カタカタ~瑕疵物件の彼女~

八起燈

カタカタ~瑕疵物件の彼女~

新年を迎えて新居に引っ越した。かねてより何らかの事故があった部屋……『瑕疵物件かしぶっけん』と噂され、忌避きひされていた。

都市部の高層階、80㎡の3LDK、足を伸ばせる風呂、玄関はオートロックでターミナル駅から5分の優良物件。

これが共益費込み4万で借りれたのだから奇跡だ。

近所の目?気にしないよ。ここは私の城。

 

この部屋では夜になると、誰もいない部屋からカタカタと音が鳴る。

そして時折、黒い煙で燻したような人影が空間を濁す。朧気だが女性のような形をしている。何かを警戒している様子だ。

『彼女』は特に何かをしてくるわけでもない。

ただ決まって、私が一人で寂しさに浸りながら酒を飲んでいるときに現れる。

彼女の姿は、私を憐れんでいるようにも思えた。

時には壁の隅から、時には押入れの中からこちらを覗く。

 

カタカタとわざわざ音を鳴らすのは何だろう?

寂しいから?

そう思うと、不覚にも誰かといる安心感を覚えた。

私はそんな『彼女』に興味を持つようになる――。

ハイボールを片手に見る窓の景色。

街の明かりが幾重にも幻惑のレイヤーとして折り重なる――。

背後には確かな視線。

彼女も一緒に見ているのだろうか――。

 

   *

 

数日が過ぎた。

ある日、私は二つのグラスを用意する。

この日もカタカタと奥の部屋で物音が鳴っている。

 

私はわざと声をかける。

「おーい、君もハイボールでいいのか?私はこれから飲むぞ」

 

音が消えた……。

その瞬間――。

 

奥からドン、ドンと壁を強く叩く音。

 

さすがに私も驚いた。

しかし何を意図しているのか分からない。

 

――話しかけたから気に障ったのかもしれない……。

それともハイボールは嫌いなのかな?

 

私は一呼吸の間を置いて、話を続ける。

「すまないね。好みじゃなかったかな。しかし私は病気でね、長く生きられない。何なら憑り殺してくれても構わない。……私のは――もう治らない」

 

返事は返ってこない。

代わりに小さくカタカタと物音が鳴る。

 

ハイボールを飲みながら独り言を呟く。

「せっかく君が棲んでいた部屋だったのに、よそ者が来てすまなかった。私もどこにも行く当てがない根無し草だ。そういう意味では君と同じだ。」

 

奥の部屋からは応答がない。

 

私はハイボールを飲み干して窓ガラスのカーテンを閉めた。

応答がないのが少し寂しい。

寂しさ紛れに適当な言葉を発する。

 

「もう寝るよ。ハイボール、置いとくから飲んでくれると嬉しいよ。君は危害を加えるような感じじゃなさそうだ。友達になりたいんだ」

 

すると奥の部屋からカタカタカタカタ――と、いつもより速く音が鳴った。

「おやすみ」

電気を消して寝室のベッドに沈みこんだ。

 

アラームの音で目覚める。

――朝5時。

空はまだ薄暗く、窓の外の風景はまだ街灯が煌々としている。

 

テーブルの上のグラスにはハイボールが入ったまま。

グラスを片付けようと手に取ったとき――。

湿った手の跡がついていた。

普通の人ならゾッとするのだろう。

だが私は、少し口を綻ばせる。

気に入ってくれた――。

微笑んで呟いた。

「お粗末様でした――」

 

……奥の部屋からは僅かにカタカタと音が鳴っていた。

 

私は、この瑕疵物件が好きになった。

死を間近に見ている私にとって、死人が一人見えようが、どうでもいい。

むしろ私の孤独の渇きを潤すために一役買ってくれている。

 

皮肉なものだ。

生身の人間で得られなかった充足感を実態の無い者から得ているのだ。

 

毎日、2杯の酒を注いだ。

毎日、2皿の料理を用意した。

 

もちろん1セットは減ることが無い。

ただ翌日には必ず、グラスと箸には手の形が残る。

私はそれを『交流』と捉える。

その交流の証に、カタカタという物音が近くなっていた。

私は数か月間、確かに満たされていた。

 

すい臓がん、末期。

緩和ケアか、自由な生活――私は後者を選んだ。

最期くらい好きに過ごしたい。

不治の病で働けない私は、貯金をみるみる減らし、ついに底を突いた。

そしてこのところ、痛みが徐々に大きくなっていった。

 

ある時私は、激しい腹痛で倒れた。

胸や頭もズキズキと痛む。

意識が朦朧とする中、私は思う。

――そろそろ頃合いかな……。

 

この日、私はハイボールを一つと水を用意した。

ハイボールは彼女に、水は私に。

ハイボールのグラスには私のメモ書きを挟む。

“ありがとう。ごめんね”

 

私はためていた睡眠薬をシートからパキパキと全て開封する。

それを水と一緒に一気に流しこんだ。

 

『彼女』に言った。

「今日はちょっと早めに寝るよ。君はゆっくり飲んでて」

そう言うと寝室のベッドに滑り込む。

   *

 

しばらくすると激しい頭痛とともに末端の感覚が鈍くなる。

体も焼けるように熱い。

真っ暗な寝室で、一人で悶え苦しむ。


カタカタ――。

その時、私の手に冷たい感覚が伝う。

誰かが握りしめている。

しかし氷のような冷たさだ。

 

私は必死に瞼を割って周りを見た。

朧気に見える、暗闇に浮かぶ像が一つ。

女性がベッドの横で泣いている。

黒い洋服に白い肌——。

彼女はおそらく……いつもの黒い影――。

 

何を訴えて泣いているのかはわからない。

しかし、とても悲しそうな顔をしている。

彼女の冷たい手が、沸騰しそうな私の体温を下げる。

その感覚だけで、安堵感が私を包んだ。

そしてその顔が少し愛おしく思えた。

私は激しい苦しみにも関わらず、結んだ口が少し綻ぶ。

そして――安心して逝けた。

 

激しい頭痛と眠気の中、網膜にはその姿だけが鮮明に映っていた。

――私はそれから目を覚まさなかった。

  *


翌朝、ハイボールのグラスのメモには濡らした指を這わせたような淡い文字が記されていた。

“ありがとう。うれしかった。”

あの部屋の家賃はさらに下がり、まだ瑕疵物件のままだ。

あれからカタカタという物音は聞かなくなった――。

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