紅の瞳 ―The Crimson Eye : Augment―

篝 帆桜

第1話:記憶喪失の追跡者(プロシュート)

 夜の帳が降りた、名も知らぬ沿岸都市。潮の湿気を帯びた生ぬるい風が、路地の奥へと吹き込んでいた。


【ルーク・セファード】。年齢は推定19歳。185cmにも届きそうな長身の身体は、疲労の限界を超えていた。アスファルトを蹴るブーツの音が、規則的な心臓の鼓動と同じくらい、鼓膜に強く響く。


「ハァッ……ハァッ……! クソ、振り切れねえ。連中、【強化体オーグメント】か……!」


 逃走の理由はわかっている。否、理解しようと努めている。彼には、一年前より以前の記憶がない。深い森の中で目覚めた時、持っていたのは、どこで発行されたかも不明なIDカード一枚だけ。そこには、彼の名前と生年月日、そして信じがたい所属が記されていた。


[エターナル・エンタープライズ社所属 強化研究部門 第13実戦部隊]


 この一年間、ルークは自身のルーツを探すために動いてきた。【エターナル社】とは、今やこの世界のインフラを牛耳る巨大複合企業体だ。彼らは地球上のあらゆる生物が持つ根源的エネルギー――彼らが呼ぶところの【ライフ・エナジー】――を抽出し、精製、利用することで、現代社会のあらゆるシステムを支えている。


 しかし、その繁栄は、影の部分を無視できない。ライフ・エナジーの過度な抽出は、生態系を歪ませ、大規模な環境破壊を引き起こしているのだ。


 当然、強硬な反対派勢力が生まれる。


 彼らを『鎮圧』するために設立されたのが、このIDに記されていた【強化研究部門】、通称【強化体(オーグメント)部隊】だ。


 元々は、搭乗する機動兵器の操作適性を高め、生身の戦闘能力を極限まで引き上げる外科的・薬物的な人体強化実験を行う機関であったが、そのデータの採取と実戦投入を目的に、実戦部隊へと変貌した。


 ルークは、時折脳裏をよぎる断片的な記憶、あるいはフラッシュバックを頼りに、エターナル社関連の施設や、強化研究部門の機密エリアへの侵入を繰り返してきた。


 正面から身分を明かせば、何か情報が得られるかもしれないとも考えた彼だが、以前、別の施設の情報バンクに自身の名前を入力した際、『該当者なし』という冷酷な結果を突き付けられた。


 もはや部外者として、隠された真実を探るしかない。そう決断した彼は、例に漏れず今回もまた、侵入時のセキュリティに引っかかった挙句、脱走劇に奔走していたのだった。


「人気のない場所に……! とにかく人目から離れないと!」


 路地を何度も曲がり、人気のない倉庫街へと足を踏み入れた。しかし、そこで彼の視界は、目の前の高いコンクリート壁に遮られた。行き止まり。追跡者たちの足音が、すぐ背後で明確になる。完全に袋のネズミだ。


「よし、ここなら……」


 ルークは息を整えると、次の瞬間、追跡者たちと対峙した。彼らの動きは、常人の域を逸脱している。それが強化体の証だ。しかし、ルークの動きは、それをさらに凌駕していた。


 音もなく、ものの数秒で、三人の追跡者は意識を失い、冷たいアスファルトに倒れ伏した。銃声も、悲鳴もなかった。


 夜の倉庫街に、静かなビル風だけが、彼らの間に吹き抜けていった。


 ルークは自分の拳を見つめた。その指先が微かに震えている。


「やっぱり……俺も、アイツらと同じ……『強化体オーグメント』なのか」


 彼のルーツを探る旅は、今、血塗られた真実へと動き出そうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る