『君の涙だけが、僕の世界に色をつけた』

さんたな

​プロローグ 『灰色の雨と、七色の君』

​ 僕の世界から「色」が消えたのは、高校受験を控えた冬のことだった。

​ 原因は不明。医者には心因性だと言われた。

 ある朝、目を覚ますと、世界はまるで古い白黒映画のように変貌していた。

 空の青も、木々の緑も、信号の赤も。

 すべてが、濃淡の異なるグレー(灰色)に塗りつぶされていた。

​ 大好きだった絵筆を折った。

 キャンバスを黒く塗りつぶした。

 色が分からない人間に、絵なんて描けるはずがない。

​ それから二年。

 高校二年生になった僕、一ノ瀬 蓮(いちのせ れん)は、ただ息をするだけの灰色の日常を過ごしていた。

​ ――あの日、あの雨の午後までは。

​ 六月。梅雨の冷たい雨が降る放課後だった。

 僕は傘をさし、通学路の公園の脇を歩いていた。

 視界は相変わらず、薄汚れた鉛色。

 雨音だけが、ノイズのように鼓膜を叩く。

​ ふと、視界の隅に異物が映った。

​ 公園のベンチ。

 屋根もないその場所に、一人の少女が座っていた。

 傘もささず、制服はずぶ濡れだ。

 彼女は、ただじっと、足元に咲く紫陽花を見つめていた。

​ もちろん、僕にはその紫陽花も、彼女の姿も、すべて灰色に見えている。

 けれど、無視して通り過ぎることはできなかった。

 彼女が、今にも消えてしまいそうなほど、儚げに見えたからだ。

​「……風邪、引くよ」

​ 僕は柄にもなく声をかけ、自分の傘を差し出した。

 雨音が遮られる。

 少女がゆっくりと顔を上げた。

​ 目が合った。

 大きな瞳。長い睫毛から、雨の雫が零れ落ちる。

 彼女は僕を見ると、困ったように微笑んだ。

​「……綺麗だなって、思って」

​ 彼女の指先が、雨に濡れた紫陽花に触れていた。

​「この紫陽花、すごく綺麗な青色なの。……私、この色が一番好きなんだ」

​ 青色。

 僕がもう二度と見ることのできない色。

 彼女の言葉が、古傷を刺すように胸を痛めつけた。

​「……そう。僕には分からないけど」

​ 僕は傘を彼女の手に押し付けようとした。

 その時だ。

​ 僕の指先が、彼女の冷たい指先に触れた。

​ ドクン。

 心臓が大きく跳ねた。

​ その瞬間。

 世界が、爆発した。

​ 僕の視界の中心――彼女の指先から、鮮烈な「光」が溢れ出したのだ。

 それは波紋のように広がり、灰色の世界を瞬く間に塗り替えていく。

​ 足元の紫陽花が、目が覚めるような「青」に染まる。

 公園の木々が、瑞々しい「緑」を纏う。

 そして。

​ 目の前にいる少女の頬に、ほんのりと差す血の「赤」。

 透き通るような肌の色。

 濡れた髪の、艶やかな黒。

​「……え?」

​ 僕は息を飲んだ。

 声が出なかった。

 二年ぶりに見る「色」のある世界。

 あまりにも眩しくて、美しくて、涙が出そうになるほどの鮮やかさ。

​ 僕は無意識に、彼女の手を強く握りしめていた。

 離してはいけない。

 離したら、またあの灰色の世界に戻ってしまう気がして。

​「……あの、痛いよ?」

​ 少女が驚いたように僕を見た。

 その瞳の色は、吸い込まれそうな琥珀色だった。

​「あ、ご、ごめん!」

​ 僕は慌てて手を離した。

 途端に。

 フッ、と世界から色が抜け落ちた。

 紫陽花は再び灰色に沈み、少女の唇からも色が消える。

​ やっぱりだ。

 夢じゃない。

 彼女に触れている時だけ、僕の世界に色が戻るんだ。

​ 呆然とする僕を、少女は不思議そうに見つめていたが、やがて何かを悟ったようにクスクスと笑った。

​「変な人」

​ 彼女は立ち上がり、僕の手から傘を受け取った。

 そして、僕の顔を覗き込んだ。

​「ねえ、君。……絵を描く人?」

​ ドキリとした。

 カバンからスケッチブックがはみ出していたのかもしれない。

​「……昔はね。今はもう描けない」

「そっか」

​ 彼女は傘をくるりと回した。

​「私、雨宮 真白(あまみや ましろ)っていうの。君は?」

「……一ノ瀬。一ノ瀬蓮」

「蓮くん。……いい名前」

​ 真白は、モノクロの世界で唯一、光を放つ存在のように見えた。

 彼女は一歩近づき、僕の耳元で囁いた。

​「ねえ、蓮くん。……もし、また世界に色をつけてほしいなら」

​ 彼女の声は、雨音よりも静かで、そして残酷なほど甘かった。

​「……私の、最後の専属画家になってくれない?」

​ それが、僕と彼女の、期限付きの恋の始まりだった。

 彼女の命の時計が、あと半年で止まってしまうことを、僕はまだ知らなかった。

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