『愛人(あの女)の顔が、私と同じだった件。~夫は私の顔をした「別の女」を抱いている~』
さんたな
プロローグ:『私の顔をした、知らない女』
深夜二時。
寝室のサイドテーブルで、夫のスマホが短く震えた。
ブブッ、という無機質な振動音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。
隣で眠る夫、貴弘(たかひろ)は、深く寝息を立てている。
いつもなら気にせず眠り続けるところだ。
けれど、今夜はどうしても胸騒ぎがして、私は布団から身を起こした。
ここ数ヶ月、夫の帰りが遅い。
「残業だ」「接待だ」と言い訳をするけれど、帰宅した彼のシャツからは、微かに甘いバニラの香りがする。
私がつけている香水とは違う、安っぽくて、鼻につく香り。
(……見るだけ)
罪悪感を押し殺し、私は夫のスマホに手を伸ばした。
パスコードは『0521』。
私の誕生日だ。
まだ、変えられてはいない。
少しだけホッとして、私はロックを解除した。
画面が明るくなる。
通知が来ていたのは、LIMEのメッセージだった。
『今日はありがとう。タカくん、すごかったね♡』
心臓が跳ね上がった。
名前が表示されていない。アイコンも初期設定のままだ。
震える指で、トーク画面を開く。
そこには、目を覆いたくなるような甘い会話の履歴が並んでいた。
「愛してる」「早く会いたい」「妻とはもう終わってる」
典型的な、不倫の証拠。
けれど、私の指が止まったのは、最後に送られてきた「動画」のサムネイルを見た瞬間だった。
(……え?)
思考が停止した。
動画の再生ボタンを押す。
薄暗いホテルのベッド。
乱れたシーツの上で、夫に抱かれている女。
その女が、カメラに向かって、とろんとした目で微笑みかける。
その顔は。
私だった。
「……は?」
声にならない息が漏れた。
私だ。
どう見ても、私だ。
少しタレ気味の目。低い鼻。左の頬にある小さなほくろ。
ショートボブの髪型まで、今の私と全く同じ。
でも、私はこんな動画を撮った覚えはない。
そもそも、こんな淫らな表情で、夫の名を呼んだことなんてない。
『あ……タカくん、好き……』
スマホから漏れる声。
声質まで、私にそっくりだった。
でも、喋り方が違う。
私の声帯を使って、別の誰かが喋っているような、生理的な気味悪さ。
混乱で吐き気がした。
ドッペルゲンガー? 合成動画?
それとも、私が多重人格で、記憶がない間に夫とホテルへ……?
「……なんだ、見ちゃったの?」
不意に、背後から声がした。
スマホを取り落としそうになる。
振り返ると、いつの間にか目を覚ました貴弘が、暗闇の中で私を見上げていた。
焦る様子も、謝る様子もない。
ただ、ニヤニヤと楽しそうに笑っている。
「タカヒロ……これ、何? 私、こんなの撮ってない」
「当たり前だろ。これ、杏奈(おまえ)じゃないもん」
夫はあくびを噛み殺しながら、残酷な事実を告げた。
「そいつ、美姫(ミキ)ちゃんだよ。ほら、高校の同級生の」
美姫。
その名前を聞いた瞬間、古傷のような記憶が蘇った。
高校時代、私のことを「地味」「貧乏くさい」と散々いじめていた、あの女。
でも、彼女は私とは似ても似つかない顔立ちだったはずだ。
「なんで……美姫が、私の顔をしてるの……?」
「整形したんだってさ」
夫は事も無げに言った。
「俺が『杏奈の顔は好きなんだけど、中身がつまんないんだよね』って愚痴ったらさ、あの子、健気だろ? わざわざ数百万かけて、お前と同じ顔になってくれたんだよ」
夫が身を起こし、私の手からスマホを取り返した。
画面の中では、まだ「私の顔をした女」が喘いでいる。
「すごいぞ、あの子は。顔はお前なのに、中身は名器だ。お前みたいなマグロと違って、よく動くし、よく鳴く」
夫の指が、私の頬をなぞる。
その手つきは、まるで愛着のある「モノ」を触るようだった。
「良かったな、杏奈。お前はもう用済みだけど、お前の『顔』だけはずっと愛してやるから」
全身の血が逆流する音が聞こえた。
恐怖。屈辱。そして、殺意。
私の顔をした女が、私の人生を乗っ取ろうとしている。
そして目の前のこの男は、本物の私を捨てて、都合の良いコピー人形を選んだのだ。
「……ふざけないで」
「あ?」
「絶対に、許さない」
ギリリ、と奥歯が鳴った。
私の顔は、私だけのものだ。
あの泥棒女の皮を剥いででも、私の人生を取り返してやる。
深夜二時十五分。
私の平穏な結婚生活は終わりを告げ、
自分自身の顔を取り戻すための、泥沼の戦いが始まった。
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