悪いこと言わないから
ゆずリンゴ
悪いこと言わないから
「悪いこと言わないから、ちょっとだけ来てよ」
高校二年の夏、彩花先輩はそう言って僕の手を引いた。屋上のフェンスの向こうに、夕陽が溶けていくようなオレンジが広がっていて、風が制服の裾をはためかせていた。
先輩はいつもこうだった。誰にでも優しくて、でもどこか遠い。
クラスの男子はみんな先輩のことが好きだったけど、誰も近づけなかった。
僕だってただの後輩で、図書委員の仕事でしか接点がなかった。
それなのに、あの日、先輩は僕を選んだ。
「ねえ、知ってる? 人はさ、嘘をつくときが一番正直なんだよ」
先輩はフェンスに寄りかかりながら、突然そんなことを言った。
僕は何も答えられなかった。ただ、胸がざわついた。
それから先輩は、毎日のように僕を屋上に呼ぶようになった。
「悪いこと言わないから」と繰り返しながら、少しずつ、自分の話を始めた。
最初は他愛もないことだった。でもだんだんと、話は暗くなっていった。
「お母さん、私のこと嫌いなんだよね」
「だって、私が生まれてから、お父さん出て行っちゃったんだもん」
「だからさ、私が悪い子だから、みんな離れていくんだって」
ある日、先輩が言った。
「ねえ、もし私が死にそうになったら、助けてくれる?」
冗談だと思った。でも、先輩の目は本気だった。
「悪いこと言わないから、約束して」
僕は、震える声で「はい」と答えた。
次の日、先輩は屋上から落ちようとした。
僕は間に合った。腕を掴んで、必死に引き上げた。先輩は泣いていた。
初めて見た、先輩の涙。
「ごめん……ごめんね……」
「どうして」
「だって、私がいなくなれば、みんな楽になると思ったから」
違う。絶対に違う。でも僕は、何も言えなかった。ただ、先輩を抱きしめることしかできなかった。
それから先輩は、少しずつ変わっていった。笑顔が戻ってきた。屋上にも、もう来なくなった。
でも、時々、僕の手を握って、小さな声で言うようになった。
「ありがとう。君がいてくれて、本当に良かった」
僕は嬉しかった。本当に。でも、ある日突然、先輩は学校に来なくなった。
理由はすぐにわかった。自殺未遂。薬を大量に飲んだらしい。病院に駆けつけたとき、先輩はもう意識がなかった。
白いベッドの上で、まるで人形みたいに静かだった。僕は、毎日病院に通った。誰も来ない病室で、先輩の手を握って、ただ祈ることしかできなかった。一週間後、先輩は目を覚ました。
「君……まだ来てたの?」
掠れた声だった。でも、笑っていた。
「当たり前じゃないですか」
「バカだね」
先輩はそう言って、また泣いた。
「私、死ねなかった」
「……良かった」
「でもさ、もう生きるのも疲れた」
僕は、何も言えなかった。それから先輩は、退院した。でも、もう学校には戻ってこなかった。
最後に会ったのは、冬の終わりだった。駅のホームで、先輩は僕を見つけて、駆け寄ってきた。
「やっぱり君だったんだ」
「え?」
「僕を救ってくれたの、君だったんだね」
先輩は、優しく笑った。壊れたような笑顔ではなく、静かで、少しだけ澄んだ笑顔だった。
「悪いこと言わないから、最後に一つだけ、聞いてくれる?」
僕は頷いた。
「僕のこと、忘れないでね」
「忘れるわけないじゃないですか」
先輩は、それ以上何も言わなかった。
ただ、僕の手を握って、しばらく黙っていた。電車が来た。先輩は、それに乗った。
それが最後だった。次の日、先輩は本当に死んだ。遺書はなかった。ただ、僕の机の中に、一枚の紙が入っていた。
『ありがとう。本当に、君に出会えて良かった。悪いこと言わないから、私のこと、恨まないでね。私は、幸せだったよ。最後に、君がいてくれたから』
僕は、泣かなかった。泣けなかった。だって、僕が先輩を救えなかったから。先輩は最後まで嘘をついていた。
「悪いこと言わないから」って、あれは全部嘘だった。僕が信じた約束も、握った手も、全部嘘だった。
先輩は、僕に本当の笑顔なんて見せてくれなかった。最後に見たのは、どこか遠くを見ている、諦めたような目だった。
それでも僕は、毎日屋上に行く。風が吹くたびに、先輩の声が聞こえる気がする。
「悪いこと言わないから」
僕は、もう返事ができない。ただ、フェンスに寄りかかって、空を見上げるだけだ。あの夏のオレンジは、もう二度と戻らない。
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