私の夫は本命を作らないそうです。

もも@はりか

第1話 縁談話

「僕は本命を作らないからね」


 夫婦の新床にいどこで、美しい夫は笑顔を浮かべた。


 ***


 古ぼけた部屋の窓から見えるのはしんしんと降り積もる雪だった。 


 イライザ・アシュレイはショールをしっかり着込んだ。


 その後、塗装が剥げかかった机に向かい、小説の原稿に目を通す。

 大親友で売れない歴史小説家のアンジェ・アップルヤードが書いた原稿だ。下読みをお願いされていた。


(えーっと、……どれどれ……? 待って。アンジェったら、待って)


 イライザは眉をひそめる。


 字が殴り書きで読みづらい。

 しかも途中、「後で書く!」としか書かれてない段落もあった。第一、非常に話が難解だ。


「……」


 とはいえ、アンジェの歴史小説の下読みをするのは、イライザにとっては唯一の楽しみだ。

 そう、唯一の。


 なぜなら。


 非常に珍しくノックの音が聞こえた。

 緊張が走る。イライザは原稿を机の引き出しに隠して返事した。


「……どうぞ」


 表情のまったくない執事が顔を見せた。


「イライザお嬢様。旦那様がお呼びでございます」


 イライザは頷いて立ち上がった。

 緊張のあまり口の中が乾くのがわかる。心臓がひどく跳ねる。手がどんどんと冷たくなっていく。

 足元を見たまま、長すぎるほど長い廊下を歩く。

 この家の当主である兄コンラッド・アシュレイの部屋へと向かっていった。

 イライザはコンラッドの部屋の扉を叩いた。


「入ります」

 

 ドアノブを回すと、金属の擦れる音がして扉が開く。


 窓に向かって一人の少壮の男が立っていた。降り積もる雪を見ているようだった。 

 イライザと同じ亜麻色の髪。背中からも漂う傲岸さ。兄のコンラッド・アシュレイだ。


 兄は全くイライザのほうを見ずに口を開いた。


「イライザ」

「はい」

「お前、嫁げ」

「……?」

「嫁げ。相手は名門の侯爵だ。道端に投げ捨てられた糞尿より用をなさない出戻りのお前にとっては奇跡的な縁談だ」


 ──道端に投げ捨てられた糞尿より用をなさない出戻り。


 イライザはうつむいた。

 兄のコンラッドが前の夫と強引に離婚させたのだろうに。 


 コンラッド・アシュレイは新興財閥であるアシュレイ家の当主。自らの基盤を固めるために次々と妹たちを国の有力者たちに送り込んできた。

 ちょうど国の有力者たちも莫大すぎるほど莫大な資産を持つアシュレイ家の支援が得られるとなれば目の色を変えた。


 一緒にアシュレイ家と事業を行ったり、アシュレイ家に便宜を図ったり……。


 しかし、コンラッドは手段を選ばない。

 イライザの二番目の姉、彼の妹であるはずのエレノアの結婚をコンラッドは弄んだ。

 エレノアは美しい容姿のため、求婚者が続々と現れた。ゆえに兄はあることを思いつく。

 妹であるエレノアをにかけたのだ。文字通りの競売オークション。最も多く金を出せた人間がエレノアと結婚できると。

 その時の恐怖にエレノアは心を病んで──今は入院している。


 イライザ自身も似たりよったりだ。

 コンラッドの命令でイライザが前の夫のアルヴィンと結婚したのは寄宿学校を出てすぐのこと。アルヴィンが有望な貿易商だったからだ。だがアルヴィンはコンラッドの思ったようには成果を挙げられなかった。

 すぐに離婚を命じられた。だが直後、アルヴィンの事業が当たった。


 悔しくなったコンラッドは、イライザが無能で内助の功が足らないから離婚させてやったという話にすり替え始めた。


 それ以降、イライザは兄に無能だとか糞尿以下だとか罵声を浴びせられながら、アシュレイ家の広大な屋敷の隅で幽閉されるようにひっそりと暮らしている。


 本当に、イライザにはアンジェの書いた難しい小説を読むことしか、楽しみはない。



 兄の言葉に何も答えられないでうつむいていたら、コンラッドの吸っていた葉巻シガーが飛んできた。

 イライザの手に当たる。

 じゅ、という音がしてすぐに手の甲が赤くなった。ひりひりとした感触に急いでもう片手で手の甲を押さえる。


「返事をしろ」


 兄は「はい」としか答えることを許さない。


「はい」


 するとコンラッドはようやくイライザをまともに見た。口の端を酷薄に吊り上げながら。


「そうか。それは嬉しい。さすが我が妹だ。侯爵殿下も喜ばれよう。ずっとお前をご所望でな。無能な出戻りですがと申し上げても、構わぬとおっしゃった。せいぜい可愛がられると良い」


 どのような侯爵なのだろう。薄気味悪さが心を支配する。


 ふつう貴族は、相手が初婚であることを重要視する。 

 貞潔と美徳を重んじるこの国では、特に女性が離婚と再婚を繰り返していると白眼視される。

 貴族は体面を重んじる。人生の晴れ舞台である結婚で白眼視はされたくないだろう。

 特にイライザと年齢が釣り合う侯爵であれば。それに、結婚適齢期の男性貴族は引く手あまただ。出戻りのイライザを選ぶ理由はない。

 しかも、貴族の令嬢たちが多くいる中で、新興財閥であるアシュレイ家の娘を選ぶなど──。

 爵位だけは持っている困窮した粗暴で好色な老人、以外には考えられない。


(でも……お兄様には逆らえない……)


 感情を殺すしかない。

 侯爵夫人と呼ばれながらも、好色な老人の玩具おもちゃとなる生活に耐える準備をしなければ。

 自分の人生は兄の道具として、家族の道具としてそこにあるだけ。


 兄に向かって美しく礼をした。


「よろしくお願いします、お兄様」

「よろしい」


 コンラッドはその時のイライザの顔を見て心底嬉しそうに笑った。

 そして、イライザに見合い写真を手渡してくる。


「このお方だ。お前には懐かしいんじゃないか?」

「……と申されますと」



 見合い写真を開く。


 想像よりもはるかに若い男がいた。


 白黒モノクロームの写真でもわかる端正すぎるほど端正な容姿。すらりとした体つき。神か悪魔がことさらに丁寧に作ったのだろうかと思われるほど完璧な目鼻立ち。少し目の辺りにかかっている優雅な黒髪は官能的だった。形の良い唇。

 そしておそらくその長い睫毛に覆われた瞳は──イライザの記憶が間違っていなければ、紫水晶を思わすような紫。


 イライザは絶句した。


 コンラッドの冷酷な顔を見上げる。コンラッドはイライザの顔を見て冷たく吹き出した。


「エクセウィック侯爵、メイナード・クリストファー・エヴェリット殿下。エヴェリット家は国王陛下のおそばに代々お仕えする忠臣。メイナード殿下は貴族院議員として大変ご活躍中。我が家としては政界に食い込む良い機会だ。そして──朗報じゃないか。お前の三つ年下の幼馴染だろう?」


 ははははは、とコンラッドは高笑いした。

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