​第1話 『放課後の美術室と、君だけのパレット』

​ 翌朝。

 目が覚めると、世界はやはり灰色だった。

​ 天井のシミも、窓の外の空も、制服の紺色も。すべてが同じ彩度のないグラデーションの中に沈んでいる。

 昨日の出来事は、僕が見た白昼夢だったのかもしれない。

 少女の指先から溢れ出した、あの鮮烈な「青」や「緑」。

 そんな魔法みたいなことが、現実に起きるはずがないのだ。

​ 僕は重い足取りで学校へ向かった。

​ 教室に入ると、いつもの喧騒が耳を打つ。

 クラスメイトたちの笑い声、机を引きずる音。

 僕は誰とも目を合わせず、教室の隅にある自分の席に座った。

 ヘッドホンをして、外界を遮断する。それが僕の処世術だ。

​「――ねえ、聞いた? 雨宮さん、また早退したんだって」

「マジ? 体弱いのかな」

​ 漏れ聞こえてくる会話。

 雨宮。

 その名前に、僕の手がピクリと反応した。

​ 雨宮真白。

 彼女はこのクラスの……いや、学年の中心にいるような女子だ。

 明るくて、誰にでも優しくて、成績も優秀。

 僕のような日陰者とは、住む世界が違う。

​ ガララッ。

 教室のドアが開いた。

 一瞬で、クラスの空気が華やいだのが分かった。色はないのに、そこだけ光が当たったように明るく感じる。

​「おはよー! ごめん、遅刻しちゃった!」

​ 雨宮真白だ。

 昨日の雨に濡れた儚げな少女とは別人のような、快活な笑顔。

 彼女は友人に囲まれながら、ふと、教室の隅にいる僕の方を見た。

​ 目が合った。

 彼女は一瞬だけ、いたずらっぽく片目を瞑ってみせた。

 ウインク。

 僕の心臓が、痛いほど跳ねた。

​ やっぱり、夢じゃなかった。

​ 昼休み。

 僕が机に突っ伏していると、コツコツと机を叩く音がした。

 顔を上げると、そこには誰もいなかった。

 代わりに、小さなメモ用紙が置かれていた。

​ 『放課後、第2美術室で待ってる。来なかったら教室で叫ぶからね』

​ 脅迫状みたいな呼び出しだった。

 丸文字の癖字。

 僕は深いため息をつき、メモをポケットにねじ込んだ。

​ 放課後。

 第2美術室は、旧校舎の奥にある。

 今は倉庫同然に使われている場所で、普段は鍵がかかっているはずだ。

 僕が美術部を辞めてからは、一度も足を踏み入れていない場所。

​ ドアノブに手をかけ、スライドさせる。

 油絵具と、埃の匂いが鼻をくすぐった。

​「……遅いよ、蓮くん」

​ 夕日が差し込む窓際に、彼女はいた。

 イーゼル(画架)に腰掛け、足をぶらぶらさせている。

 逆光で、彼女の輪郭が金色に縁取られて見えた。もちろん、僕にはグレーの濃淡にしか見えないけれど。

​「……何しに来たんだよ」

「約束、したでしょ? 専属画家になってって」

​ 真白はイーゼルから飛び降り、僕の目の前に立った。

​「断る。……言ったはずだ。僕には色が分からない」

「嘘つき」

​ 彼女は即答した。

​「昨日、私の手に触れた時。……蓮くん、泣きそうな顔してたよ? まるで、世界が生まれ変わったみたいに」

​ 図星だった。

 あの瞬間の感動は、言葉では言い表せない。

 渇ききった喉に、冷たい水が染み渡るような感覚。

​「……仮にそうだとしても、描けないよ。触れている間しか見えないなら、筆が持てない」

「じゃあ、こうすればいい」

​ 真白は僕の左手を取り、自分の頬に押し当てた。

​ ドッ、と音がした気がした。

 世界の色が、戻ってくる。

 美術室の床の茶色。使いかけの絵具のチューブの極彩色。窓の外の空の、切なくなるような茜色。

 そして。

 僕の手のひらに触れている、彼女の肌の温もりと、薄桃色の頬。

​「……見える?」

​ 彼女の唇が動く。

 その唇は、熟れた果実のように赤かった。

​「……見える」

「じゃあ、このまま描いて。左手で私に触れながら、右手で描けばいい」

​ 無茶苦茶な提案だ。

 でも、その色彩の暴力的な美しさに、僕は抗うことができなかった。

 目の前に広がる景色を、キャンバスに叩きつけたいという衝動。

 二年前に捨てたはずの「描きたい」という欲求が、身体の奥底からマグマのように噴き出してくる。

​「……どうして、僕なんだ」

​ 僕は震える声で聞いた。

​「絵が上手い奴なんて、他にいくらでもいるだろ」

「蓮くんじゃなきゃ、ダメなの」

​ 真白は僕の手を頬から離し、自分の胸元――心臓の上あたりに持っていった。

 制服越しに、トクトクという鼓動が伝わってくる。

​「……私ね、蓮くんの絵が好きだったの」

​ 彼女は少し寂しそうに笑った。

​「一年生の文化祭。蓮くんが描いた『灰色の空』の絵。……あれを見た時、思ったの。この人は、世界の寂しさを知ってる人だって」

​ 僕が色を失ってから、絶望の中で描いた唯一の絵。

 誰も見向きもしなかったあの黒い絵を、彼女は覚えていたのか。

​「私には時間がないの」

​ 真白の声が、少しだけ震えた。

​「あと半年。……冬が来る頃には、私はこの世界にいられないかもしれない」

​ 唐突な告白。

 冗談だと思いたかった。でも、彼女の瞳はあまりにも澄んでいて、嘘をついているようには見えなかった。

​「だから、残したいの。……私が生きていた証を。私が綺麗だと思った景色を」

​ 彼女は僕の手を強く握りしめた。

​「私の遺影を、最高傑作にしてよ。……お願い」

​ ずるい。

 そんなふうに言われたら、断れるわけがない。

 色を取り戻したいという僕のエゴと、生きた証を残したいという彼女のエゴ。

 二つの利害が、カチリと音を立てて噛み合った。

​「……モデル料は、高いよ」

「払うよ。……私の『一番大切なもの』で」

​ 彼女はニカっと笑った。

 夕焼けの中で、その笑顔だけが、僕の網膜に焼き付いた。

​ こうして、僕と彼女の秘密の契約は結ばれた。

 放課後の美術室。

 埃と絵具の匂いの中で、僕の止まっていた時間が、再び動き始めた。

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