第7話 侍女
男爵の悪謀を挫いてから数日後。
イシュタリア帝国、第8代皇帝カール・ティハーンの長子であり、次期皇帝を約束された男、レオンハルト・ティハーンは--自室でせっせと小筆を動かし、
こう見えて彼は、皇太子らしく公務や勉学、訓練などで、中々に忙しい日々を送っている。この絵付けの仕事なら隙間時間でできる。行きつけの酒場で頼み込み、紹介してもらった内職であった。
一セット(五十三枚)仕上げて、小銀貨一枚――一万リーン。月のお小遣いが大銅貨3枚、3,000リーンのレオンにとって、大金である。
これからセレスともっと
「よっし、これでまた1枚完成っと」
持ち前の器用さで奇麗に塗られた骨牌を脇に置く。そして新しい1枚を手を伸ばそうとした瞬間---コツコツ、と小さくドアが鳴った。
レオンは慌てて、内職セットを机の中へと放り込んだ。規則正しくかつ控えめなノックの音でわかる。家庭教師のセレスである。
厳格な彼女に
「うん、いいよ。入って」
レオンは一息ついてから、ドアに向かって呼びかける。
一拍も待たずに、すぐに扉が開かれた。
「殿下、失礼いたします」
予想通りにセレスが部屋へと入って来、レオンに向かって一礼する。
「・・・?」
レオンは首を傾げた。
セレス自身は貴族らしく黒を基調とした礼服に身をつつんでおり、今からでも式典に参加できそうなほどに折り目正しい。それはいい。セレスにとっては、いつものことだ。
だが、いつものとおりでないのは、その細い右手が、さらに小さく細い手を握っていたことだった。
「その女の子はどうしたの?獣人種じゃない?」
セレスは10歳ぐらいに見える、小さな獣人種の女の子を連れていた。
明るいオレンジ色の髪が窓から差し込む陽光を浴びてきらりと光る。褐色の肌にその色がよく映えていた。まだあどけない顔立ちだが、きりりとした猫目石の瞳は好奇心でキラキラと輝き、可愛らしい2つの獣耳が頭の上でピョコピョコと落ち着きなく動いている。
「んーーーと・・・君とは初めましてだよね?」
レオンは少女を見つめながら、記憶を探る。彼は皇太子という立場上、なるべく相手の顔と名前を覚えるように自分に習慣づけていたが、やはり心当たりはなかった。
レオンは事情を問いかけるようにセレスへと視線を移す。
だが彼女自身も経緯を良く呑み込めていないのか、盛んに首を傾げていた。
「今朝がた、突然に皇帝陛下からお呼び出しがございまして・・・この少女、ミーシャと言う名らしいですが、この子を侍女として、殿下にお仕えさせるようにとのことでございます」
「はぁ?侍女ぉ?いらないよ、今更そんなの」
レオンは眉を思い切りしかめ、はっきりと断った。彼は基本的に身の回りのことは自分やるタイプの人間であり、今更、他人にやってもらっても気苦労するだけである。
だが---
「・・・うぇぇ」
収まらないのは連れてこられた
「殿下、いくらなんでもそれは・・・」
あんまりな言い草に、セレスは非難を込めてレオンを見つめる。
「い、いや、そんなつもりはっ。ごめんっ!ごめんねっ!ほら、とっておきのお菓子あげるから!おいしいよ?」
やらかしを自覚したレオンが、机の一番下の引き出しから、慌てて焼き菓子を取り出し、ミーシャに手渡した。
少女は潤んだ瞳でじっと見つめていたが、やがて小さな口ではぐっと一片を齧り取った。とたんに喜びいっぱいの笑みが顔中に広がる。
「皇子様、ありがとウ!」
ミーシャが可愛らしい声と子供らしい仕草でお礼を言った。ふさふさの毛に覆われた細長い尻尾がクルクルと踊っている。
レオンはほっと胸をなで下ろした。いかにも子供だましだったが、子供らしく機嫌を直してくれたようだった。
だが安心したのも束の間、お菓子を食べ終わった少女は新たな火種を放り込んだ。
「皇子様、侍女がダメなら、お嫁さんにしテ」
ミーシャはしなを作るように幼いなりに首を傾げてみせる。
「ん~、お嫁さんはちょっと難しいかなぁ。でも嬉しいよ。ありがとう」
なんとも可愛らしいお願いに、レオンはハッキリと断ることもできず、曖昧に笑った。額には大粒の汗が浮いている。
「じゃあ---」
少女は愛くるしい唇を動かし、次なるおねだりを告げる。
「お嫁さんがダメなら、“お妾さん”にしテ」
レオンの動きが、上位氷結魔法を受けたようにコチンと固まった。
皇太子のお嫁さん。なんとも女の子らしい可愛い夢である。だが---“お妾さん”となってくると大分意味合いが変わってくる。
「・・・殿下?」
その証拠に
「知らないっ!僕は何も知らないよっ!」
レオンは首をブンブン振って、自分の無実を主張する。
だが、少女は容赦なくとっておきの爆弾を投下した。
「“お妾さん”もダメなら---“ペット”にしテ」
「ひぃぃっ!」
レオンは真っ青な顔で悲鳴を上げた。“お妾さん”を通り越して、“ペット”。意味合いが違うどころの話ではない。
「殿下ぁぁぁ!!!」
セレスの顔が炎を吹き出しそうほどに赤くなっている。少女の手を握っていたはずの右手も、いつの間にか魔剣の柄を握っていた。
「わかった、ミーシャ!侍女!侍女になって!お願い!」
レオンは叫ぶようにそう言い、がっくりと首を折った。
「エヘヘっ!皇子様、ありがとウ」
一方のミーシャは、嬉しそうにテテテッとレオンに駆け寄ると、太ももあたりにしっかりとしがみついて頬ずりした。
「うう・・・」
満面の笑みで自分を見上げるミーシャに対し、レオンはそれ以上何も言うことは出来なかった。
「フフッ、フフフッ、やっぱり兄様はいい反応をするなぁ・・・」
そんな時、開けっ放しになっていたドアの外側から、幼い少年のものと思しき、楽しそうな笑い声が聞こえた。
その声ですべてを悟ったレオンは、外に向かって大声で叫んだ。
「出てこい、アルフォンス !そこに居るんだろ!」
「やれやれ見つかっちゃったか。兄様には敵わないや・・・」
苦笑しながら姿を現したのは、兄と同じ金髪碧眼。レオンをそのまま幼くしたような少年であった。顔立ちや服装には累代の皇族らしい気品に満ち溢れている。彼もまた学問では(レオン以上の)優秀な成績を修めており、さすが尊き血筋と世間では讃えられている。ただ少し顔色が青白く、体の線も細く、腺病質な印象を見る者に与える。
しかし、そんな弟をレオンは容赦なく睨みつける。
「あんな笑い声を立てておいてよく言う・・・。それよりアル、これはお前の仕業だな?」
「仕業って・・・なんのこと?」
笑みを深くしながら、アルは首を傾げる。
明らかに全てを承知の上で、激怒する
「しらばっくれるんじゃない!お前が父上にミーシャを侍女にするよう進言したんだろう」
「・・・ああ、そのこと」
いかにも今、気づいたと言わんばかりに、芝居がかった仕草でアルはポンと手を打った。
「でも酷いなぁ・・・、兄様は。ボクはこの国の未来を思って行動したのに」
「はぁ?ミーシャが国の未来とどう関係するんだ?」
ミーシャがいくら可愛くとも、ただの獣人の女の子である。レオンには国の未来に関係するとは思えなかった。
「いいかい。ボクは今朝、帝都で大捕物があったって噂を聞いて、憲兵隊の詰め所に話を聞きに行ったのさ。なにせ親愛なるお兄様が大活躍したって言うじゃないか。居てもたってもいられなくてね」
「そういうのはいいから、さっさと話を続けろ」
あくまでも固い態度の兄に、アルはやれやれと片目を瞑った。
「詰め所には一人の獣人の女の子が居てね、『命を救ってくれたレオンハルト皇子にお仕えして、恩を返したい』って必死になって頼み込んでいたんだ。くぅっ、なんとも泣ける話じゃないか」
いかに感動したと言わんばかりに、アルが袖を目元をあてる。
とはいえ彼の目元には一滴の涙も浮かんでおらず、むしろ百年に一度も雨が降らぬと謳われるコンゴン砂漠より乾いていた。
「その健気な少女に心を打たれたボクは、父上にこう進言したのさ。『法で禁止したとはいえ、国内には獣人に対する差別がまだまだ残っております。そこでいかがでしょう、獣人の娘を皇太子の侍女とすることで、皇室として範をお示しになっては』とね」
「うっ・・・」
余りに巧緻を極めた
「つまりミーシャを侍女にしないということは、兄上は獣人に対する差別を認めるということに・・・」
「わかった、わかったよもう・・・」
レオンを降参したと言わんばかりに両手を上に上げた。
「だがアル、あのセリフはないだろう」
「・・・あのセリフ?」
「だからその・・・“お妾さん”とか、“ペット”とかだよ」
「ああ、そのこと!」
今度は本当に気づいていなかったらしく、神妙な顔で頷いた。
「いや、素直に侍女にしてくださいって言っても、兄様に言いくるめられる可能性があったからね。そこでちょっとした策をミーシャに授けたんだよ。」
「うン!アルフォンス様の言うとおりにしたら、皇子様、ミーシャを侍女にしてくれタ!ありがとウ!」
ミーシャがアルに向かって、額が床につきそうな勢いで深く腰を折った。
「で、でも・・・言葉の意味もわからない子にあんなセリフを・・・」
「フフッ、兄様も案外、子供だなぁ・・・」
それでも抵抗を続けるレオンに対し、アルは薄い唇をわずかに引いた。
弟に鼻で笑われた兄の顔が、更に引き攣る。
「女の子って意外としたたかなもんだよ?“お妾さん”や“ペット”がどんな意味かちゃんとわかってるさ。ねぇ、ミーシャ?」
「ごめんネ、皇子様。ミーシャあまりいい育ちじゃないかラ・・・。言葉の意味ぐらいはわかル」
言われたミーシャは悲しそうに目を伏せている。
「・・・ミーシャは悪くないよ。全部、目の前の悪魔が悪いんだ」
弟に完全にしてやられた兄は、そう言ってミーシャの頭を撫でることした出来なかった。
獣人種特有のふわふわした手触りのよさが、荒んだ心のせめてもの慰みだった。
「いやぁ、兄様にもついに侍女が出来てうれし・・・くっ!」
いかにも楽しそうに笑っていたアルが急に表情をゆがめ、ふらつく。
瞬時に人影が室内に飛び込んで来て、アルの体を支えた。
「・・・いつもすまないね、ノクス」
「いえ、執事の務めですから」
アルの執事であるノクスは、長身を屈め、無表情のまま
「どうぞ、こちらへ・・・」
アルは支えられるまま車椅子に導かれて腰を下ろし、息をついた。
「悪いね、兄様。驚かせちゃって・・・」
「いや・・・大丈夫なのか?」
レオンは心配そうにアルの顔を覗き込む。
弟の体が弱いのは知っていたが、こんなふうに倒れるのは初めてだった。
「うん、いつものことだからね。少し休めば、良くなるんだ。今日は調子いいと思っんだけどなぁ・・・」
アルは、いかにもつまらなそうに唇を尖らせた。
「アルフォンス様、そろそろ御典医による診察時間でございます。このまま向かいますが、よろしいですね?」
青年とは思えぬほどに低く落ち着いた声で確認をとるノクス。だが、冷たさは微塵も感じられなかった。丸眼鏡の奥から覗く瞳には、主の体調を慮る心情に溢れていた。
「ああ、仕方ない。よろしく頼むよ。」
アルはそう言って車椅子に深く体を預けた。
「バイバイ、兄様。また遊んでね」
「では、レオンハルト殿下、失礼いたします。」
ノクスは銀髪をオールバックにしっかりと纏めた頭をレオンにしっかりと下げてから、車椅子を押して、レオンの部屋を去って行った。
「アルフォンス様、お可哀そウ・・・」
小さくなって行く燕尾服の後ろ姿を見て、ミーシャが寂しげに呟く。
「早く良くなるといいんだけどなぁ・・・」
ミーシャの頭を撫でながら、レオンもそう呟いた。
「ところ・・・結局、殿下は、ミーシャさんを侍女になさるということで、よろしいのですね?」
ずっと話を聞いていたセレスが、話をまとめるようにレオンへと尋ねる。
「そうだね、そういうことになるかな。よろしくね、ミーシャ」
レオンは腰をかがめてミーシャの目線に合わせ、右手を差し出した。
だが、ミーシャはその手を取らずに一歩下がる。そして、スカートの左右の端を摘まんで掲げ、深くお辞儀をした。
「これから皇子様にお仕えいたしまス、ミーシャ・セフィルドと申します。よろしくお引き回しのほどをお願いいたしまス」
誰に教えられたのか、帝国様式に則った見事な礼であった。
セレスが満足げな顔で頷く。
だが、そんなミーシャをレオンは困ったように見つめていた。
「うーん・・・ミーシャにお願いがあるんだけど。--僕と友達になってくれないかな?」
「エ?友達ですカ?」
「ああ、僕はあまり堅苦しいのが好きじゃなくてね。もちろん公的な場では、侍女として振舞ってくれないと困るんだけど、こういう親しい人しかいない場なら、友達になってほしいんだ」
「え、えート・・・」
ミーシャは困惑した顔でレオンの顔を見上げ、続けてセレスの顔を見る。
セレスは顎に手を当てて少し考える仕草をした後、
「殿下がそう望まれるのでしたら、構わないでしょう」
そう言って、首を縦に振った。
そして---
「殿下はご友人が少ない方ですし」
とも言った。
「そういうのいちいち言わなくていいから」
余計なことをばらす家庭教師を、レオンは半眼で睨む。
もちろんセレスはレオンに睨まれた程度ではビクともしない。
「ミーシャさん、さきほど殿下もおっしゃいましたが、くれぐれも公的な場では侍女として振舞う事を忘れないでください。何かあれば殿下にご迷惑をおかけするだけでなく、あなたも侍女を続けられなくなりますからね?」
セレスはミーシャに対し、真面目な顔で釘を刺した。
「うン・・・、じゃなくテ、はイ、分かりましタ」
ミーシャも真面目な顔でしっかりと頷く。
「ああ、それから私とも友達になってくれませんか?」
そんなミーシャに向かってセレスが今度は片目を瞑って笑う。
普段は謹直な彼女らしからぬ、悪戯っぽい笑みだった。
そんな彼女の笑顔を初めて見たレオンの心臓が思わず高鳴る。
「よろしいのですカ?」
「ええ、ミーシャさんさえよろしければ、ぜひお友達になりましょう」
「うン!よろしク!」
セレスが差し出した手を、ミーシャは弾ける笑顔でしっかりと握り返した。
余りに嬉しかったのか、目にはちょっぴり涙も溜まっている。
そんな光景に感動したレオンは自分も右手を差し出した。
「じゃ、今更だけどセレス、僕たちもまずはお友達に・・・」
「それはお断りします」
清々しいまでの一刀両断だった。これが戦闘であれば、レオンの体は右と左ではんぶんこになっているところである。
「なんでぇ?」
断られたレオンは涙目で息も絶え絶えだ。
「子供のミーシャさんならともかく、成人している私が殿下とお友達になれる訳がないでしょう。身分の差を弁えてください」
「はぁ・・・セレスはそういうところ、本当に真面目だよね」
レオンは憂鬱な顔でそうボヤいたが、心の中では嫌われているからではないと知って、ちょっぴり安堵していた。
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