​第11話 『黄金色の並木道と、翻訳された色彩』

​ 11月。

 街は秋の深まりとともに、鮮やかな彩りを纏い始めていた――らしい。

 僕、一ノ瀬蓮の目には、枯れ葉も、澄み渡る空も、すべてが寂れたセピア色の濃淡にしか映らない。

​ 僕は一人、神宮外苑のイチョウ並木に立っていた。

 真白のリストにあった『秋のイチョウ並木』を描くために。

​ キャンバスを立て、パレットを広げる。

 チューブには『レモンイエロー』『イエローオーカー』『バーントシェンナ』と文字が書いてある。

 知識としては分かっている。イチョウは黄色だ。

 だが、目の前の景色が「どの黄色」なのか、光の加減でどう変化しているのか、僕には判別できない。

​「……くそっ」

​ 筆が止まる。

 適当に塗ることはできる。でも、それでは駄目だ。

 真白が見たがっているのは、「黄色い絵」じゃない。

 「今、そこにある世界」の空気感だ。

 想像だけで描いた絵に、命は宿らない。

​「……何やってんだ、お前」

​ 背後から声をかけられた。

 振り返ると、制服姿の神崎海人が立っていた。

 彼は不機嫌そうにポケットに手を突っ込んでいる。

​「神崎……。どうしてここに」

「真白の母親に頼まれたんだよ。『蓮くんが無理してないか見てきて』ってな」

​ 神崎は僕のキャンバスを覗き込んだ。

 そこには、まだ輪郭線だけが描かれた、寒々しい並木道がある。

​「……進んでねえな」

「ああ。……色が、分からない」

​ 僕は正直に吐露した。

 強がっても仕方がない。

​「チューブの文字は見えても……この風景の『温度』が分からないんだ。どの黄色を使えばいいのか、影に何色が混じっているのか」

​ 神崎は呆れたようにため息をついた。

 そして、僕の隣にドカッと座り込んだ。

​「……貸せ」

「え?」

「俺が『目』になってやる」

​ 神崎は並木道を指差した。

​「いいか。……あそこの並木は、ただの黄色じゃねえ。夕日が当たって、もっと……なんて言うか、焼けたような色だ」

「焼けた色……オレンジに近いのか?」

「そうだな。……『カドミウムオレンジ』に、少し『茶色』を混ぜた感じだ」

​ 彼は美術部員ではない。色の専門用語なんて知らないはずだ。

 だから彼は、彼なりの言葉で翻訳を始めた。

​「影の部分は、冷たい感じじゃねえ。……落ち葉が積もって、ふかふかしてる。あったかい焦げ茶色だ」

「空は?」

「空は……抜けるような青だ。真白が持ってた、あの夏祭りの浴衣みたいな色」

​ 真白の浴衣。

 あの夜、一瞬だけ見た群青色。

 イメージが脳裏に弾けた。

​「……分かった」

​ 僕はパレットの上で絵の具を混ぜた。

 僕にはグレーの泥にしか見えない。

 だが、神崎の言葉を信じて、色を重ねていく。

​「もっと明るくだ。……あいつの笑顔みたいに、もっと眩しく」

「こうか?」

「ああ。……その色だ」

​ 男二人、並木道でキャンバスに向かう。

 端から見れば奇妙な光景だろう。

 でも、僕たちの間には、確かに「真白」という共通の色彩があった。

​ 一時間後。

 絵は完成した。

 僕には正解かどうか分からない。

 ただ、神崎が最後にボソッと言った。

​「……悪くねえな。あいつ、喜びそうだ」

​ その言葉だけが、僕にとっての確かな「色彩」だった。

​ その日の夕方。

 僕は完成した絵を持って、病院へ向かった。

 無菌室のガラス越し。

 真白はベッドに起き上がり、待ちわびていた。

​「……お待たせ」

​ 僕はガラスに絵を押し当てた。

 

 一瞬、真白が息を呑むのが分かった。

 彼女の瞳が大きく見開かれ、そして、ゆっくりと潤んでいく。

​『……すごい』

​ マイク越しの声が震えていた。

​『金色だ……。世界中が、金色に輝いてる』

​ 金色。

 僕が描いたイチョウ並木は、彼女の目にそう映ったのだ。

​『暖かいね。……木漏れ日の匂いがするよ』

​ 彼女はガラスに指を這わせ、絵の中の並木道をなぞった。

​『ねえ、蓮くん。……この絵、海人くんも手伝ってくれたでしょ?』

「……なんで、分かるんだ」

『分かるよ。……色が、優しいもん。蓮くんの繊細さと、海人くんの力強さが混ざってる』

​ 彼女は嬉しそうに笑った。

 痩せこけた頬に、少しだけ赤みが差したように見えた。

​『ありがとう。……私、今、イチョウ並木の下を歩いてる気分だよ』

​ 僕の視界は、相変わらず灰色だ。

 ガラスの向こうの彼女の顔色も、絵の具の色も分からない。

 でも、彼女が「金色だ」と言ってくれた。

 その事実だけで、僕の心は満たされていた。

​ 帰り道。

 病院のロビーで、神崎が待っていた。

 彼は僕の顔を見るなり、ぶっきらぼうに聞いた。

​「……どうだった」

「『金色だ』ってさ。……『力強い色だ』とも言ってた」

「ふん。……なら、いい」

​ 神崎は背を向け、歩き出した。

 だが、すぐに立ち止まり、振り返らずに言った。

​「……次は『初雪』だろ。雪が降ったら、また呼べよ」

「ああ。……頼りにしてる」

​ 僕たちは、もうライバルではなかった。

 一人の少女の命を、色彩という形で繋ぎ止めるための、共犯者であり戦友だった。

​ 季節は冬へと加速する。

 真白の体調は、日に日に不安定になっていた。

 リストの残りはあと一つ。

 『初雪の降る朝』。

​ しかし、神様は残酷だ。

 雪が降るよりも先に、彼女の目から「光」を奪おうとしていた。

​ 数日後。

 面会に行った僕に、真白は悲しげな笑顔で告げた。

​『ごめんね、蓮くん。……最近、目が霞むの』

『せっかく描いてくれた絵が……ぼやけて、よく見えないんだ』

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