第2話



 どこの店も賑わっていて、やはり席は取れなかった。

 しかしメリクがどこでもいいからと交渉すると物置みたいな所に通される。

 とても食べ物を食べるような所ではなかったのだが、メリクはそこにあった木箱の上に迷いなく座って食器も側に置いた。

 こういうことにも慣れているのだろう。

 エドアルトも側の木箱の上に食器を置いて直接床の上にあぐらをかいて座った。


「で、聞きたいことってなに?」


 食べながらメリクは尋ねた。

「あ、はい! えっと、色々あるんですけど……うーんと……、あっ、じゃあさっき思ったこと!

 信仰心がない……ってメリクさん言ってたじゃないですか。魔術師の人って、信仰心とかなくてもあんな強くなれるのかって……ちょっと驚いて」


「……。神官戦士は信仰心がないと強くなれないのかい?」


「はい」


 エドアルトの答えにメリクは翡翠の瞳を瞬かせた。

 それはメリクの予期した答えではなかった。


 彼はサンゴール時代、サンゴール大神殿というものを目の前でよく見て来た。

 だから国に関わる神殿がどういうものか彼は嫌というほど知っている。


 巡礼は自分の力が試されるので、国で平穏に過ごす神官とは確かにものの見方は少し違うだろうが、神官と言えども所詮は人なのだ。

 彼らが強くなる根幹には、他の人間と同じ向上心と野心があるとメリクはそう思っている。


 信仰心はそれをただ彼らが美化して表現しているだけだ。

 この世に神官だけが持つ特別な信仰心などというものは存在しない。


 しかしエドアルトは迷いなく神官の第一は信仰心である、と答えた。


 彼の胸に光る銀の十字架が、この汚い物置の暗がりにやけにメリクの目を射たのだった。


 …………そして増々心からこの少年と共にいる気が失せて来た。


「……魔術師に必要なのは探究心と好奇心。知恵の使徒とも言われているからね」


「へぇー……」

 エドアルトはフォークを完全に皿に置いてメリクの話に聞き入っている。

「すごいなぁ。俺も小さい頃、一時期魔術を勉強したことはあるんです。でも結局最初から魔術を理解出来なくて早々に諦めちゃったんですよ」


 そういう人間は別に珍しくもない。

 普通の人間が魔術師になるにあたって、魔術の扉を開く以前に二度躓くと言われている。


 一つは魔術の世界観――目に見えないものを見て捉えるというその、世界観を「感覚的に捉える」というものを実感出来ない場合。

 もう一つがその目に見えないものを己の手で動かす感覚を覚えられない場合。


 これは理論ではなく感覚なので人に教えられることは出来ない。

 教えることも出来ない。

 つまり自分で理解するしかないのだ。


 この二つに躓く者は「私には魔術の才能がない」と言って諦めるのが常だ。


 魔術師が誰にでもなれる生業ではないと言われる所以である。

 だがメリクは魔術学院で魔力は微弱であっても万物に宿ると教えられている。

 つまり魔力とは魔術師にのみ与えられる恩恵ではないということだ。


 これは魔術学院に入る前……リュティスにも教えられた。


 知識の使徒であるが故に溺れるなかれ。

 サンゴールはそういう意味では、真の魔術大国ではあった。

 魔術を国力としてのみ捉えて驕る国の例は、【有翼の蛇戦争】を引き起こしたエルバト王国を見ればいい。


 確かにサンゴールは魔術を慣例にはしているが、特別厚遇にはしていない。

 むしろかつては王族のみが公に扱うことを許された力であり、その真似事をする魔術師は下賤の職とされていたほどだ。

 彼らがサンゴールにおいて糾弾されず暮らすには魔術を医学と組み合わせてのみ使用するという大義名分が必要とされた。


 その常識を覆したのが魔術師ラムセスの功績だが、彼はサンゴールにおいて魔術師の名を明るく知らしめた一方で、地位に固執せず後には国を出奔して魔術師の忠誠心の危うさをもサンゴールに対して示している。


 驕る魔術師も魔術師への過度の厚遇もどちらも為にはならないということだ。

 だから「魔術の才がない」ということは軽視されることではない。

 魔術師になることは基本として全て自分の意志と責任で行なわれる。


 メリクは自らがサンゴールに従属した過去は一切語らず、サンゴールの名も出さずただ魔術師というものについてのみエドアルトに話した。

 その話を青年はやはりじっと聞いていた。



 そう、誰に強制されることでもない。



 普通は自分で魔術師の運命を選ばなければ、魔術師になることはない。

 だから自分も、自分の手でこの運命を選んだ。

 メリクは幼い日のことを思い出した。

 その幼い日の思い出に必ず結びつく、眩しいほどの黄金の双眸を思い出す。


 ……自分の手に余る魔力を神から与えられでもしない限りは、魔術師になることは己の意志で決められる。


 そういえばメリク自身も今では当然のように魔法を操っているが、学び始めた当初一時期は魔法が全く分からない時があった。

 知識も呪文も理論も分かるのに魔法が発動しない時期だ。


 メリクは屋根裏部屋のようなそこから窓の外を見た。

 細い路地が縦横に走るサンアゼールの街。

 その路地を通る水路がランプの光に輝き光の道を作っている。

 精霊に扮した人間の行列がその道を行く。



(……手を……取ってくれたのだったか)



 あの人が。


 普段は触れるどころかメリクが近づくことも毛嫌いしていたあの人が、自らの手で触れて感じろと……魔術は単なる文字の幻想ではないのだと、目に見えずそこに留まらないだけで風や水、空気と同じく確かに「在る」ものなのだと……あの人が教えてくれた。


 それを教えられなかったら自分もこの少年のように魔術師にはなれないと諦めていたのだろうか?


 幻想的な光を両目で捉えながらメリクは思索に耽った。


 魔術師ではない生――。


 精霊の行進がゆっくりと行く。


(想像も出来ない)


 この生業がなかったら自分は何をしていただろう? 

 ただ、魔術師でないだけで同じ結末を歩んでいた場合、間違いなく三年前のあの日サンゴールを出てすぐに、自分が野垂れ死んでいたことだけは確かだ。


 身を守る術が無いというそれもある。

 しかし何より孤独で気が狂って死んでいただろう。


 姿無き者達……、


 自分はどこかで一人旅の時も常に感じ取っていた。

 見えない者達の息吹が、自分の心にいつも囁き掛けていたから。

 魔術師が魔力を感じるというのはつまりそういうことなのだ。


(皮肉だな)


 リュティスに見出された魔才。

 だが疎まれたのもこの力のせいだった。


 しかしその力がサンゴールを出た後身を守る術になり、最愛の人間の愛を受けられず自分を孤独の身の上にした元凶であるその力が……本当の孤高の底で、真の孤独からどこか自分を救っている。


 皮肉なものだ。


 メリクの人生と魔術は皮肉の糸でこうして複雑に結い合わされている。

 だからなければ良かったなどという言葉はもうそこには存在しない。

 魔術師でない生などもうどこにも存在しないのと同じように。



「……メリクさん?」



 メリクは夜景から視線外した。

 中断していた食事を再開する。

「メリクさんは、何か目的で旅をされているんですか?」

「目的? ……いや、別に何もないよ」

「何もないんですか? じゃあ、旅をやめたいと思った事は?」


「ないよ」


 はっきりとメリクは答えた。

 サンゴールを出て苦労がなかったわけじゃない。

 世間知らずだったメリクは、世間に馴染むのにもそれは苦労した。

 馴染んだそのことを心の底から嬉しいと思った事は一度もない。


 ……それでもサンゴールに戻りたいとは決して思わなかった。


 リュティス・ドラグノヴァを思い出して想い苛んだが、それでももう一目会いたいなどとは決して思わなかったのだ。

 どこかに留まりたいと願ったこともない。


「旅の生活の方が、合ってるんだろうね」


 辿って来た人生全てを飲み込んでメリクはただあっさりと、そう言った。

「そうなんですか。すごいなぁ」


 すごくなんかないのに。

 青年は澄んだ黒目でメリクを見ている。

 その視線に晒されメリクは妙に胸がざわめいた。


「……エドアルト、だったっけ?」

「はい!」

「何度も言うけど俺は君に……というか人に何かを言って聞かせられる人間じゃないんだよ。一つ魔術的な話をしてあげる。このペンダントの精霊を知っているかい?」


 エドアルトはフォークを置いた。

 メリクが首からチェーンを外しエドアルトに向って投げた。


「知らないです。不思議な姿の精霊ですね」

「それは【ライディーン】と言ってね。エデン西南にあるバルスホストという国の神話に出て来る精霊なんだ」

「【ライディーン】……どういう精霊なんですか?」

 目を輝かせてメリクの方を見ると、彼は静かな表情で小さく微笑んでいた。


「白き雷の獣。

 神の【美しき完全なる時間】を喰らった為に怒りを買い、地上に堕とされた神獣だ。

 永住の地を求めて彷徨う性を持ち、そのためエデン南方では旅人の護符などによく描かれる。

 司るは【無垢】【時間】そして【愚か】」




 ――――愚か。




 エドアルトの耳をその文言が打った。

 精霊に与えられる文言にしては非常に珍しいと思ったからだ。


「ライディーンの永住の地は神界にあるのに地上を彷徨いそれを求め続ける。だから魔術観ではライディーンは自己回帰の出来ない愚かな精霊だとされたんだ」


 愚かなる精霊……。


 エドアルトは手の中の古いペンダントを見下ろした。

 メリクを見上げると、彼は幻想的な夜景の光を背にじっとエドアルトの方を見ていた。


「……メリクさん……」


 エドアルトはそのとき気付いた。

 彼も何も好き好んで見ず知らずの人間にいつもこうやってついていくわけではない。

 それでもこの若い魔術師に何故こんなにも無性に惹かれたのか、それがふとそのとき分かった気がしたのだ。


「……って珍しい瞳の色してるって言われませんか?」


 メリクが肩を落とす。

 彼としては自分をライディーンになぞらえて、自己回帰の出来ない愚か者とは旅を共にしない方がいいと、それとなく察してほしかったのだが残念ながらそこまでは伝わらなかったらしい。ただ興味深い話を聞かせただけに終わってしまった。


「今、そういう話をしていたかな?」

「あ、いや。不思議な色だなって思って」

「そうでもないよ。世界中には色んな目の色の人間がいる。俺もただその中の一人ってだけさ」

「そうですか? 俺、貴方みたいな目の色の人見た事無いです。青でも緑でもない……」

 口にして気付く。


(そうか。魔術の光に似てるんだ)


 魔術の光というのは不思議なもので、赤っぽいとか青っぽいとかそういう表現は出来るのだけどはっきりと何色だとエドアルトには表現することが出来ない。


 メリクの瞳の色は丁度その感覚と似ていた。

 ひどく不思議な色合いをしている。


 だがメリクは薄く笑った。

 この程度のものなら捨てるほどあるよ。

 世にも稀な黄金の双眸を見つめて育った彼には全く興味の湧かない話だった。


「えっと……、それで、どうして俺に【ライディーン】の話を?」

「別に。何の意図もないよ。ただ君が俺が目的のない旅をしている、と言った時に驚いた顔をしたから思い出したんだ。

 原点回帰の出来ない愚かな精霊がいるんだ。

 一カ所に留まることの出来ない性分の人間だっているよという意味でね」

「……。」

 しばらく、カチャカチャ……という食器の音だけが響いていた。

 外の喧噪。




「【ライディーン】は本当に愚かなのかな?」




 メリクがエドアルトの方を見た。

 彼は木箱の上に置いたペンダントの精霊を見ている。

「あ、いや。原点回帰の出来ない愚かな精霊、とか……俺にはよく分かんないんですけど……、要するに【ライディーン】は、自分の故郷をずっと探し求めているわけですよね」


「……まぁ砕いて言うと」


「それって、当たり前のことなんじゃないかな?」

 青年が言う。


「俺も故郷を離れて旅をするから、今メリクさんの話を聞いて思った事は愚かよりも、ライディーンにとってその故郷は本当に楽園で、周りになにを言われても探し求め続けずにはいられない、本当に大切な場所だったんじゃないかなって」


 メリクはエドアルトを黙って見ていた。

 少年は、屈託なく笑った。


「……俺も、旅先で淋しい時とかは故郷を思い出したりします。どんな遠くに行っても思い出す場所があるってその感じは分かるから」


「……。」

「愚かよりも、何かを大切に思える精霊なんだなって思いました。気取った神様より、俺はそっちの方が好きだな」

「……」

「無我夢中で大切な場所を求めて彷徨い歩くなんて、逆に想いが強くて素敵です」


「素敵ね……まぁ【ライディーン】も自分自身は自分を愚かなんて思ってないかもしれないね。彼はそういう宿命を与えられた存在だから。

 一人で彷徨い続けている限り、ライディーンは自分を愚かだとは気付かないだろう」


「?」


「自分が愚かだと気付くのも、孤独だと気付くのも、一人では出来ないってことさ。群の中にいる時に本当にそういうことに気付くんだ」


 エドアルトは瞬きをした。

「一人でいる方が幸せ、ということですか?」

 メリクは微笑む。

「幸せ、じゃない。その方が迷わないで済むって話だよ」

「……メリクさんは今まで旅をして来た中で何を一番迷いましたか?」

「……。人が迷うのは心のどこかで迷いたい、道を突き進みたくないと思うからさ。

 迷いたくないと本当に心から願えば、人は、迷わずにいられるんだよ」


 エドアルトは驚いた。

 自分なんか一人旅では迷うことだらけだ。

 目の前の青年は自分よりは年上には見えるけどそれも十も二十もとは見えなかった。

 それなのに自分より数歳年上なだけで何故、彼はこんなにも心が研ぎ澄まされて迷いがないのだろう。


 魔術師というのは皆そうなのだろうか?


 エドアルトは立ち上がった。

 メリクがそうしたようにペンダントを投げて寄越すのではなく、ちゃんと歩み寄って来て彼に返した。


「ありがとう」


 メリクは首からペンダントを掛け直した。

 エドアルトは自分の首から掛かる銀の十字架と、メリクの首から掛かる【ライディーン】とを見比べた。


(なんだろう)


 心がざわめく。

(やっぱりこのひと、今までに会ったことの無い感じの人だ)

 国を出て色んな土地に行った。

 色んな人に会った。

 会ったことのない人にもたくさん会った。


 ……でもこの青年はそれとも何かが違う。

 メリクは自分を見ているエドアルトに気付いた。


「……なに?」


「あ、いえ……。今の言葉、……人は迷いたくないと願えば迷わずにいられるっていう言葉が」

「それが、なに?」

 エドアルトは首を振った。幼さの残る顔で笑う。


【信仰】の教えと似てるなって思って」


 エドアルトは食事の側に戻った。

「俺の母親は若い時から神殿に遣えてる人だったんです。それで俺も、いつも言われてました。【信仰】を失わなければ人は迷わずにいられる、って」

「……。」

「メリクさんは信仰心がないって言ってましたけど、迷いたくないと願っただけで迷わずにいられるなんてすごいと思います。神官の世界では信仰心の強い人が迷いが少ないとされていますよ」


「……。君にとってはお母さんが最初の師なんだね」


 メリクがそう呟くとエドアルトは嬉しそうに笑った。

「そうかもしれないです。メリクさんにも師匠がいますか?」



 ――サッ……とその容姿が脳裏に浮かんだ。



 胸がざわめく。

 思い出したくもない、その姿を。


「……。魔術師はよく、最初の師が最後の師になるって言われるよ」


 エドアルトはメリクを見た。

「昔ある人に話してもらったことがある。

 魔術師にとって弟子を一人育てることは、場合によっては自分にとっての敵を一人育てることにもなり得るから、だから魔術師は何となくや道楽で弟子を育てることは出来ないんだって」


「自分にとっての敵?」


「魔術師の武器はね、魔法じゃない。広い知恵と知識なんだ。

 他人より知っていることが彼らの剣で盾なんだよ。それを他者に分け与えることは剣と盾の効果を弱めることと一緒だろう? だからいい加減な覚悟で弟子は育てられないんだ」


 そう。だからあの人との未来には決別があった。

 あの人は生まれながらの魔術師で、どれだけ忌み嫌っていたとしても自分を弟子にした以上あの人でも自分にいい加減な教えをしたことはなかった。


 魔術師とはそういうものなのだ。

 叩かれたり、憎悪を向けられたり、敵意を受けたことは確かにあったのに、不思議なほどリュティスにいい加減な教えを受けたことだけはないと言い切れる。


 怠慢を魔術師としての性が許さなかったのだ。

 だからこそ緩やかに馴染み、許されて行くことも出来なかった。


 魔術師と弟子。


 一度結んでしまった因縁を解く為にはこの二つには永遠の別離しかない。



「……すみません」



 エドアルトが不意に謝った。

「俺、簡単に魔法を教えてくれとか言ったけど、魔術師にとってそれは大変なことだったんですね」

 メリクは翡翠の瞳を瞬かせた。

 それから吹き出した。


(……笑った)


 エドアルトはメリクのその顔を見ていた。

「いいんだよ。俺は別にそんな勿体ぶるような価値のある魔術師じゃないから。

 確かに魔術は人に教えてもらったけど。俺は不肖の弟子だったんだ」

 冗談めかして彼は言って、微笑んだまま瞳を伏せた。


「エドアルト。君はいい子だよ。……多分ね。

 俺なんかじゃなくても、君を責任を持ってしっかりと教え導いてくれる立派な人が、君には必ず現われる」


 その人と旅をするんだ。


 若い魔術師は優しい声でそう言って、そこで口を閉ざした。




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