​第1話:『私の服を着た、ニセモノ』

​眠れるはずがなかった。

夫の貴弘は、あんな残酷な告白をした後、平然といびきをかいて寝てしまった。

私は朝まで、ベッドの端で膝を抱えて震えていた。

​午前七時。

いつものアラームが鳴る。

​「……んー、よく寝た」

​貴弘が大きく伸びをする。

私の顔を見て、薄ら笑いを浮かべた。

​「なんだ、酷い顔。隈(くま)ができてるぞ」

​「……誰のせいだと思ってるの」

​「知らね。俺は飯食って会社行くから。あ、今日の夕飯いらないよ。美姫ちゃんと約束あるから」

​耳を疑った。

不倫がバレた翌朝に、堂々と愛人との予定を口にする神経。

この男は、もう私を妻として尊重する気など微塵もないのだ。

​貴弘が家を出て行った後、私はリビングで呆然としていた。

離婚?

もちろん考える。でも、証拠を集めて、弁護士を探して……そんな気力すら湧かないほど、心は摩耗していた。

​ピンポーン。

​不意に、インターホンが鳴った。

宅配便だろうか。

私は重い体を引きずって、モニターを覗き込んだ。

​心臓が、喉の奥で凍りついた。

​モニターの向こうに、私が立っていた。

​いや、違う。

私じゃない。

でも、そこに映っている女は、私と同じベージュのカーディガンを着て、私と同じ髪型をして、私と同じ顔で微笑んでいる。

​「……開けて? 杏奈」

​モニター越しに聞こえる声。

スピーカーを通したその声は、私の録音音声を聞いているようで、鳥肌が立った。

​美姫だ。

私の顔をした、あの女だ。

​開けたくない。

でも、ここで逃げたら、一生この恐怖から逃れられない気がした。

私は震える手でロックを外し、玄関のドアを開けた。

​「やっほー。久しぶり」

​ドアの向こうに立っていた「私」が、ニッコリと笑った。

​肉眼で見ると、その異様さは際立っていた。

鏡を見ているような錯覚。

けれど、鏡の向こうの私は、決してこんな下品な笑い方はしない。

​「……美姫、なの?」

​「他に誰がいるのよ。あ、すごい。本当にそっくり」

​美姫は遠慮もなく玄関に上がり込み、私の顔をまじまじと覗き込んだ。

そして、自分の頬をペチペチと叩く。

​「先生、いい腕してるわぁ。ダウンタイム痛かったけど、これなら元取れたかな」

​「……なんで」

​私は声を絞り出した。

​「なんで、私の顔なの。……気持ち悪い」

​「気持ち悪い?」

​美姫の目がすっと細められた。

その表情の変化だけは、高校時代の彼女の面影があった。

あの、私をゴミを見るような目で見下していた、いじめっ子の目。

​「あんたさ、高校の時からムカついてたんだよね」

​美姫が私を突き飛ばすようにして、リビングへと歩き出す。

​「地味で、暗くて、勉強しか取り柄がない貧乏人のくせに。……なんであんたが、あんな幸せそうな顔して生きてんの?」

​彼女は勝手知ったる様子でソファに座り、足を組んだ。

​「あんたの顔自体は、そんなに美人じゃないよ? でもさ、この『幸せボケした顔』がムカつくのよ。だから奪ってやったの」

​彼女はテーブルの上にあった私のマグカップを手に取り、まじまじと見た。

​「奪ってみて分かったわ。……あんたの人生、チョロいね」

​「返してよ……」

​「は? 何を?」

​「私の顔も、夫も、私の人生も……全部返して!」

​私が叫ぶと、美姫は私のマグカップを床に叩きつけた。

​ガシャッ!

陶器が砕け散る音が響く。

​「勘違いしないでよ」

​美姫が立ち上がり、私に近づいてくる。

私と同じ顔が、私を睨みつけている。

​「私が『本物』になったの」

​彼女の手が伸びてきて、私の髪を乱暴に掴んだ。

​「あんたはもう、劣化コピーなのよ。タカ君も言ってたでしょ? 私の方がイイって。……顔が同じなら、若くて、尽くしてくれて、夜も激しい方がいいに決まってるじゃない」

​彼女の顔が近づく。

私と同じ整った鼻筋。私と同じ形の唇。

それが耳元で囁く。

​「あんたの役目は終わったの。これからは私が『小早川杏奈』として生きてあげる。……あんたは、この家から消えて、私の元の顔みたいに惨めに死んでいけばいいのよ」

​彼女が手を離すと、私はその場にへたり込んだ。

足に力が入らない。

​恐怖だけではない。

圧倒的な「敗北感」があった。

彼女は、私の顔を手に入れるために、骨を削り、皮膚を切り、地獄のような痛みに耐えたのだ。

その狂気じみた執着(エネルギー)の前に、ただ平穏に生きてきただけの私は、あまりにも無力だった。

​「じゃあね、ニセモノさん」

​美姫は嘲笑うように手を振り、玄関へと向かった。

​「今日は顔見せに来ただけ。……次は、引導を渡しに来てあげる」

​ドアが閉まる音。

静寂が戻ったリビングに、砕けたマグカップの破片だけが散らばっていた。

​私は破片の一つを拾い上げた。

そこに映る自分の顔。

見慣れたはずの自分の顔が、今は恐ろしい「他人の顔」に見えた。

​私は悲鳴を上げて、破片を投げ捨てた。

鏡を見ることさえ、もうできない。

私のアイデンティティは、あの女によって完全に侵略されていた。

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