私の中の拳銃 -ジェニファー・ベスの場合-

HOSHIYUKI

私の中の拳銃 -ジェニファー・ベスの場合-

​1. 秋の晴天と孤独な発見

​ 抜けるような秋の晴天の下、ニューヨークのセントラル・パークは、黄色く色づいた葉が舞い、子供たちのはしゃぐ声とジョガーの息遣いで溢れていた。ここはマンハッタンアッパーイーストサイドの富裕層の「裏庭」。

​ ジェニファー・べスは、「平凡な妻」としてのルーティンから逃れようと、公園のベンチで昼食をとる事にした。自分で詰めた小さなロブスターロールと有機野菜のサンドイッチを広げ、乾いた生活を目の前の光景で満たそうと勤しんでいた。周囲の「幸せな家族の完成された光景」は、彼女の満たされない孤独な時間に浮かぶオアシスだった。夫のジュリアン・バスはウォール街の成功者。金銭的な不安はないが、何一つ変化のない日常の中で、自分を顧みない夫への不満は、静かに蓄積していった。

​ 食事が終わり、ゴミを捨てようと公園の端、人目につきにくい植え込み近くのゴミ箱を覗いた瞬間、ジェニファーの呼吸が止まった。

​ スタバのゴミや紙クズに紛れて、映画でしか見たことのない黒光りした小さな拳銃が新聞紙に雑にくるまれて、そこに落ちていたのだ。


​ 彼女はとっさに周囲に誰もいないことを確認すると、お弁当を包んでいたコーチの白いハンカチでその拳銃をくるみ、人目から逃れるように、トリーバーチのバッグの奥底にしまい込んだ。


それは、社会的な役割から見捨てられた何かと、自分の心がリンクした衝動的な行動だった。


​2. 安全装置:日常という名の抑制

​ 高級アパートメントに戻ったジェニファーは、誰にも見つからないよう、拳銃をオープンキッチンの戸棚の奥、めったに使わないアンティークのティーセットの下に隠した。それが本物かどうかなど、深く考えず、好奇心に任せて食い入るように色々な角度からその拳銃を観察していた。しかし、それは同時に彼女の日常に、「危険な好奇心」という水滴を落とし続けた。

​ 夕食の準備までの間、ドイツ製食洗機の立てる均一で単調な稼働音だけが響く中、ジェニファーはそっと戸棚を開け、ずしりと重い塊を手に取った。

​ 誰もいないキッチンで、人差し指を冷たい引き金にかけた。

​「これで……あなたはもう終わりよ」

「手、上げなさい」

​ ジェニファーは、その本物かもしれない、そしてその物珍しい拳銃を手に、はしゃぐ大学生のように、そして映画のヒロインのように壁にかけられた鏡の中の自分を楽しんでいた。


​ そしてそれは

少しだけ強くなれた気がした。


​ 部屋の隅にあるスマートスピーカーから、無機質な女性の声が流れる。

​「ジェニファー様、キャサリン様とのランチのご予約時間まであと30分です」

​ ジェニファーはビクッと身体を震わせ、慌てて拳銃を戸棚に戻した。

 それは日常のルーティンという名の理性の「安全装置」が、強制的に作動した瞬間でもあった。


​3. レストランの静かな反抗


​ ミシュラン三つ星レストラン「ル・ベルナルダン」でのランチ中、ジェニファーは友人キャサリンからいつものように夫への不満を延々と聞かされていた。

​「ねえ、ジェニファー。さっきね、お手洗いに行く時、あなたが大学生の頃と全く変わらないプロポーションに、つい見惚れちゃったわ。本当にあなた、あの頃チアリーディングでセンターだった、あの凛とした美貌が、こんな優雅なマダムになっても衰えないなんて。驚きよ。

あの時のあなたは、まさにアメフトチームの獲物だったわ」

​ この「獲物」という言葉に、ジェニファーの顔から一瞬笑顔が消える。

​「あら、キャサリン。お世辞が上手ね。でも、ジュリアンと出会った頃のことなんて、もう遠い昔の話だわ」

「うちのマークったらさ、最近またゴルフばっかりで、全然家族に関心がなくて!本当に頭に来ちゃうわ。そう思わない?ジェニファー」

​ ジェニファーはあくまで上品な笑顔で、「うちは別にそんなことは……大丈夫よ」と、空虚な嘘をついた。

​ 彼女にとって、「エリートの妻」というイメージを守り抜くことこそが、内なる衝動を抑え込む「安全装置」だった。

 この嘘が、「成功者の妻」というイメージを守り抜く彼女の最後の砦だった。が、今は彼女の意識は、戸棚の拳銃の「危険な誘惑」へと心囚われていった。

​ ランチを早めに切り上げ、家に帰るとすぐにジャスミンのアロマの香るキッチンへ。戸棚から拳銃を取り出し、夕食の支度をしながら、台ふきの上に静かに置いた。


​4. 引き金と対話の試み

​ 夕食の準備を大方済ませ、ジェニファーはキッチンで夫・ジュリアンの帰りを待つ。家の外に黒塗りのタクシーが止まり、玄関の外からはジュリアンと誰かとの親密な笑い声がかすかに聞こえた。それは、いつものアバズレ達の声。でもそれもジェニファーにとっては時計の秒針の音のようにしか感じられない一つの習慣だった。

​「あなた、今日もお仕事お疲れ様でした」

​ ジュリアンの脱ぎ捨てた上着のポケットに嗅ぎなれない香水の匂いと共に、知らない女性の走り書きのメモを見つける。これも既に日常的な風景。彼女は静かに、しかし力強くそのメモを握りつぶし、ゴミ箱へ捨てた。

​ 「ご飯にします?」

 そう優しく問いかけるジェニファーだったが

 ジュリアンは何も答えず、スマホに夢中なまま、見もしない4Kテレビをつけた。

​「ねえあなた、今日、新しいお料理に挑戦したの。お味試してみて?」

​ ジュリアンはまるでジェニファーがそこにいないかのように、スマホに夢中なまま言った。

「ビールはあるか? キンキンに冷えたやつが飲みたいな」

​ この瞬間、ジェニファーの頭の中で「カチリ」と何かが外れる音がした!

​ ジェニファーは無言でビールを手に取り、ジュリアンのグラスに注ぐと、それをジュリアンの頭めがけて浴びせたのだった。

​ そして、キッチンの端に置かれた拳銃の方に手を伸ばすと、まるで意思を持ったかのように震え、スローモーションのように宙を舞い、見事なタイミングでジェニファーの手に収まる。その勢いのまま、冷たい銃口はスッとジュリアンの後頭部に収まっていった。


 ジェニファーは1度。ゆっくりと大きく深呼吸をした。


​ビールを頭から浴びたジュリアンは

「何をする!」

と怒鳴りながら振り返ると、その眉間には拳銃の冷たい銃口があった。

​「は? お、おい拳銃?お前そんな、そんなもの何処から?」

​ ジェニファーは言う

「そんな事どうでもいいでしょう!毎晩、他の女とスマホに忙しい毎日で私のことなんか何も気にしていない!こんなもんがないと、私と会話すら持てないなんて、私たちの関係を何て言ったらいいのかしら!」

​「いいから、一旦落ち着こう!」

​「一旦落ち着こうって何よ!私はもう何年も前から、十分すぎるほど落ち着いているわ!」

​ そう言うと、ジェニファーは今度はジュリアンの目の前に立ち、カチリと撃鉄を引いて見せた。その緩んだ眼差し、確実に力が入った引き金にかかる指先の力強さに、ジュリアンは恐怖で顔を歪ませた。

​「さて。映画ではこんなシーンの結末はどんなことになるのかしら?」

​ 完全に目の座った悪魔の笑みとも取れるジェニファーだったが、ジュリアンはその一瞬の隙をつき、ジェニファーの手を抑え、激しくもみ合う2人だった。

​ そして拳銃が天井を向いた次の瞬間、一発の銃声が、家の中に轟き、あたり一面が真っ白な閃光に包まれた。


「キーン」


 と言う残響音と共に辺りは真っ暗闇へと暗転していったのだった。


​5. 結末:再装填される衝動


​「おい、ジェニファー!ジェニファー!」


​ ジュリアンの優しいかけ声で目が覚める。

​ テーブルの上でうつぶせになり、どうやら家事に疲れて寝てしまったと気づいたジェニファー。全ては、彼女の抑圧された衝動が生み出した、一瞬の「爆発」という名の妄想だった様だ。

​「今帰ったよ。ご飯にしようか」と声をかけるジュリアン。

「あ、ごめんなさい。すぐに準備するわ」

「いつも仕事のせいで構ってやれないでごめんね。たまには肩でも揉んでやろうか」

 と言い、ジュリアンは優しく肩を揉み始めた。

​ ジェニファーは「あなた」と呟き、そのジュリアンの優しさを確かめるかのように、肩に添えられたジュリアンの手にそっと自分の手を添えようとした。

​ が、かすかな温もりを確かめる間もなくジュリアンは、その手をサッと引き払うのだった。

​ そしてそこには、また嗅いだことのない、そして確実にジェニファーのものではない小さな香水の匂いが舞っては静かに消えた。

​「今日は結構大変だったから、先にお風呂に入るわ」

​ そう言うとジュリアンはバスルームへと向かい、ジェニファーの元を逃げるように去っていった。

​ 一瞬の温かさを失ったジェニファーは、また一人キッチンの中に残された。

 そしてキッチンカウンターの中で待つ夕飯の支度の続きを始めた。

​ しかし、ふとその動きが止まる。


​(さあどうしたものか。これが『妻』って物なのよね。)


​ 彼女は、ゆっくりとキッチンの中の端にある、あの黒光りした小さな拳銃に目を移した。


​ そして、『無音という曲』が流れるキッチンルームの中で、スローモーションのようにゆっくりとその指は拳銃の方へ引き寄せられていく。ジェニファーは静かに目を閉じた。


カチリ!


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