1-3
俺は「あーし、吸血鬼なんだよね」と瞳を真紅に染めた彼女をただ見上げていた。
地味に一人称が『私』から『あーし』に変わっている。つまり、猫を被っていたということなのだろう。
こっちが彼女の本性ってわけだ。色んな意味で。
さて、真中さんが吸血鬼であることはとりあえず信じることにしよう。
その上でどうすればいいのか。このままだとマジで殺されちゃいそうだ。もちろん死にたくはないので、可能な限り足掻いてみることにする。
「もうちょっとだけ時間もらえるかな。最後だと思ってさ」
「……何?」
お、チャンスタイム継続だ。
「なんつーかさ。いくら吸血鬼でも、人を殺したら警察に捕まっちゃうんじゃないの?」
「はっ」
鼻で笑われた。我ながらこの状況で何を言っているんだって話ですけどね。
吸血鬼に日本の法律とか通じるわけないか。治外法権ってやつだ。
「――――衛藤くん。自分を自分たらしめているものってなんだと思う?」
「なぞなぞ? あんまり得意じゃないなー」
この俺、衛藤英吉を衛藤英吉たらしめているものか。
「何だろうね、周囲との繋がりとか?」
親がいるから子である自分がいて、女性がいるから男の性を発揮することができて、真面目でいい友達がいるから俺のクズさが際立って、そういう他者との連関の中でかろうじて存在できている曖昧な現象というかさ。
自分が自分である確固たる理由や根拠のようなものを俺は知らない。
「……思ったよりしっかりした回答で驚いた」
「もっと褒めてくれてもいいよ」
「けど残念。あーしの求めてた回答ではないから」
「ちぇー、じゃあ正解は?」
なんか緊張感がなくなってきた。
どこか緩い空気と言いますか。このまま頑張って会話を続けていたら、惨劇を回避できるかもしれない。よーし、頑張るぞー。
「別に正解があるわけじゃないけどね。衛藤くんさ。急に記憶喪失になったとして、『記憶がなくなった後の自分』は今までの自分と同一の存在と言える?」
なるほどね、そういう話か。
「いや、言えないかな。今までの経験や積み重ねが自分を作っている。それがリセットされてしまったら、自分が自分である根拠を失う。俺という存在は、昨日と今日、そして明日が地続きである前提によって成立している。記憶の連続性があるから俺は俺なんだ」
よく哲学分野で俎上に載るテーマだ。『私』とは、自己同一性とは何かってやつだね。
そんなことを考えても仕方がないように思うが、思考実験としてはやっぱり面白いし、誰だって一度は考えたことがある疑問だよな。
「そうね。記憶の連続性が損なわれることは一種の『死』だとあーしも思う」
どういう訳か真中さんは唇を噛んで悔しそうな……否、苦しそうな顔をしている。
「言いたいことは理解したけどさ。それでこれって何の話?」
「だいぶ回りくどかったね。衛藤くんの最初の疑問に答えると『衛藤くんを物理的に殺害するわけじゃないから、あーしは警察に捕まらない』になるのかな」
この話はそこに繋がってくるのね。
「でも、俺は死ぬと」
「今こうして話している衛藤くんは間違いなく」
話の流れ的に記憶の連続性に影響がある『何か』をされる、ということなのだろう。
でも、何だよそれ。全くもって想像がつかないぞ。
「ちっとも分からん。勿体ぶらずに教えてちょーだいよ」
「――――簡単に言えば、一種の洗脳かな」
「え?」
真中さんの紅い瞳が鋭く煌めいた。空間の彩度が下がり灰色に染まっていく、そんな中で彼女の瞳だけが色を強めている。そんな錯覚に陥る。
「あーしは〈魅了〉って呼んでるんだけどね。この紅い瞳に魅せられた人間は『あーしの命令に従う』ようになる。どう、すごいでしょ? 吸血鬼の力って」
「俺にその能力があったら、絶対に世界中の女子をメロメロにしてるな」
「……衛藤くんすごいね、怖くないんだ」
呆れたような、感心したような、真中さんは曖昧な笑みを浮かべる。
「それともこの状況が分かってない? さっきの話で理解できなかった?」
「理解はしているつもりだよ。君に操られた人間はこれまでの過程をすっ飛ばして、命じられた行動を取るようになる。つまり、自己の連続性を失う。そういう意味で『今』の俺はここで終わるんだろうね」
荒唐無稽な話だけど、彼女が嘘を言っているように見えない。
きっとその〈魅了〉とやらで俺は洗脳されて、そこから先は新しい衛藤英吉がよろしくやってくれるんだろうな。
「それが分かってるのに冷静だよね」
「実感が湧かないって言うかさ。案外、今際の際ってこんなもんなのかもよ?」
死とか経験したことないからな。どうなるか分からん。
「君って面白いよね。なんか消しちゃうのは惜しい気がしてきたよ」
「マジで!? じゃあ、この辺で手打ちってことで!」
磨いてきたユーモアで生き残れるかもしれない。
「でも、残念ね。ここまで喋っちゃったから、どっちにしろ生かしておけない」
「ダメかー。じゃあ、もういいよ。一思いにやってくれ」
どうせ死ぬんだったら格好良く死のう。潔く終わろうじゃないか。
はぁー、終ぞ分からなかったな。そう考えれば、この幕引きも俺らしい。相手を知りたくて馬鹿なことをしてきたけど、最後まで分からないままで終わるんだ。
「運が悪かった……そう思って」
彼女がこんなにも悲しそうな顔をしているのに、そのワケを知ることも叶わない。
――――刹那、彼女の紅が世界を染め上げた。
「バイバイ、もっと衛藤くんと話してみたかったよ」
ん、ありゃ?
「ってことで、ニュー衛藤くん。これから馬車馬のように頑張ってもらうから」
やっぱ、そうだよな。この感じ。
もしかして揶揄われているのかもしれない。ここまでの全部が迫真の演技で、数秒後に士郎とか大輝が「ドッキリでした!」とか言いながら出てくる的な。
「……あのさ、真中さん。なんか俺には効いてないっぽいんだけど?」
「え? えええええええええええええええええええええ!!??」
真中さんの反応的にドッキリの線はなくなったな。そうなると――
「自分を吸血鬼だと妄信している可哀想な人か」
「なんで? 〈魅了〉が効いてない! こんなこと一回もなかったのに!」
「そもそも『魅了』ってすごいよな。どんだけ自分に自信があるんだ」
「うっさいわね、さっきから!」
髪を振り乱しながら、金切り声で文句を言ってくる。
陰があって仄かに危険な香りがした、あの独特な雰囲気は霧散していた。
「一応、確認しとく。もし、あーしが死ねって言ったらどうする?」
「普通に断るけど」
あと、人並みに傷付きます。女の子からそんなこと言われたらね。
「な、何なのよ、もう! どうして、衛藤くんには〈魅了〉が効かないのよ!」
「俺は今でも君にメロメロだけど?」
「うるさいなぁ! ホント生意気なガキ!」
ガキってヒドいな。確かに真中さんは大人っぽいけどさ。俺だって周囲よりは大人っぽいと評価されることが多いんだぞ。
だから、こんな扱いを受けるのも新鮮って言えば新鮮だけどね。
「ったく、やってられないわー」
「ちょ、ちょっ!? 何やってんの!?」
目の前で信じられないことが起きていた。
何の脈絡もなく、真中さんはブレザーとリボン、そしてスカートを脱ぎ捨ててシャツ一枚になる。はい、意味が分かりません。
しかもYシャツの裾が短いこともあって、おパンツが丸見えである。
ちなみに色は黒でした。ふーん、エッチじゃん。
「サービスよ、サービス」
「あ、ありがとうございます?」
この人の頭がおかしいことは一旦置いといて、とりあえずお礼を言っておく。
眼福です。何度見ても女性の下着のデザインって美しいよね。あのヒラヒラ感と蝶や花の模様が扇情的すぎる。
男である限り、あの魔性には抗えない。
「えっとー、どこにやったけー。……あー、あったあった」
気怠そうに真中さんはスクールバッグをガサゴソとやっていたが、何とかお目当てのものが見つかったらしく箱のような物体が取り出された。
コンドームの箱……いや、違う。あれは――
「タバコ!?」
唖然としている俺に目もくれずキッチン前まで移動する。換気扇のスイッチを押すと、慣れた手つきで火をつけ、白い煙をするすると宙に向かって吐き出した。
「ふぅー、生き返るわー」
「おい、高校生がタバコ吸うな!」
「制服は脱いだじゃん」
「そういう問題じゃなくないか!?」
急に制服を脱いだのってそういう理由かよ。なんかもう前提条件からして間違っているので、どこから手を付ければいいものか。
「今はコンプラとか厳しいからねー。そういうのにも配慮しないと」
「人の家で勝手にタバコ吸ってるやつに、コンプラを語られたくないんだけど?」
「ぷはー」
こっちの抗議は右から左で、美味そうにほっそいタバコをふかしている。
「換気扇の下で吸ってるじゃん」
「そういう問題じゃなくて、そもそも未成年だろうが」
俺にモラルの話とかさせないでくれよ。
酒とタバコは二十歳から。学校にバレたら停学、下手すれば退学だってあり得る。
「そこから説明しないとか―」
「説明?」
「あーしさ、真中茉莉ちゃんではないんだよ」
「……はぁ?」
また哲学的な問答をしようってことなのか。
これ以上、混乱するようなことを言わないでほしい。
「元のあーしは二十歳の無職。いわゆる高等遊民ってやつよ。株を転がしながら、タワマンで悠々自適に暮らしてる。」
「すまん、さっぱり分からん」
どんどん設定が増えていく。要領がいい方だと思うけど処理しきれない。
「だーかーらー、本物の真中茉莉ちゃんと入れ替わってるの!」
「入れ替わっている?」
「そうそう。新宿で偶然すれ違ったんだけど、顔がそっくりだったからさ」
「ちょっと待って、まさか殺したとか言わないよな……?」
なんか有耶無耶になっているが、彼女は自身を吸血鬼だと言った。人ならざる存在。そんな彼女が高校生の女の子と入れ替わった。……一体、どのようにして?
「殺すとか物騒だなー。普通に立場を交換したの。本物の真中茉莉ちゃんは絶賛タワマン生活を謳歌してるよ」
「……ダメだ、頭痛が痛くなってきたぞ」
思わず二重表現になってしまうくらい頭が痛い。
一度整理しよう。目の前の女性は吸血鬼であるらしい。さらに本物の真中茉莉と入れ替わっている。真の姿は二十歳で無職の高等遊民だとか。
この冗談みたいな盛り盛り設定を一旦信じるとして。
「貴方の目的は? 真中さんと入れ替わって何がしたい?」
女子高生に成り代わってどうするつもりなんだ。
その目的が分からないことには、彼女をどのように評すればいいか判断できない。
「そ、それ……言わなきゃダメなの……?」
真中さんモドキは頬と耳を赤くしてモジモジし始める。
何だよ、そのちょっと可愛いらしい反応。
「ここまで巻き込まれたからなー。知る権利はあると思うけど」
「そ、そうだった! 君は知り過ぎてしまったんだよ!」
「いや、言っても信じてもらえないって」
頭がおかしくなったと普通に心配されるだけだ。
真中さんが実は真中さんじゃないとか、そんでもって実は吸血鬼だったとか。
「と、とにかく! 〈魅了〉で操れないからには最終手段よ!」
「最終手段?」
吸血鬼にはまだまだ隠された能力があるということなのか。
「脅迫します!」
「吸血鬼、関係ないやん」
「うるさい! それで従うの? 従わないの!?」
「脅しの内容次第じゃない?」
やっぱり、殺されるとかは勘弁願いたい。
「ちょ、ちょっと考える!」
「考えてないのかよ」
この人、意外とポンコツかもしれないぞ。どうするんだよ、この空気。今から何を言われても怖がることはないと思うんだが。
「えと、じゃあ……こ、これはどう! 従わないとあーしの『眷属』にする! 同じ吸血鬼になって、人の生き血を吸うことでしか生きられない体にしてあげる!」
なるほど、吸血鬼ならではの脅迫だな。しかも、俺に対しては有効だった。
「頼む、それはやめてくれ……」
「え、そこまで吸血鬼になりたくないの?」
脅しが通じたのに、真中さんモドキは悲しそうにしていた。
「そんなに意外だったか?」
「べ、別に!? ……ただ、あーしの五年間は最低なんかじゃない。どこかでそう思いたかっただけよ」
彼女は陰りのある表情をして俯いた。
またしても孤独の匂いがする。そうやって自分の殻に籠ろうとする彼女を放っておくことができなかった。
「……吸血鬼をそこまで悪く言いたいわけじゃない」
「え?」
「その、なんて言えばいいんだ。あぁ、クソ! 俺は、ちょっと……ちょっとだけ! 血が苦手なんだよ!」
昔からあの赤黒い色が苦手なのだ。健康診断の採血は絶対に目を逸らす。
そんな俺が吸血鬼になったら餓死する未来しかないだろ。だから、俺は吸血鬼になりたくはなかったんだよ。
あぁ、もう超ハズいな。こんなこと言うつもりなかったのに。
「――ぷ、ぷははっ!! マジな顔して何言ってるの! あはは、おっかしいー!」
「ば、バカにすんな!」
初めて彼女が大口を開けて笑うのを見た。その顔から目が離せない。この屈託ない笑顔を見ていると、俺は安心することができた。
理由は定かではないが、この人にはこうして笑っていてほしい。心からそう思う。
「ひーひー、あー、笑い過ぎてお腹いたーい。……じゃあ、さ」
ひとしきり笑い終えた後で、真中さんではない彼女がこちらに向き直った。
「脅しは有効ってことでいいんだよね?」
「まぁ、そうだな」
この人の能力がはっきりしない以上は、とりあえず従っておくのが安全だろう。
それに、俺は知りたいんだ。他者を。自分以外の誰を。――そして、愛を。人ならざる存在の吸血鬼と関わることで、逆説的に何か掴めるような気がする。
「ってことで、君にはあーしが『最高の高校生活を送る』サポートをしてもらうから!」
「ん……?」
どうしよう、ちょっと何言ってるか分からない。
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