第12話 名無しさん
(ここは……王宮?どういうこと?私、自分の部屋にいたはずなのに……)
リリーナは近くにいた王宮の使用人に声をかける。
「あの、すみません」
目の前で呼びかけているのに、使用人はまるでリリーナの存在を認めないかのように全く反応を示さない。
(どういうこと……?)
大広間から聞こえる音楽、貴族たちの話し声や足音。そこにすべてが存在するはずなのに、リリーナだけがその世界から切り離され、まるで透明人間になったかのような感覚に襲われた。
ふと大階段の奥を見ると、一人の女性が足早に去っていくのが見えた。
(あれは――私?)
リリーナらしき影にそっと近づく。
(私だわ……ということは、これはさっきの王宮の出来事?夢を見ているのね……まるで幽体みたいだわ!)
そう思いながら、過去のリリーナについていくと、彼女は裏手にある少し薄暗い階段へと向かって行った。そういえば他の参列者との雑談の中で、こちらの方に庭に通じる階段があるって話してたっけ……と思い出しながら薄暗い階段を降りようとする過去の自分を静かに見守っていた。するとカツン、カツン、とヒールの音が響いてきた。
「ねぇ!!! ちょっと!!!」
鋭く響いたその声に、過去のリリーナは思わず足を止め、反射的に振り向こうとした、その瞬間だった。
ドレスの裾が、ヒールにふっと絡む。
わずかな引っかかり。それだけで、過去のリリーナの体は大きくバランスを崩した。
「……え?」
その微かな声と同時に、支えを失った足が階段の空を踏み、彼女の身体はゆっくりと、しかし抗いようもなく傾いていった。
宙を舞う淡い緑。
何も掴めないまま伸ばされた手。
ヒールが階段を打つ乾いた音。
そしてーー鈍い衝撃音とヘレヴィアの悲鳴。
リリーナは震えるように息をのみ、先ほどの自分の体験とは決定的に異なる状況に背筋が冷たくなるのを感じていた。
(どうして……? さっきと違う……)
「リリーナ!!!」
リリーナを探していたカイルは、階段の方から聞こえる鈍い衝撃音とヘレヴィアの叫び声に気付き駆けつけた。
そのカイルの叫び声が、世界のすべてを切り裂くように響く。その声は、哀しみと絶望に満ちていた。カイルはほとんど転がるように過去のリリーナへと飛びつく。
けれど、リリーナはもう動かない。瞼は閉じられ、胸元は動かず、呼吸も――
「リリーナ、聞こえるか? リリーナっ!!」
震えた声が、彼女の名を何度も呼ぶ。必死に呼びかけるも、帰ってくることはない。ーー彼女は、もう。
リリーナはただその場に立ち尽くしていた。
けれど、カイルの悲痛な叫び声が胸を締めつけ、思わず手を伸ばす。
「カイル……」
カイルの肩に触れようと指先が伸びた、その瞬間
世界が、弾けるように白く染まった。
眩しさに思わず目を閉じ、そしてゆっくりと開けると、そこは先ほどまでの王宮とは全く違う場所だった。
あたり一面、果てのない白。地平も空もなく、風すら流れない。しかしその中心に――誰かが、静かに佇んでいた。
リリーナは息を呑む。
見覚えのある肩のラインに見覚えのあるダークブラウンの髪。
ゆっくりと歩み寄り、震える声で名を呼ぶ。
「あなたは……」
その人は、愛しいものを抱くような眼差しでリリーナを見つめた。
それはカイルだった。
けれどどこか違う。今より少し伸びた髪。顔つきは大人びていて、しかしほんの少しやつれているようにも見える。
「やっと……君に会えた」
その声を聞いた瞬間、リリーナの胸の奥がじんわりと熱くなる。
「あなたは……カイルなの?」
震える問いかけに、目の前の青年は静かに微笑んだ。
「そうだよ、リリーナ。」
そして、彼の瞳に深い悲しみが滲む。
「あれからもう……三年くらい経ったかな。僕はずっと、あの夜のことが忘れられなかった」
リリーナはその言葉の先を聞こうと、息をひそめた。
「何度も何度も考えたよ。もしあの時、僕が違う行動を取っていたら……君は無事だったんじゃないかって」
カイルの声が震える。
「あの時、君のそばを離れなければ。君を一人にしなければ……。そう思えば思うほど、今ここに君がいないっていう現実に、何度も押しつぶされそうになった」
その苦しみがあまりにも真っ直ぐで、リリーナはそっと彼の腕に触れた。
「そんな……あれはあなたのせいじゃないわ。私が勝手に……」
リリーナの言葉に、カイルは寂しさを含んだ微笑みを浮かべる。
「でも君が今、こうしてここにいる。このノートが、僕たちを繋いでくれたんだ」
彼の手には、リリーナが持つものとまったく同じエメラルド色のノートが握られていた。
「あなたが……名無しさんだったのね」
「そうだよ。最初はね、この不思議なノートの相手が、まさかリリーナ――君だなんて思いもしなかった」
カイルはノートを胸の前で軽く抱くようにして続けた。
「でも、ページに書かれた君の文字、書き癖、お気に入りのエメラルド色のインク……。読めば読むほど、どうしても君を思い出した。でもそんなはずないって思った。僕の方こそ、ついにおかしくなったんじゃないかって」
彼は苦笑し、そしてゆっくりとリリーナを見つめる。
「だけど……君の書く言葉の中に、僕との思い出や、婚約者としてのやり取りがたくさんあって、どうしても……過去のリリーナなんじゃないかって、そう思うようになったんだ」
その言葉を聞いて、リリーナはカイルの手を両手でぎゅっと握りしめた。
「あなたが、私を……そして私の両親を救ってくれたのね。もしあなたの忠告がなければ、両親も――」
リリーナの言葉に、カイルは首を振りながら答えた。
「君の世界のご両親は無事だ。その先のことは考えなくていい。辛い記憶なんて、ない方がいい」
リリーナはその優しさに触れ、ああ、この人はやっぱりカイルなのだ、と改めて実感した。
「本当なら、君の笑顔をこの目で見ることも、声を聞くことも、こうして手を握ることも、二度とできないと思っていた。でも、こうして君が僕の手を握ってくれる――うん、今の君が生きていてくれるなら、それで十分だ」
その言葉に、リリーナの瞳からぽろりと涙がこぼれた。
「カイル……あなたは――」
「リリーナ、もう大丈夫だよ。僕も、もう大丈夫だから」
カイルの瞳からも涙が零れる。その涙が白い床に落ちた瞬間、二人の周りに淡い光が集まり始めた。リリーナは、もうこの時間の終わりが近づいていることが分かった。
「また僕と会ってくれてありがとう。幸せに」
この空間に来た時はやつれて消え入りそうだったカイルの表情は、今や穏やかで晴れやかだった。その瞳には安心と、寂しさ、そして――言葉にできない感情が宿っている。
「私、カイルのことを愛してるの。カイルに出会えて本当に幸せよ。だから、あなたと出会った私も、あなたのことを愛していたし、幸せだったと思う」
その言葉を聞いて、カイルは涙をこぼしながら微笑んだ。
二人は、最後の瞬間まで手を離さず、しっかりと握り合っていた。
まぶたを開けると、そこは自分の部屋だった。机の上のノートには、淡いネイビーブルーのインクでこう書かれている。
『君の未来が、光で満ちますように。』
リリーナは涙に濡れた笑みを浮かべながら、そのページをそっと撫でた。
続けて、彼女も思わず書き添える。
『あなたもね。』
エメラルド色のインクが、光を受けてきらきらと輝いた。
次の日、風がやわらかく吹く午後。リリーナはカイルと並んで庭のテーブルに座り、香り立つ紅茶を口に含んだ。穏やかな時間。鳥のさえずり。
けれど――胸の奥のどこかに、言葉にできないざわめきが残っていた。
昨夜、あのノートの光に包まれて見た“別の世界”。あの悲しみも、絶望も、夢のように消えたけれど、確かに心に焼きついている。あの世界のカイルの、泣き叫ぶ姿。あの想いを、無駄にしてはいけない――そう思った、その時。
「……信じられない話かもしれないけど、ちょっと不思議な夢を見たんだ。」
カイルが静かに話し出す。
「僕たちの間に、とんでもなく悲しいことが起きる夢でね。夢なのに胸が締めつけられて……目が覚めても涙が止まらなかった。」
その言葉が、胸の奥で震える。
(――あなたも、見たのね)
リリーナはその思いを喉の奥に飲み込み、黙って彼を見つめ続けた。
「その夢の中で――未来の僕に会ったんだ。
そして君のことを、“幸せにしてくれ”って言ってた。何を言ってるのか自分でもよくわからないけど……どうしても君に伝えなきゃいけない気がして。」
「だから、改めて言わせて。
これから先、何があっても、僕は君を幸せにする。」
その言葉を聞いた瞬間、リリーナの瞳からぽろりと涙がこぼれた。
悲しみではなく――温かさの涙。別世界の彼の痛みと、目の前の彼の優しさが、一本の糸のように繋がっていく。
「……ありがとう、カイル。それだけで、もう十分幸せよ。」
リリーナは微笑み、そっとカイルの手に自分の手を重ねた。
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