​第2話:『私よりも「私」らしい女』

あの日から、私は家の中に閉じこもるようになった。

鏡を見られない。

洗面台に映る自分の顔が、あの「美姫」の歪んだ笑顔に見えて、吐き気がするからだ。

​しかし、冷蔵庫の中身が尽きた。

私は帽子を目深に被り、マスクをして、逃げるように近所のスーパーへ向かった。

​誰にも会いたくない。

近所の主婦たちに「あら、奥さん顔色が悪いわね」なんて言われたら、その場で叫び出してしまいそうだったからだ。

​足早に買い物を済ませ、レジに向かおうとした時だった。

​「あら、杏奈!」

​肩を叩かれた。

ビクリと震えて振り返ると、高校時代からの親友、由香(ゆか)が立っていた。

彼女は私の顔を見るなり、ぱあっと笑顔になった。

​「ちょうど良かった! さっきはありがとうね」

​「……え?」

​「とぼけないでよ。ほら、これ」

​由香が買い物かごから取り出して見せたのは、高級ブランドの紙袋に入った化粧品セットだった。

​「欲しかった限定コフレ、わざわざ買ってきてくれるなんて感激だよ。しかも『いつも愚痴聞いてくれてるお礼』だなんて、杏奈にしては気が利くじゃん」

​頭の中が真っ白になった。

私は、そんなものを渡していない。

そもそも、私は今日、一歩も家から出ていなかったのだから。

​「……由香、それ。いつ貰ったの?」

​「いつって……ついさっきだよ。駅前のカフェで会ったじゃん」

​由香は不思議そうに首を傾げた。

​「なんか杏奈、さっきより元気ないね? さっきはあんなにハイテンションで、『夫とラブラブで幸せ~』なんて惚気てたのに」

​――美姫だ。

​全身の血が引いていくのがわかった。

美姫が、私のフリをして由香に会っていたのだ。

しかも、私が普段なら絶対に買えないような高価なプレゼントを渡し、私が絶対に言わないような「幸せ自慢」をして。

​「ち、違うの……由香、それ私じゃない」

​私は震える声で訴えた。

​「私、今日ずっと家にいたの。駅前なんて行ってない」

​「は? 何言ってんの?」

​由香の表情が曇る。

​「だって、顔も声も杏奈だったよ? 服だって、あんたが気に入ってるベージュのワンピ着てたし」

​「違うの! それは整形した偽物で……!」

​「整形?」

​由香が呆れたようにため息をついた。

​「杏奈さぁ、最近疲れてる? それとも、私にプレゼントあげたのが惜しくなって、記憶喪失のフリ?」

​「違う! 信じてよ!」

​私はマスクを外した。

必死の形相で由香に詰め寄る。

​「これが本物の私! さっき会ったのは、私の顔を盗んだ愛人なの!」

​しかし、由香の反応は冷ややかだった。

むしろ、私の顔を見て、一歩後ずさった。

​「……なんか、怖いよ杏奈」

​「え?」

​「さっき会った杏奈は、肌もツヤツヤで、すごく綺麗だった。でも今のあんた、肌も荒れてるし、目が血走ってるし……まるで幽霊みたい」

​由香は不気味なものを見る目で私を見た。

​「どっちが本物とか知らないけどさ……今のあんたより、さっきの『杏奈』の方が、よっぽど友達甲斐があるわ」

​由香はそう捨て台詞を吐いて、去っていった。

私はスーパーの通路の真ん中で、立ち尽くした。

​負けたのだ。

「本物」である私が、「ニセモノ」の輝きに負けたのだ。

​親友でさえ見分けがつかない。

いや、むしろ美姫の方が、明るくて、気前が良くて、魅力的だと思われている。

私が三十年かけて築いてきた人間関係が、たった数日で上書きされていく。

​ブブッ。

ポケットのスマホが震えた。

通知画面には、知らないアカウントからのメッセージ。

でも、誰からかはすぐにわかった。

​『親友ちゃん、チョロかったよ(笑)』

​添付されていたのは、カフェで由香と楽しそうに自撮りをする「私(美姫)」の写真。

そこ写る彼女は、私よりもずっと「私らしい」笑顔を浮かべていた。

​『次は誰にしようかな。実家のお母さんとか、どう?』

​スマホを握りしめる手が、ギリギリと音を立てる。

実家。母さん。

あそこだけは、絶対に侵入させてはいけない。

でも、夫が私の実家の住所も、家族構成も、すべて美姫に流しているとしたら?

​私は走り出した。

スーパーのかごを放り出して、無我夢中で。

帰る場所なんてない。

でも、このままじゃ私の存在そのものが、この世界から消されてしまう。

​私にはもう、自分の顔を証明する術がないのだから。

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