第2話 山田アリスは忍ばない
国語教師の馬淵はおそらく刺客だった。イギリスからの留学生山田アリスもクロに間違いない。そのほか担任の英語教師中込もきな臭い。柔らかな笑顔の裏側に、リンは同類の匂いを嗅ぎ取っていた。
とりあえず三人を捕縛するか始末するかと悩んでいたら、雫に釘を刺された。
「校内で荒事はやめてね?」
女子トイレの個室で、便器を挟んでやりとりをしていた。
「しかしきゃつらは雫殿の命を狙っています」
「外の怪しい人たちはいいけど、クラスのお友達と先生はダメ。悪いことしてないんだから、疑わしきは罰せず、専守防衛ね」
「ですが」
「リンちゃんのことみんなの前で言ってもいいんだけどなー」
どうしようかな、っと雫はわざとらしく首を捻った。そう言われては反論できず、リンはおとなしく従った。
「……わかりました。ただし、ほんの少しでも怪しい動きを見せたら容赦はしません」
「うん、煮るなり焼くなり好きにしていいよ」
話は終わったとばかりに雫は個室の鍵を開けた。リンは護衛のために、自分が先に外に出ようとした。扉に手をかけ、扉はひとりでに開いた。
そうではない、誰かが開けたのだ。
「わおっ、使用中でしたか」
見上げるほどの長身、眩しく光る金色の地毛。件の刺客山田アリスだった。過剰すぎるくらいに、驚いたように身体を仰け反らせていた。
「貴様っ」
リンの手元に黒き翼と呼ばれる漆黒の短刀が現れた。それを逆手に持ち、雫をかばうように構える。タイルの床がきゅっと鳴いた。アリスは無知で無垢な一介の女学生を装って、呆けた様子でリンを眺めていた。
先手必勝、殺らねば、雫が殺られる。喉元めがけて短刀を──雫に襟首を引っ張られた。バランスを崩し、情けなく足をすべらせる。そのままコケて、便器に背中を強打した。
「鳥頭」
罵倒するようなことを雫が言っていたが、悶えるリンには聞こえていなかった。身体を保護する忍び装束を纏っていない状態だと、耐久力は並の人間と変わらない。しかも脂肪も筋肉もない貧相な身体。骨を金槌で強打されたような痛みに襲われていた。
「ダイジョブですか? てんこせーさん」
数秒経ってようやく我に返ると、憐れむような顔をしたアリスと雫の姿が視界に映っていた。慌てて短剣を握りしめようとするが、衝撃とともに霧散しており、ただ手のひらの感触だけがあった。
ああ、報告書になんと記そう。
トイレから廊下に出てきたアリスは、そそくさと頭を下げた。
「ゴメンナサイ、ユリユリの邪魔しちゃいました」
「雫殿、こいつがなにを言っているのかわかりますか。見知らぬ言語です」
「さぁ……そんなことより、言ったとおりにしてね」
「むぅ……」
わざわざアリスが出てくるのを待ったのには理由があった。
謝罪をしろと雫に言われたのだ。こいつは推定無罪だと、危害を加えようとしていたわけではないと、それどころかリンを心配していたぞと、説得されたのだ。
無論納得いくはずもない。突然現れた刺客を襲ってなにが悪いのか。たとえ今すぐに実行する気がなくても、そいつの目を見てみなさい、どう見てもあなたを観察している目だ、と反論したところ、雫にまで謝ることになった。学校は理不尽なところだった。
「悪かったな。襲撃と見誤った。謝罪しよう」
会釈程度にリンは頭を下げた。
「男の子みたいな喋り方ですねー、個性バッチリです」
「驚かせちゃってごめんね」
なぜか雫も頭を下げていた。
「ノープロブレム、謝ることないです。リンさんもなれない環境にテンパイテンパるてんてこまいなのでしょうからね。見てればよーくわかりますですよ」
アリスはヘナヘナと笑った。自然な表情が不自然だった。色仕掛けを基礎とするくの一の技術にも近い。人の心に取り入ろうとする際は、まずは笑顔で警戒心を解くのが常道なのだ。
やはり殺しておくべきだった。こいつは雫に取り入ろうとしている。暗殺者ではなく、異なる力を狙う秘密諜報員の類であろうか。あるいは雫に宿る力を調査し、酷い目、にあわずに殺す方法を見つけ出そうとしているのか、どちらにせよ敵には違いない。
アリスは右手を差し出した。それはまさしく欧米式の友好の儀式だった。
「困ったことがあったらいつでも頼ってください。ワタシも、あなたの気持ちよくわかりますから。マイ・フレンド、リンさん」
「願ってもない。気になることがあれば、お声がけさせてもらいましょう。親愛なるアリス殿」
雫の手前、その手を取ることにした。人心掌握はなにも陥れるべき敵にのみ行われるものではない。護衛対象に気に入られることもまた、忍道の基本のひとつなのである。
雫は微笑みで二人の握手を見守っていた。
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