倫理規定審議官・神宮寺沙織の陥落
深海馨
第一章 氷の審議官
内閣府合同庁舎、地下二階。
メディア倫理向上委員会の特別審議室は、まるで手術室のように白く、そして寒々しい静寂に包まれていた。
壁も、床も、天井も、一切の汚れを許さない純白で統一されている。空調は常に適温より二度低く設定され、微かな稼働音が、ここにいる人間たちの体温を奪い取っていくようだった。
部屋の中央に置かれた長大なガラステーブル。その上座、「議長」のプレートの前に、神宮寺沙織は彫像のように座っていた。
二十八歳という若さで審議官の座に上り詰めた才媛。漆黒の髪は一筋の乱れもなくまとめられ、仕立ての良いチャコールグレーのスーツが、彼女の華奢だが研ぎ澄まされた肢体を包んでいる。その美貌は、見る者を圧倒するほど整っていたが、同時に生命体としての暖かみが欠落していた。ガラス細工のような、触れれば凍りつきそうな美しさだ。
沙織の細く白魚のような指には、薄いラテックス製の手袋が装着されている。
彼女は右手で医療用のステンレス製ピンセットを摘むと、テーブルの中央に置かれた「それ」を、汚物処理でもするように慎重にめくった。
「……それで? 田代さん。これが貴社の主張する『表現の自由』の結晶というわけですか」
沙織の声は、よく響くアルトだった。美しいが、感情の起伏がない。
ピンセットの先が摘んでいるのは、極彩色の表紙を持つ成人向け雑誌だ。扇情的なポーズをとる裸体の女性、過剰なまでに強調された性器のイラスト。インクの匂いすらも、沙織にとっては腐臭に等しい。
テーブルの対面に座る男――中堅出版社の編集長である田代は、額から止めどなく脂汗を流していた。
「は、はい……。あの、その作品はですね、現代社会における抑圧されたエロスの昇華をテーマにしておりまして……決して、単なる猥褻物では……」
田代の視線が泳ぐ。肥満気味の体躯が、安物のスーツの中で窮屈そうに蠢いた。汗ばんだ首筋、鼻の下に浮いた脂、緊張で荒くなった呼吸。
沙織はピンセットを持ったまま、冷ややかに目を細めた。
(汚らしい)
彼女の脳裏を占めるのは、目の前の雑誌の内容よりも、目の前の「オス」という生物に対する生理的な嫌悪だった。
制御できない欲望。垂れ流される体液。理性よりも本能に突き動かされる下等な構造。彼女にとって、「性欲」とは人間が進化の過程で捨て去り損ねたバグであり、社会衛生上の病原菌でしかなかった。
「エロスの昇華、ですか」
沙織は鼻で笑うことすらせず、淡々と言葉を紡ぐ。
「私がここに見るのは、昇華などという高尚なものではありません。ただの排泄行為です。動物的な衝動を、安直な刺激で処理するための産業廃棄物。違いますか?」
「そ、それは言い過ぎでは……っ! 読者にはニーズがあります! これは文化の一部だ!」
田代が声を荒げ、テーブルを叩く。その拍子に、彼の唾が微かに飛沫となって宙を舞った。
沙織の眉が、わずか一ミリほど動く。
彼女は手元の除菌スプレーを手に取ると、表情一つ変えずに空中に向かって噴射した。シュッ、という無機質な音が、田代の言葉を遮る。
「く、う……」
「文化とは、精神を豊かにするものです。理性を麻痺させ、獣に還すものではありません」
沙織はピンセットで雑誌を閉じると、それをテーブルの端にあるダストシュートへ滑らせるように押しやった。
「この国に必要なのは、規律と浄化です。貴方のような浅ましい性欲が、子供たちの未来を汚染し、社会の道徳的基盤を腐らせているのです。自覚なさい」
「神宮寺審議官……!」
「審議は終了です。当該出版物には発禁処分を、貴社には一ヶ月の営業停止命令を下します。――退出を」
沙織が視線を書類に落とすと、控えていた衛視が田代の腕を掴んだ。
抗議の声を上げながら引きずられていく男の背中を見送ることもしない。彼女はただ、自身の決裁印を書類に押し付けた。朱色の印影だけが、この白い部屋で唯一の色味だった。
***
会議室を出た沙織が真っ先に向かったのは、役員専用のパウダールームだった。
個室に入り、鍵をかける。ようやく一人になれた空間で、彼女は深く、肺の中の空気をすべて入れ替えるように息を吐き出した。
先ほどの部屋には、男の湿った呼吸と、欲望の気配が充満していた。それらが粒子のレベルで自分の肌に付着しているような気がして、吐き気が込み上げる。
彼女は洗面台の前に立つと、ラテックス手袋を裏返して捨てた。
自動水栓から冷たい水が出る。薬用石鹸をワンプッシュ、ツープッシュ。泡立て、手首まで念入りに擦り合わせる。
白く細い指が、泡の中でキュッキュッと音を立てる。
(汚い。汚い、汚い、汚い)
田代という男が汚いのではない。彼が象徴する「性」という概念そのものが、沙織にとっては泥であり、ウイルスだった。
人はなぜ、あんなにも野蛮な行為に耽るのか。粘膜を擦り合わせ、体液を交換し、理性を失って喘ぐ。家畜と何が違うというのか。
三十秒。一分。
皮膚が赤くなるほど擦り続け、ようやく流水で泡を流す。
清潔なタオルで水分を完全に拭き取ると、沙織は鏡の中の自分を見つめた。
乱れのない髪。左右対称のメイク。染み一つないブラウス。
そこには、理性的で、清潔で、完璧な「神宮寺沙織」がいた。
「……私は、染まらない」
小さく呟く。
それは確認であり、自身への誓いでもあった。
彼女は社会の自浄作用そのものだ。汚物を排除する白血球。だからこそ、誰よりも潔白でなければならない。
鏡の中の瞳が、冷ややかな光を湛えて彼女を見つめ返した。その瞳の奥には、自身が「正義」であるという揺るぎない傲慢さが宿っている。
***
庁舎を出る頃には、時刻は二十三時を回っていた。
丸の内のオフィス街は、深夜の静寂と、遠くから聞こえる都会の喧騒が混じり合っている。
タクシー乗り場へ向かう沙織の足取りは、メトロノームのように正確だった。
アスファルトを叩くヒールの音だけが、乾いたリズムを刻む。
通り過ぎる雑居ビルの陰で、泥酔したサラリーマンと、それに媚びるような声色を使う派手な服装の女がもつれ合っているのが見えた。
沙織は視線を逸らすことすらせず、ただ軽蔑の眼差しを一瞥だけ投げて通り過ぎる。
欲望に負けた敗北者たち。自らを律することのできない愚者。
自分は彼らとは違う高みにいる。その優越感だけが、疲労した精神を支える唯一の糧だった。
その時だった。
ふと、背筋に奇妙な寒気が走った。
視線。いや、もっと物理的な何か。粘りつくような、それでいて鼓膜の奥を微かに震わせるような「気配」を感じた。
沙織は足を止め、振り返る。
無機質な街灯が照らす歩道には、誰もいない。ビル風が、捨てられたコンビニの袋をカサカサと転がしているだけだ。
「…………」
気のせいか。
最近、逆恨みによる脅迫状が届くことも増えている。あるいは、またどこかの愚かな男が、自分の容姿に目を奪われて物陰から覗き見ているだけかもしれない。
沙織はフン、と鼻を鳴らした。
見られることには慣れている。それは美しく高潔な存在が背負う税金のようなものだ。誰も私には触れられない。私は誰の手も届かない場所にいるのだから。
彼女は再び前を向き、歩き出した。
カツ、カツ、カツ。
高く鋭いヒールの音が、夜の闇に吸い込まれていく。
その音が、自分を断罪する処刑台へのカウントダウンであることに、彼女はまだ気づいていなかった。
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