​第12話 『指先で読む雪景色と、分厚い絵の具の体温』

​ 『目が霞むの』

​ 真白のその言葉は、僕にとって死刑宣告に等しかった。

​ 師走に入り、街はクリスマスの装飾で賑わい始めていた。

 僕、一ノ瀬蓮は、新しい絵を持って病院を訪れた。

 リストにはないけれど、彼女に見せたかった「冬の星座」の絵だ。神崎に星の位置や色を教えてもらい、夜空の深い青と、星々の瞬きを描き込んだ自信作だった。

​ けれど。

 ガラス越しの真白は、焦点を合わせようと目を細め、やがて困ったように笑った。

​『……ごめんね、蓮くん。今日は霧が濃いの』

​ 彼女の瞳は、どこか虚ろだった。

 僕の顔も、絵の具の鮮やかさも、もう彼女にはぼんやりとした輪郭でしか捉えられていないのだ。

​「……謝るなよ」

​ 僕はマイクを握りしめた。

 かける言葉が見つからない。

 「綺麗だね」と言ってくれる彼女の声が、以前よりずっと力ないことに、気づかないふりをするのが精一杯だった。

​ 帰り道。

 僕は絵を抱えたまま、寒空の下で立ち尽くした。

 無力だ。

 色が見えない僕は、神崎の助けがなければ「正しい色」が描けない。

 そして今、彼女が視力を失えば、僕がどんなに鮮やかな色を描いても、届かない。

​ 画家としての僕の存在意義が、音を立てて崩れていく。

​「……クソッ」

​ 僕はアパートに戻り、描きかけのキャンバスを睨みつけた。

 平坦な画面。薄っぺらい絵の具の層。

 これでは駄目だ。見えなければ、ただの板切れと同じだ。

​ 何か。何か方法はないか。

 視覚が駄目なら、他の感覚で。

 聴覚? 嗅覚?

 いや、僕は画家だ。絵で伝えなければ意味がない。

​ その時、ふと、真白が以前、僕の絵を指でなぞっていた姿を思い出した。

 『蓮くんの絵、凸凹してるね』と笑っていた彼女。

​「……そうか」

​ 僕は画材箱をひっくり返した。

 使わずに放置していた、盛り上げ材(モデリングペースト)の大きな缶を見つける。

 油絵具に混ぜて、厚みを出すための画材だ。

​ 僕はパレットナイフを握った。

 リストの最後。

 『初雪の降る朝』。

​ 僕はキャンバスに向かった。

 色はいらない。使うのは、白一色。僕にはグレーに見えるけれど、それでいい。

 ペーストを大量に掬い取り、キャンバスに叩きつける。

​ 盛る。削る。重ねる。

 雪が積もった屋根の厚み。

 木の枝にへばりつく雪の重み。

 そして、空から舞い落ちる雪片の、小さな粒状の突起。

​ それは絵画というより、半立体の彫刻に近かった。

 僕は目を閉じて、指先で画面を確認する。

 冷たく、ざらりとした感触。

 これなら、分かるかもしれない。

​ 数日後。

 僕は完成した、ずっしりと重いキャンバスを持って病院へ向かった。

​ 無菌室の受付で、看護師に頭を下げた。

​「お願いします。……この絵を、彼女に触らせてあげたいんです」

​ 当然、最初は断られた。外部のものは持ち込めない。

 だが、僕の必死の形相と、真白の母親の口添えもあり、特例が認められた。

 絵の表面をアルコールで消毒し、真白が医療用の薄い手袋を着けることを条件に。

​ ガラス越し。

 看護師が、真っ白なキャンバスを真白の膝の上に乗せた。

 真白は不思議そうな顔で、見えない目でそれを眺めた。

​『……蓮くん? これ、真っ白だよ?』

「ああ。……色はない」

『え?』

「触ってみてくれ。……目を閉じて」

​ 真白は言われた通りに目を閉じ、手袋をした両手をキャンバスに這わせた。

​ 指先が動く。

 ゴツゴツとした絵の具の山を乗り越え、点々と散らばる突起をなぞる。

 彼女の動きが、ゆっくりになった。

​『……あ』

​ 彼女の唇が動いた。

​『冷たい……』

​ それは消毒液の冷たさかもしれないし、絵の具の温度かもしれない。

 でも、彼女は何かを感じ取っていた。

​『これ……雪?』

「……そうだよ」

​ 僕はガラスに額を押し付けた。

​「君が見たがっていた、初雪だ。……積もってるだろ?」

『うん。……すごく、たくさん降ったんだね』

​ 真白はキャンバスを抱きしめるようにして、顔を寄せた。

 見えていないはずの瞳から、涙がこぼれ落ちた。

​『見えるよ、蓮くん』

​ 彼女は泣きながら笑った。

​『真っ白な世界。……静かで、冷たくて、でも、蓮くんが一生懸命描いてくれた、温かい雪』

​ 彼女の指先が、分厚い絵の具の凹凸を、愛おしそうに撫で続ける。

 それは、点字を読むように、僕の想いを読み取ってくれていた。

​ 僕の視界は灰色だ。

 彼女の世界は、霧の中だ。

 けれど今、僕たちの間には、確かに「真っ白な雪景色」が広がっていた。

​ 視覚を超えた繋がり。

 でも、それは彼女の身体機能が、いよいよ限界に来ていることの証明でもあった。

​ 帰り際。

 真白が、疲労の色が濃い顔で、けれど満足げに言った。

​『蓮くん。……リスト、全部埋まったね』

「ああ」

『私ね、もう思い残すことはないよ』

​ ドキリとした。

 その言葉は、まるで「終わりの準備ができた」と言っているように聞こえた。

​「……まだだ」

​ 僕は咄嗟に否定した。

​「まだ、一番大事なものを描いてない」

『え?』

「……君だ」

​ 僕は彼女を真っ直ぐに見つめた。

​「君の、最後の肖像画を。……僕のこの目に、色が戻らなくても、絶対に描いてみせる」

​ それは、画家としての最後の意地であり、彼女をこの世に引き止めるための、唯一の鎖だった。

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