​第13話 『聖夜の警報音と、破られた無菌室』

​ 12月24日。

 世間はクリスマス・イブの浮かれた空気に包まれていた。

 街路樹はイルミネーションで飾られ、行き交う人々は色とりどりのプレゼントを抱えている――らしい。

 僕、一ノ瀬蓮の目には、それらはすべて煤けた灰色の塊にしか見えなかったけれど。

​ 僕は病室の前の廊下で、スケッチブックを抱えて座り込んでいた。

 ここ数日、雨宮真白の意識は戻っていない。

 容態が急変したのだ。

​ ピーン、ポーン、パン、ポン。

 無機質な院内放送と、慌ただしく行き交う看護師たちの足音。

 ガラス越しの病室を見る。

 真白は、たくさんの管に繋がれ、枯れ木のように眠っていた。

​「……描けない」

​ 僕は震える手で鉛筆を握った。

 最後の肖像画。

 彼女との約束だ。けれど、ガラス越しでは色が分からない。

 今の彼女がどんな顔色をしているのか。唇に赤みはあるのか。

 想像で補おうとしても、死の恐怖が邪魔をして、どす黒い色しか浮かんでこない。

​「……一ノ瀬」

​ 重い足音が近づいてきた。

 神崎海人だ。彼もまた、学校帰りに制服のまま駆けつけていた。

​「……医者が言ってた。今夜が、山だと」

​ 神崎の声は震えていた。

 彼はガラスに拳を押し当て、悔しそうに俯いた。

​「ふざけんなよ……。まだ17歳だぞ。クリスマスプレゼントも渡してねえのに……」

​ 神崎の目から、涙が零れ落ちた。

 いつも強気だった彼が、子供のように泣いている。

 その姿を見て、僕は自分の無力さを痛感した。

​ 僕にできることは、描くことだけだ。

 でも、色がなければ描けない。

 触れなければ、色は戻らない。

 そして、無菌室に入ることは許されない。

​ 八方塞がりだ。

​ その時、病室の中でアラームが鳴り響いた。

 心電図の波形が乱れている。

 医師と看護師が飛び込んでいく。

 真白の母親が、悲鳴のような声を上げて泣き崩れた。

​「真白! 真白!」

​ 処置が行われている。

 僕たちは廊下から、ただ祈るように見つめることしかできない。

 ガラス一枚。たった数ミリの壁が、生と死を隔てる絶対的な境界線として立ちはだかる。

​ 嫌だ。

 こんな終わり方、認めない。

 彼女は言ったはずだ。『生きた証を残したい』と。

 このまま灰色の闇の中で消えさせるわけにはいかない。

​ 僕は立ち上がった。

​「……入りたい」

「は?」

「中に入れてくれ! ……最後に、彼女の『色』を見なきゃいけないんだ!」

​ 僕は通りかかった医師の腕を掴んだ。

​「お願いします! 一瞬でいいんです! 彼女に触らせてください!」

「何を言っているんだ! 彼女は免疫力が……」

「もう、そんな段階じゃないでしょう!?」

​ 僕は叫んだ。

​「彼女は待ってるんです! 僕が絵を完成させるのを! ……約束したんです!」

​ 医師は困惑し、警備員を呼ぼうとした。

 その時。

​ ドンッ!

​ 神崎が、医師と僕の間に割って入った。

 そして、なんと医師に向かって土下座をしたのだ。

​「……頼みます、先生」

​ 神崎が、額を床に擦り付けて叫んだ。

​「こいつを入れてやってくれ! ……真白が一番会いたいのは、俺でも、親でもねえ。こいつなんだよ!」

「神崎……」

「あいつは、最期まで笑って逝きたいはずだ。……こいつがいなきゃ、真白の世界は白黒のままなんだよ!」

​ 神崎の言葉に、真白の母親が顔を上げた。

 涙で濡れた顔で、医師を見た。

​「……先生。お願いします」

「お母さん……?」

「あの子が選んだ人です。……もし、これでお別れだとしても、あの子はきっと、彼の手を握っていたいと思うから」

​ 母親の許可。

 医師は大きくため息をつき、そして小さく頷いた。

​「……5分だけです。消毒と防護服を徹底してください」

​ 許可が降りた。

 僕は神崎の肩を掴んだ。

​「……行ってくる」

「ああ。……いい絵、描いてこいよ」

​ 神崎は涙を拭い、無理やりに笑ってみせた。

​ 防護服に着替え、二重扉をくぐる。

 空気の圧力が変わる。

 静寂。

 機械音だけが響く部屋。

​ 僕はベッドの横に立った。

 手袋を外す。

 本当はいけないことだ。でも、直接触れなければ色は見えない。

​ 僕は震える指で、真白の頬に触れた。

​ ドッ……。

​ 音がして、世界に色が満ちた。

 

 ――淡かった。

 以前のような鮮烈な極彩色ではない。

 消え入りそうなほど儚い、薄紅色の頬。透き通るような肌の白さ。

 そして、枯れた唇の薄紫色。

 それは、「死」の色だった。

 けれど、僕が見てきたどんな景色よりも、神々しく、美しい色彩だった。

​「……ん……」

​ 真白の瞼が、微かに動いた。

 色が戻った世界で、彼女の琥珀色の瞳が、ゆっくりと僕を捉えた。

​「……れん、くん……?」

「ああ。……来たよ」

​ 僕は彼女の手を握りしめた。

 冷たい。氷のように冷たい。

​「……色、見える?」

「見えるよ。……すごく、綺麗だ」

​ 僕は嘘をつかなかった。

 彼女の命の色は、本当に綺麗だったから。

​「……よかった」

​ 真白は、酸素マスクの下で微笑んだ。

​「描いて……。私の、一番いい顔」

「分かった」

​ 僕はスケッチブックを広げた。

 鉛筆を走らせる。

 迷いはなかった。

 目の前にある色彩を、命の灯火を、そのまま紙に写し取る。

 涙で視界が滲む。でも、色は消えない。

 彼女が僕の手を、最後の力を振り絞って握り返してくれているから。

​ 5分間。

 それは永遠のような、一瞬のような時間だった。

​「……できたよ」

​ 僕は描き上げたデッサンを見せた。

 そこには、ベッドに横たわりながらも、聖母のように微笑む少女がいた。

 苦しみも、痛みも超えて、ただ「愛された喜び」だけを浮かべた顔。

​ 真白はそれを見て、満足げに目を細めた。

​「……うん。……これが、私だね」

​ 彼女の握る力が、ふっと弱まった。

​「……ありがとう、蓮くん。……世界に、色をくれて」

「こっちのセリフだ。……僕に色をくれたのは、君だ」

「……大好き」

​ その言葉を最後に、彼女の瞳がゆっくりと閉じられた。

 手から力が抜ける。

 

 フッ。

​ 世界から色が消えた。

 鮮やかだった頬のピンクも、髪の茶色も、すべてが静寂なグレーへと還っていく。

​ アラームが鳴り響く。

 医師たちが駆け込んでくる。

 僕は押し出されるように病室を出た。

​ 廊下で待っていた神崎が、僕の顔を見て、崩れ落ちた。

 僕は手の中のスケッチブックを抱きしめた。

 そこには、モノクロの線画なのに、確かに「色」を感じさせる彼女の笑顔が残っていた。

​ 外では雪が降り始めていた。

 ホワイトクリスマス。

 僕には灰色の粉にしか見えないけれど、きっとそれは、彼女のように真っ白で、綺麗な色をしているのだろう。

​ 僕の世界は、再び色を失った。

 けれど、僕の心の中には、彼女が残してくれた鮮やかなパレットが、永遠に残ることになった。

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