第2話 騎士団長の身体がおかしい

 夕闇が迫る王城の渡り廊下。石造りの冷たい床に、王国の至宝と謳われる近衛騎士団長、オルトリンデ・フォン・グランディアは力なく崩れ落ちていた。


「はぁ……っ、はぁ……、ぁ……」


 荒い呼吸が止まらない。視界がチカチカと明滅し、世界がぐるぐると回っている。 まるで、致死量の酒精(アルコール)を一気飲みしたかのような強烈な酩酊感。

だが、それ以上に彼女を混乱させているのは、身体の奥底から湧き上がってくる「熱」だった。


(な、なんだ……これは……!?)


 先ほど衝突した小柄な少年。彼と唇が触れ合った瞬間、稲妻に打たれたような衝撃が走り、直後に熱した鉛のような「何か」が体内に雪崩れ込んできたのだ。

それは血管を駆け巡り、内臓を撫で回し、オルトリンデの四肢から力を奪い去っていった。


「う、ぅ……あつい……」


 震える指先で、自身の唇に触れる。まだ、ジンジンと痺れている。微かに残る、あの少年の感触。ミルクのような甘い匂いと、柔らかい唇の弾力。

それを思い出しただけでオルトリンデの背筋をゾクゾクとした悪寒――いや、甘美な電流が駆け抜けた。


「ひぐぅっ……!?」


 彼女は咄嗟に口を押さえ、情けない声を押し殺した。下腹部の奥、騎士として鍛え上げた丹田のあたりが、キュンと疼いたのだ。その感覚はあまりにも鋭く、そして強烈だった。


 鎧の下、素肌に巻いたサラシが、汗でじっとりと肌に張り付く不快感。いや、不快なはずなのに、布が肌と擦れる感触だけで、脳が溶けそうになるほど気持ちがいい。


(毒か……!?いや、呪い……?)


 あの少年は敵国の刺客だったのだろうか。接触によって、未知の神経毒を流し込まれたとしか思えない。そうでなければ、この鉄の意志を持つ自分が、たかだか一度の口づけで、腰を抜かすはずがないのだ。


 カシャン、カシャン……。


 廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる。巡回中の部下たちだ。


(まずい、見られては……ならぬ……)


 騎士団長が、廊下でへたり込み、発情した雌猫のような顔をしているなど、あってはならない醜態だ。オルトリンデは残った気力を振り絞り、壁に手をついて立ち上がろうとした。


「――団長!?オルトリンデ団長ではありませんか!」


 駆け寄ってきたのは、副団長の男だった。彼はオルトリンデの様子を見て、血相を変えた。


「顔が真っ赤ですぞ!それに、この汗……!敵襲ですか!?」


「ち、ちが……う……」


 オルトリンデは否定しようとしたが、舌がうまく回らない。立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、膝が笑ってガクンと崩れ落ちそうになる。


「っと!危ない!」


 副団長が慌てて支えようと手を伸ばす。しかし――。


「さわ、るな……ッ!」


 オルトリンデは、自分でも驚くほど鋭い声で彼の手を払いのけた。


「だ、団長……?」


「……すまない。今は、誰にも……触れられたくないのだ」


 違う。触れられたくないのではない。今の自分は、あまりにも「過敏」すぎるのだ。 副団長の無骨な手が触れれば、それだけで変な声を上げてしまいそうな予感があった。


 あの少年の、小さな手と唇によって植え付けられた熱が、他の異物を拒絶している。 そんな、馬鹿げた直感があった。


「ただの……立ちくらみだ。少し、根を詰めすぎたらしい……」


「しかし、その様子はただ事では……」


「良いと言っている!……私は部屋に戻り、休む。貴様らは巡回を続けろ」


 オルトリンデは壁を支えにして、なんとか仁王立ちになった。冷や汗が頬を伝い、膝はガクガクと震えているが、気迫だけで強引にその場を制圧する。


「は、はっ!お大事になさってください!」


 部下たちが敬礼をして去っていくのを見届けると、彼女はずるずるとその場にしゃがみ込んだ。


「……くっ……。なんなのだ、あいつは……」


 廊下には夕日が赤く差し込んでいる。だが、オルトリンデの瞳には、あの少年の逃げ去る背中が焼き付いて離れなかった。



 なんとか自室である団長執務室兼、私室に辿り着いたオルトリンデは、扉に鍵をかけると、そのままベッドの前へと倒れ込んだ。


「あ……んぅ……」


 もう、我慢する必要はなかった。彼女は荒い息を吐きながら、自身の身体を拘束している白銀の鎧を、乱暴に引き剥がし始めた。


 ガシャン、ゴトッ。


 手甲が、胸当てが、床に転がる。重い金属から解放されても、身体の火照りは一向に収まらないどころか、増すばかりだ。


「はぁ、はぁ……あつい、熱い……!」


 彼女は軍服のボタンを引きちぎるように外し、胸をきつく締め付けていたサラシに指をかけた。シュルシュルと布が解け、圧迫されていた豊満な双丘が、ぷるんと弾力を持って解放される。


 普段なら解放感に安堵するところだが、今日は違った。空気に肌が触れるだけで、全身の産毛が逆立つような感覚。


(服が……邪魔だ……)


 彼女は残りの衣服も脱ぎ捨て、生まれたままの姿でシーツの上へと倒れ込んだ。ひんやりとしたシーツの感触が、火照った肌に心地よい。オルトリンデは枕に顔を埋め、獣のように身をよじった。


「ん……ぅう……っ!」


 駄目だ。冷えない。身体の内側、血液そのものがマグマに変わってしまったかのようだ。


 あの少年から流し込まれた「何か」が、体内で暴れまわっている。それは破壊的な衝動ではなく、もっと甘く、蕩けるような――生命力そのものの奔流。


「……ま、ほう……?」


 オルトリンデは、ぼんやりする頭で考えた。魔力供給。魔術師たちが緊急時に行う、粘膜接触による魔力の譲渡。知識としては知っている。だが、あんな子供が、騎士団長である自分の容量(キャパシティ)を焼き切るほどの魔力を持っているというのか?


(いや、それにしては……感覚が、おかしすぎる……)


 オルトリンデは無意識のうちに自分の太ももを擦り合わせていた。ただの魔力供給で、こんなにも身体が疼き、奥底から蜜が溢れてくるなど聞いたことがない。


「あいつ……私に、何をした……?」


 怒りと、恥辱と、そして――どうしようもないほどの「渇望」。もう一度、あの熱に触れたい。あの唇で、この暴走する熱を塞いでほしい。そんな思考が脳裏をよぎり、オルトリンデは首を激しく振った。


「正気を……保て……オルトリンデ……!」


 私は、王国の剣。高潔なる騎士団長だ。色恋沙汰など軟弱なものと切り捨て、剣のみに生きてきた。それが、どこの誰とも知らぬ子供に唇を奪われただけで、こんなにあられもない姿を晒しているなんて。


 鏡台の鏡に映った自分の姿が目に入る。頬は朱に染まり、瞳は潤み、肌は汗で艶めかしく光っている。まるで、情事の最中のような顔だ。


「……ッ!」


 オルトリンデは羞恥に耐えきれず、枕を抱きしめてうずくまった。とりあえず、この熱を冷まさなければならない。そして、明日。明日になったら、必ずあの少年を見つけ出す。


 捕まえて、尋問して、そして――。


(責任を……取らせてやる……)


 思考が途切れ、彼女は泥のような眠りへと落ちていった。それが、彼女の騎士人生における「終わりの始まり」であるとも知らずに。



 一方その頃。ギルド職員の居住区にある質素なアパートの一室。


「ハクションッ!!」


 シャワーを浴びていた僕は盛大なくしゃみをした。


「うぅ……なんか寒気がする。誰かに噂されてるのかな……」


 僕はブルっと身震いをして、急いでお湯で身体を流した。頭の中では、まだ先ほどの出来事がリピート再生されている。


 騎士団長、オルトリンデ様との事故チュー。そして、あの時の彼女の、とろとろに溶けたような表情。


「……忘れよう。うん、あれは夢だ。僕の都合のいい妄想だ」


 鏡の前で自分に言い聞かせる。相手は雲の上の存在だ。僕みたいな下っ端職員のことなんてすぐに忘れてくれるはずだ。いや、忘れてくれなきゃ困る。


「よし、ご飯にしよう。美味しいものを食べれば嫌なことは全部忘れられる」


 僕は気分を切り替えるためにキッチンへと立った。冷蔵庫から鶏肉と野菜を取り出す。 トントントン、と軽快な包丁の音が、狭い部屋に響く。


 丁寧に下ごしらえをして、鍋でコトコトと煮込む。立ち上る湯気とホワイトソースの優しい香り。仕上げにパセリを散らせば、特製クリームシチューの完成だ。


「いただきます」


 一口食べると、濃厚なミルクのコクと野菜の甘味が口いっぱいに広がる。いつもの優しい味だ。


「……うん。美味しい」


 美味しいけれど、なぜだろう。ふと、唇に指を当ててしまう。シチューの温かさが、あの時のオルトリンデ様の唇の温度と重なって、心臓がトクンと跳ねた。


(……柔らかかったなぁ)


 いやいやいや!何を考えてるんだ僕は!相手は国の英雄!僕はレベル0のショタ! 接点なんてあるわけがない!


 僕は雑念を振り払うように、シチューをかき込んだ。


 まさかその数日後。その「接点のないはずの人」が、禁断症状で目を血走らせて、この部屋のドアをぶち破らんばかりの勢いで叩くことになるなんて。


 この時の僕は、まだ知る由もなかったんだ。


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