

「ふざけるな……」

 ようやく、唇が動いた。掠れた声だったが、それは懇願ではなく、怒りの響きを帯びていた。

「私は、メディア倫理向上委員会の……神宮寺だぞ……こんなことをして、ただで済むと……」

 その時、車体が大きく揺れ、ブレーキの音が響いた。

 停止した感覚。

 プシューッ、という油圧式の音がして、背後の扉が開く気配がした。

 目隠し越しにもわかるほどの、強烈な光が差し込んでくる。

 外の空気ではない。空調管理された、人工的な冷気が肌を撫でた。

 カツ、カツ、カツ。

 革靴の音が近づいてくる。

 かつて自分が響かせていたそれとは違う、重く、底知れない支配者の足音。

 その足音は沙織の顔のすぐ近くで止まった。

「お目覚めかな。眠り姫」

 男の声だった。

 低く、知的で、ビロードのように滑らかだが、その奥に絶対零度の狂気を孕んだ声。

 何かが顔に触れる気配がしたかと思うと、目隠しが乱暴に剥ぎ取られた。

 急な光に目が眩む。

 ぼやけた視界の中に、白衣を纏った男が立っていた。優しげな笑みを浮かべているが、その目は爬虫類のように冷たい。

「ようこそ、私の実験室(ラボ)へ」

 男――九条蓮は、まるで新しい玩具の箱を開ける子供のような、無邪気で残酷な笑みを沙織に向けた。

「君のその高潔な脳髄が、どんな音色を奏でてくれるのか。……楽しみで仕方がないよ」

 その背後には、広大な地下空間が広がっていた。

 ガラス張りの独房。並べられた手術台。そして、人間ではない「何か」になり果てた者たちの影。

 沙織の口から、今度こそ絶望の悲鳴が漏れようとしていた。

 だが、それよりも早く、九条の手が彼女の顎を掴み、強引に上を向かせた。

 拒絶する間もなく、彼の顔が近づいてくる。

 彼女の「倫理」が終わる時間が、始まろうとしていた。

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倫理規定審議官・神宮寺沙織の陥落 深海馨 @carpwr80

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